婚約破棄されました 三
三
レオナードはその日、とても気分が良かった。
長い間、自分の中でくすぶっていた憂いがようやく晴れたのだ。だから、学院がどこか閑散としている事も、教師が少しよそよそしいのも気にならなかった。というより、気付かなかった。
そんな彼でも、ただ一つ気になる事はある。
昨夜。クリスティアの罪とそれに伴う婚約破棄を、父である王に自分で報告するつもりだった。その為に謁見の申し出をしたのだ。なのに返ってきた返事は否。報告は臣下から受けたと、会うことも言伝を頼むことも出来なかった。婚約破棄が受理されたのかも分からない。早く愛しいリリシスと婚約したいレオナードにとっては、とてももどかしい状況だった。公の場でリリシスとの婚約を明言したから、彼女に手を出すような輩はいないだろう。分かってはいるが、早く彼女を自分だけのものにしたかった。
「レオナード様!」
愛しい声が聞こえて、レオナードの中にあった焦燥が消える。これ以上ないという程の笑みを浮かべて、レオナードは振り返った。
聖女祭が近く、今は国全体が忙しい。だから父も昨日は会えなかったのだろう。今夜もまた謁見の申し出をしようと、レオナードは心に決めた。
抜けるような空が広がっていた。遠くには、なだらかな稜線が描かれている。頬を撫でる、冷たすぎない風が気持ちいい。
フィリアの説明を聞き終えたクリスティア達は、アンゲルとの待ち合わせ場所に向かって街の中を歩いていた。まだ早い時間とはいえ、それなりに人通りがあって出店からは良い匂いがしている。心なしか、クリスティアの足取りも軽い。
「ハンナ。あのお店のサンドイッチを、お昼の為に買っていくのもいいかもしれませんわ」
「かしこまりました。種類があるようですが、何がよろしいですか?」
「強盗だー!!」
突然、怒声が二人の会話を裂いた。声のする方へ視線を向ければ、人混みをかき分けるように男が走ってくるのが見える。それもクリスティア達がいる場所に向かってだ。
「まあ。なんてお決まりな展開でしょう。そもそもこんな朝早くから強盗なんて、頭が悪いにも程がありますわ」
「お嬢様、ここは私が」
ハンナの申し出を、クリスティアは首を振って断った。
「ふふふ。冒険に出る前の肩慣らしに丁度いいですわ」
クリスティアはいつの間にか扇を手にして、向かってくる男へ歩を進めた。歩きながら確かめるように男を見る。
男の手元で何かが光るのが見えた時だった。
クリスティアの横から、一人の男が躍り出たのだ。男が作った風に、クリスティアの髪がさらわれる。あっという間に、強盗は躍り出た男に組み伏せられていた。だが、強盗は一人だけでは無かった。遅れてきたもう一人が、組み伏せた男に切りかかろうとしていたのだ。
クリスティアは扇を撫でるように軽く振った。その瞬間。クリスティアの足元から、薄氷がまっすぐ強盗達の元へ向かう。魔法を放ったクリスティアとハンナしか気づかない程度の物だが、突然足元が凍った強盗はバランスを崩した。受け身を取る事も出来ず、そのまま地面に鼻を強打して昏倒する。ちょっとスライディングもしていたので、顔の惨状は推して知るべしだろう。
「あら」
クリスティアは隙を作る程度のつもりだった。つもりだったのだが。思っていた結果と違って、一人で勝手に転んだ可哀想な人になってしまった。あんまりな結果だが、二人が犯罪者の安否を気にかける事は無かった。
「あまり運動能力の無い輩だったのでしょう。自業自得です」
「そうですわね。大捕り物の英雄は彼に譲って、わたくし達はサンドイッチを買いに行きましょう」
「かしこまりました」
クリスティアは扇を閉じると、何事も無かったかのように元来た場所へ向かった。
サンドイッチの出店は先程と変わらず賑わっていた。パンの焼けた香ばしい匂いに食欲がそそられる。野菜をたっぷり挟んだ物や、肉汁が滴りそうな肉が挟んである物など種類が豊富で目移りしてしまいそうだ。
「どれも美味しそうですわ」
「はい。いかが致しましょう」
「おい」
「この大きさですと、さすがに二つは食べられそうにありませんし。ここは別々の物を買って、半分こ致しましょう」
「おいっ」
「では、お嬢様のお好きな物を二つお選び下さい」
「あら、ハンナ。それではダメですわ。別々の人間が選ぶから楽しいのですもの」
「……かしこまりました。僭越ながら、私も選ばせていただきます」
「おい!!俺の声は聞こえてるだろ……っいてえ!!」
