第百十四話 異形の左腕
「ヴィッセン!あれはなんだ!?」
リンツは思わず、もう一人の側近の名前を呼んでいた。
それに、ぎょっとして反応するのはニーナだ。
「兄上!?我々以外の者は、この闘技場に入れないのではなかったのですか!?」
「うるさい!黙れ!今は、それどころではない!」
ニーナの抗議もはねのけ、リンツはヘラヘラと笑って隣に現れたヴィッセンに問う。
「ヴィッセン!リッターの左腕について説明しろ!あれは、いったいなんなんだ!?」
「んー……。おーほっ!こぉれはこれは、珍しい!!」
眼鏡をかちゃかちゃと弄り、テルドルフを見ているリッターの左腕を観察する。
その正体をすぐに突き止めたヴィッセンは、リンツに説明する。
「リッターさんの左腕。あれは人間のものではありませんねぇ」
「そんなもの、見ればわかる!なんだと聞いているんだ!」
「悪魔を憑かせているようですねぇ」
怒鳴るリンツに、やれやれと首を振って簡潔に答えを述べることにしたヴィッセン。
「あ、悪魔……だと……?」
「ええ。リンツ王子が私に作らせて、テルドルフさんに持たせたものと同じ悪魔です。まあ、私のは錬金術で作ったまがい物で、リッターさんのは本物のようですがねぇ」
悪魔とは、超常の存在である魔物である。
天使と対になる存在であり、天使に負けず劣らずの強大な力を持つとされている。
この王国で幅を利かせている宗教で、まず挙げられるのが天使を崇拝する天使教であることからも、その影響力が凄まじいことが分かる。
悪魔を崇拝する悪魔教は、エヴァン王国では主流ではないが、他の国では大多数を占めていることもあるほどだ。
リンツはそんな超常の力を手に入れようと、ヴィッセンに研究や実験をさせているのだが、作りだせたのはせいぜい低級も低級の悪魔くらいだった。
「本物の悪魔を、あいつは手にしているというのか……」
「ええ、そうですね」
リンツは身体を震わせる。
それは、恐怖ではなく、狂喜からくるものであった。
喉から手が出るほど欲しい力が、今目の前にあるのだ。
悪魔の力さえあれば、王となることだっていともたやすいものだろう。
「テルドルフ!リッターは殺さず、生きて捕らえろ!そいつの力は、これから私にとって重要なものとなる!!」
「兄上!いったい、何を……っ!?」
「ふん。リッターはやはりお前にはもったいない人材だな。あいつは、私の下でこそその真価を発揮することだろう」
自分が最も信頼を置く側近を堂々と目の前でかすめ取ろうとするリンツに声を荒げるニーナ。
しかし、それを受けてもリンツは馬鹿にしたように笑うだけだった。
さて、リンツの命令を受けたテルドルフであったが、リンツの命令に反応することはなかった。
冷や汗を垂らし、地面に降り立ったリッターを凝視していた。
「捕らえる……?悪い冗談だ」
向かい合っているだけで、凄まじい圧に襲われていた。
エヴァン王国騎士団長として数多の戦場を経験し、数えきれないほど勝利し続けてきた歴戦の猛者であるテルドルフが、恐怖していた。
別に、リッターが殺気をぶつけてきたわけではない。
じーっとこちらを見てくるくらいである。
しかし、それだけで猛烈な気持ち悪さを覚えていた。
「悪魔の左腕……。なんておぞましいんだ……」
「…………」
リッターはテルドルフの言葉を聞いて、ほんのわずか反応をした。
しかし、それは誰にも気づかれないほどの小さなものであり、そのすぐ後にはいつものリッターに戻っていた。
テルドルフの視線が注がれるのは、当然ながら異質に変化した彼女の左腕であった。
リッターの右腕は女性らしい細い腕で、とてもじゃないが強力な剣の使い手であると思われないようなほどきれいなものであった。
その一方、変貌した左腕は人間のものとは言えなかった。
白い肌は黒く変色し、綺麗に整えられていた爪は鋭く尖る。
腕そのものの大きさも変わってしまい、細腕からテルドルフの太い腕よりもさらに太く肥大していた。
その左腕は、名匠が鍛え上げたリッターの剣を容易く折った風の斬撃を、振るうだけで完全に相殺してしまったのである。
「お前は、いったい何者だ?まさか、悪魔……というわけでもあるまい」
「……お前には関係ない」
テルドルフの質問は、あっけなく一蹴されてしまう。
とはいえ、彼もリッターが悪魔だとは思っていなかった。
いくら擬態していたとしても、今までまったくぼろを出さなかったということは考えにくいからだ。
……実は、彼女が最悪の闇ギルド『救世の軍勢』の所属メンバーだとも、未だばれていないが。
「ずっと使うのはしんどいし……早く終わらせる」
「……そうか。私もフルブレッドを使うと少々疲れる。早期決戦には、賛成だ」
テルドルフの頭には、リッターを生け捕りにするという考えはなかった。
そんな余裕は微塵たりともありやしない。
もし、そんなことを考えて手加減でもしようものなら、次の瞬間に自分は命を落としているだろう。
娘のために、ここで死ぬわけにはいかなかった。
「むぅぅぅぅっ!!」
テルドルフは気合を込めて、風魔剣・フルブレッドを振るった。
そこから飛び出すのは、一つではなくいくつもの風の斬撃。
一撃でも当たればリッターの身体を容赦なく引き裂く威力を誇る凶刃が、複数彼女に襲い掛かった。
「とう」
それを、リッターは左腕を横に振るうだけでかき消す。
先ほどまでは一撃を受け止めるだけで精一杯だったのに、今では羽虫を払うような動作をするだけで風を霧散させることができた。
「く……ッ!!」
悪魔の力を宿しているのであれば、このような事態になることは予想できた。
しかし、実際にそれを目の当たりにすると、やはりうろたえてしまうことは避けられなかった。