男の大きな声に、クリスティアは眉をひそめながら振り返った。横にいたはずのハンナが、いつの間にか移動して男の腕をねじりあげている。
「私の目の前でお嬢様に手を出そうとするとは、いい度胸ですね」
「っな!俺はただ、お前たちが無視をするからっ。呼び止める為に肩を、つかもうとした、だけだろう!」
息も絶え絶えになりながら男が弁明するが、ハンナは手の力を緩めない。むしろ、ぎりぎりと音がしそうだ。
「確かに聞こえておりましたわ。けれどわたくし、見ず知らずの方に、おいなどと呼ばれる趣味はございませんの。わたくしをお呼びでしたの?」
「お嬢様、このような不届き者と話す必要はございません。腕をへし折ってしまいましょう」
「それは、無理だと思うけどな」
どこか余裕のある声で男がにやりと笑った。ハンナが女性だからと高を括っているのかもしれない。ハンナから不穏な空気が漂い始めた時だった。
「おーい。俺に全部押し付けたかと思ったら、何楽しそうな事やってるんだ?俺も可愛い子ちゃんと手が繋ぎたい」
「うるさい、黙れ。どこをどう見たら、手を繋いでいるように見えるんだ」
軽い調子で新たな男が現れた。
一つに結んだ長い赤茶の髪。赤かと見紛う程の色をした瞳。どちらも光の加減で炎のように見える。まるで全身が燃えているようだとクリスティアは思った。二人の口調から、互いに知り合いなのも分かる。
「あー。なんかよく分かりませんが、どうせこいつが失礼な事でもしたんでしょう。謝りますんで、手を放してやって下さいませんかね」
クリスティアは扇で口元を隠しながら目を細めた。赤茶の瞳からは友好的な感情しか読み取れない。
「ハンナ」
クリスティアが呼ぶと、ハンナはねじりあげていた腕を放した。突然放されたからだろう。男がたたらを踏みながら、ねじられていた腕を振った。
「いってー」
「ったく。可愛い子ちゃんの手に触れるなんて羨ましいぞ」
「俺は嬉しくない。変態と一緒にするな」
言いながら男は乱れた服を直した。改めてクリスティアは男を観察する。
青味がかった短い黒髪。陽に照らされると夜明け前の空の様だ。そして何よりクリスティアの目を惹いたのは、深く濃い緑の瞳。森のように鮮やかで力強く、見ているとどこまでも吸い込まれていきそうな色だった。
男は身なりを整え終えると、クリスティアに向き直る。バツの悪そうな顔をしていた。
「先程はすまなかった。俺もあの後で、少し興奮していたみたいだ」
そう、この男はさっき強盗を組み伏せた男だった。遠目だったので顔までは見えなかったが、この国では珍しい黒髪だ。そうそういないだろうし、口ぶりからもさっきの男で間違いなさそうだった。
「……それで、わたくしに何のご用でしょう?」
「いや、たいしたことじゃない。あの強盗を捕まえる時に、君が放った魔法について話たかったんだ」
「さっきの魔法は見事だったからなー」
クリスティアは内心で少し驚いていた。彼らはクリスティアが放った物だと断定している。だが、あの時の魔法は放った事も、使った人間自体気づかれない様にしたはずだった。
「あら。なんの事だがわたくしには分かりませんわ。誰かと間違えておりましてよ」
「?いや、君だろう。何故隠す?それに、君は珍しい魔法の使い方をするな」
クリスティアは微笑を浮かべた。パチリと扇を閉じる。
「あまり、女性の秘密を暴こうとする物ではありませんわ」
そうして、ちらりとハンナへ視線を向けた。
「わたくし、人と待ち合わせをしていて急いでおりますの。それでは、ごきげんよう」
言うと、クリスティアは相手の返答を待たずに歩き始めた。
「あ、おい!」
後ろで男が何か言っているが全て無視する。変な男に目をつけられた物だ、とクリスティアは思った。
クリスティア達は、昨日アンゲルと約束した場所にいた。すでに馬車の準備も出来ていて、いつでも出発できる状態だ。
「絶好の旅立ち日和だな」
「遅いですわよ、アンゲル。わたくし達がいったいどのくらい待ったと――」
背後から聞こえたのんきな声に、文句を言いつつ振り返ったクリスティアは、言葉の途中で閉口した。
アンゲルが連れてきたのは、見覚えのある二人の男。それもそのはず。二人の男は、先程話しかけてきた変な男達だったのだ。なんてお決まりすぎる展開なのかと、クリスティアは辟易とした。ハンナに至っては、敵でも見るかのような目で見つめている。
「おー。さっきの可愛い子ちゃん」
「黙れ変態。それにしても、アンゲルが言っていたのは君たちだったのか」
「そのようですわね……」
「ん?なんだお前ら、知り合いだったのか?」