それを隙と見たリッターは、猛然とテルドルフに走り寄る。
左腕の悪魔を解放しているからだろうか、その速度も先ほどよりも速くなっていた。
「ぐぉっ……!?」
ドゴンという重たい音と共に、リッターの左拳が地面に叩き付けられる。
人間離れした力によって、地面が激しく割れて瓦礫が飛び散り、闘技場全体が地震のように揺れた。
テルドルフは何とかその一撃を避けられたものの、飛んできた地面の破片が頭に当たり、一筋の血を流す。
「おぉ……」
リッターは思わず声を漏らす。
攻撃を避けられてしまったのでテルドルフに追撃をかけようとしたのだが、彼は自身に風を纏わせることによって、空中を飛んで自分から離れたからである。
フルブレッドには風を斬撃として放つだけでなく、そんな使い方もできるのかと感心した。
まあ、だからと言ってなんてことはないのだが。
「はぁ……はぁ……!」
テルドルフは息を荒げる。
いくらフルブレッドが他の魔剣と比べて燃費がいいと言っても、やはり魔剣は魔剣。多大な魔力を消費するのである。
「何をしている、テルドルフ!!遊びはもういいと言っているだろう!?」
そこに、リンツの怒声が飛んでくる。
先ほどまでの戦いとは打って変わり、リッターに押されているテルドルフにしびれを切らせたのだろう。
テルドルフは悪態をつきたくなった。
リンツは、リッターと向かい合って戦っていないからそんな無責任なことが言えるのだ。
一度、向かい合って殺気を向けられたら分かるだろう。
遊びなどしていたら、一瞬で首をもがれて死んでいることを。
「(……次で決めねばならんな)」
最早、テルドルフに残る魔力は少ない。
このまま戦っていたら、どんどん魔剣を使えなくなっていき、ついにはリッターの悪魔の左腕で仕留められてしまうだろう。
ならば、今撃てる最大の攻撃をするしかない。
「…………」
リッターも、テルドルフの雰囲気が決死のものに変わったことを感じ取る。
とはいえ、怯えもなければ緊張もない。
どちらが勝つかなど、すでに決まっていることなのだから。
テルドルフが構える魔剣・フルブレッドに、今までにないほどの風が集約する。
剣に纏った風は、轟々と音を立てて攻撃の時を待つ。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
テルドルフは目をカッと開き、リッターを睨み据える。
そして、フルブレッドを振りおろし、最大の風の暴力を彼女に撃ち放った。
「くっ……!す、凄まじい風だ……っ!!」
観客席にいるニーナでさえ、その髪を激しくたなびかせて脚に力を込める。
そうしなければ、吹き飛ばされてしまうかもしれないという恐怖があった。
安全な観客席にいるニーナでさえそうなのだから、暴風が迫ってきているリッターはもっと大きな重圧と恐怖が襲い掛かっているだろう。
「…………」
しかし、そんな心配をされているリッターはいつも通りだった。
確かに、悪魔を解放していなかったら危なかっただろう。
だが、左腕の悪魔を顕現させている今、負ける道理がなかった。
「なっ……!?」
最後の一撃を放って疲労困憊のテルドルフは、リッターを見て驚愕の声を漏らす。
彼女の悪魔の左腕から、ズズズッと黒い魔力が溢れ出してきたのだ。
それは、リッターの左腕を全て飲み込むようになるまで溜められる。
「フロード」
小さく、その技の名前を呟くリッター。
それに応えるように、黒い魔力は悪魔の左腕から解き放たれた。
そして、接近してくる暴風にぶつかりに行き、あっけなくそれを飲み込んでしまった。
「……は?」
戦いの様子を見ていたリンツが、思わず呆けた声を漏らしてしまうほどあっけなかった。
ぶつかり合ってしのぎを削り合うわけでもなく、なすすべなく黒い魔力に暴風は飲み込まれてしまった。
「……はっ」
自分の全身全霊、今持ちうる全力の攻撃を封殺されてしまったテルドルフは、愕然とするわけでもなければ泣くこともなく、ただ笑ってそれを受け入れた。
リンツの派閥に入ってから、今まで騎士として許されないような行為もしてきた。
感情を抱かないようにしていたテルドルフであったが、それでもやはり自分に対して強い怒りと失望を抱いていた。
そんな彼が、騎士として、男として全力をとして挑み、そして打ち破られたのだ。
何を、後悔することがあるだろうか?
「…………」
リッターが、テルドルフの前に立つ。
彼よりも小さな身長なのに、とてつもなく大きく見えた。
「……殺してくれて構わん。ただ、もしお前に私を憐れんでくれるだけの心があるのなら、一つ頼みたい。……私の娘には、手を出さないでほしい」
「…………?分かった」
テルドルフの言葉に、コクリと頷くリッター。
別に、彼に対して憐れむ心は微塵も抱いていないが、彼の娘に恨みはない。
ただ、マスターを害そうとしたテルドルフは許されないが。
ちなみに、自分をおぞましいと言ったことも大して気にしていない。
リッターの中ではマスターが自分のことをどう思うかが重要であり、他人にどう思われようが言われようがどうでもいいことなのだ。
久しぶりに悪魔の力を解放し、少々疲れた。
さっさとテルドルフを殺し、マスターに会いに行って癒されるとしよう。
そう思い、リッターは振り上げた悪魔の左腕を振り下ろそうとして……。
「お父さん!!」
幼くも強い声が響き渡り、リッターの腕を止めたのであった。
何だろうと首を傾げて声がした方を見ると、そこには見覚えのない子供と、彼女が心底欲する人物が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「……マスター」