一人状況の掴めないアンゲルに、クリスティアはげんなりした顔を向けた。
「ええ、先程少し。名前も聞いておりませんので、知り合い、という程ではありませんけれど」
「なるほど。さっきの強盗を捕まえた現場に、クリスティア嬢もいたのか」
こくりとクリスティアは頷いた。アンゲルが遅れたのも、彼らが強盗を捕まえた事で手続きをしていたからなのだろう。
「んじゃあ、とりあえず名前からだな。こっちの黒い髪がロイで、そっちの赤茶がエルだ」
ロイは軽く会釈して、エルはひらひらと手を振っていた。
「わたくしはクリスティアと申します。そしてこちらがハンナ。わたくしの侍女ですわ」
「ああ、宜しく。それで、君の事はクリスティアと呼んでも?」
「ええ、かまいませんわ。わたくしもロイとお呼びしても?」
「それで頼む。様付けで呼ばれても、むず痒くなるだけだ」
「俺はエル様って呼んでくれても良いですよ。可愛い子ちゃんの様づけとか、男の憧れ!」
「あー…。この馬鹿は無視してくれ」
「そうさせていただきますわ」
「俺の扱い、雑すぎません?」
一通りの挨拶を終えると、二人は荷物を馬車へ積みに行った。ハンナもそれに付き添っている。
「どうだ。面白い奴らだろ」
忍び笑いをした声に、クリスティアは馬車を見つめながら半眼になった。
「アンゲルの知り合いは、油断ならないと確信しましたわ」
「はははっ。まあそう言うな。あいつらは役に立つぞ」
「そのようですわね」
クリスティアの魔法を見破ったくらいだ。魔法について確かな腕を持っているのは確実だろう。それに、二人のあの身のこなし。ただ歩くだけでも無駄のない動きは、彼らが相当な武術の使い手なのも分かる。
「ああ、それとハロルドから伝言だ。クリスティア嬢達が冒険者になった事は、親父さん達にはしばらく黙っとくってよ」
その言葉に、クリスティアは馬車からアンゲルへ視線を移動させた。思わず笑みが零れる。
「ハロルドにお礼を言っておいて下さいな」
「ああ。……おっと、あいつらの準備が出来たみたいだぞ」
再び馬車を見やれば、ハンナがクリスティアを呼ぼうとしていた。頷いて、アンゲルと一緒に馬車へ近づく。馬の手綱はエルが握っていた。
「馬の扱いは俺に任せてくださいな。可愛い子ちゃんの扱いと一緒で、得意なんですよ」
「それはとても不安になりますわね」
「酷いっ!俺の心は今、ガラスの様に砕け散ったんだけど?」
「では、そのまま粉々にしておいて下さいませ」
言いながら馬車に乗り込むと、アンゲルに向き直った。
「気を付けて行けよ」
「ええ、アンゲルもお気をつけて」
「クリスティア嬢に心配される様じゃ、俺もまだまだだな」
にやりと笑いながら、アンゲルが肩を竦めた。そうして馬車から少し距離を取る。
「さて、お嬢様?オーストル国の国境まで村を二つと国を三つ超えるから、覚悟しておいて下さいよ」
「エル、わたくしに敬語は不要ですわ」
「なるほど。じゃあ、遠慮なく」
「それと、村や国を越える必要もありませんわ」
その言葉にエルが片眉を上げた。
「必要ないとは?」
ロイの言葉に、クリスティアは不敵に笑う。
「こういう事、ですわ」
ふわり、とクリスティアの髪が舞う。同時に馬車を中心にして魔法陣が浮かびあがった。一瞬にして視界が光に染まる。光が治まった時には、周囲が一変していた。目の前に鬱蒼とした森があったのだ。薄暗くて奥行までは分からないが、どこまでも綺麗に左右へまっすぐ広がっている様は、まるで境界線だ。振り返れば、草原が続いた先に城壁が見えた。
「っこれは転移魔法?」
「へえ。という事は、この森はもしかしなくても魔の森か」
「そうですわ」
ロイとエルの言葉にクリスティアは頷いた。
魔の森とは、ハルレイシアとガラハムの間にある森だ。獰猛で力の強い魔獣が住んでおり、魔力が森に満ちているせいか、方向感覚を失ってしまう事もある危険な森だった。そのおかげで、ハルレイシアとガラハムが隔てられていると言っても過言では無かった。
「だがこれだと、魔の森の境国に不法侵入した事にならないか?」
「ふふふ。すでにこの国の王には、許可をいただいているので問題ありませんわ」
「いやいや。用意周到すぎるだろっ」
ロイの声を無視して、クリスティアは魔の森へ視線を向けた。自分が高揚しているのが分かる。これからが楽しみで仕方ないのだ。逸る気持ちを落ち着けようと思うが、自然と口元が綻ぶ。
そんなクリスティアを乗せて、馬車はゆっくりと魔の森へ向かって進んで行った。