婚約破棄されました 一の二
食堂を出たクリスティアは、そのまま校門に向かった。
そこにはすでに、エストリオ家の家紋が入った漆黒の馬車が止まっている。馬車の前には、侍女のハンナが労し気な表情を浮かべて立っていた。だが、すぐにクリスティアの額の傷に気付くと、瞳に剣を滲ませる。
「あの愚王子。よもやお嬢様に傷をつけるとは」
いつも冷静沈着な彼女がここまで怒りをあらわにするのは珍しい。
「わたくしの為にありがとう、ハンナ。ですがこのくらいの傷、すぐに治せますわ。それに、想定内の事です」
「そういう問題ではありません」
ハンナは嘆息すると、ハンカチで血を拭ってくれる。そのまま馬車に乗り込み、クッションに身を沈めてようやくクリスティアは深々と息を吐き出した。
終わった。
そう、終わったのだ。この世界で決められた、自分の役目は。
「お嬢様、傷を……」
「ああ、そうですわね」
やはり緊張していたのだろう。向かいに座ったハンナに言われて傷をそのままにしていた事に気付く。額に手をあてると淡い光が一瞬零れ、手を放した時にはもう傷は跡形もなくなっていた。
この世界での、クリスティア・エストリオの役目。
それは、リリシス・レイトロン男爵令嬢をいじめ、おとしめ、最終的には破滅する事。逃れたくても逃れられない、神に定められた運命のような物だ。何故、クリスティアにそんな事が分かるのか。
その理由は一つ。
自分の前世を覚えているからだ。
前世の彼女は享年二十七歳。
雪深い夜。会社の帰り道に、スリップしたダンプカーに牽かれて亡くなったのだ。この世界とは似て非なる世界に住んでいた彼女。そして、そんな彼女の趣味の一つだったゲームのおかげで、クリスティアは自分の運命を知ることが出来たのだ。
そのゲームの名は、「わくドキ☆デスティニー」。なんだそのふざけた名前は、と思うが紛れもない事実。そんなゲームに登場する人や、世界観。はては展開が一緒なのだ。そうなればゲームの世界に転生したとは言わなくても、それに近しい世界に転生したのだと気づくものだ。
ただこのゲーム。分かる人には分かるかもしれないが、ただのゲームではない。いわゆる疑似恋愛が楽しめる乙女ゲームという物。ストーリーはありきたりな物で、平民生まれだが実は男爵家の庶子である事が発覚した少女。それも、光属性という希少な魔法使いである事も分かり、主に貴族の子息令嬢が通うエルシオンへ入学する事になる。そこで五人の攻略キャラと恋愛しながら卒業するという物だ。まあ、唯一変わっている事と言えば、主人公や攻略キャラにまったく魅力を感じられないばかりか展開もどうしてこうなったという物ばかり。 なのに何故か、設定だけは細かくしっかりしていた。
この世界の舞台は、人の暮らす大地ハルレイシア。精霊や魔族が住む大地シャリーゼ。獣人の治める大地ガラハム国。そして、竜人の管理する大地ミスティア国の四つからなっている。主に大きく分けたこの四つの大地に住む者同士は基本的に、互いに干渉する事はほとんどない。だからこの、「わくドキ☆デスティニー」に人族以外の存在が登場人物として出ることも無い。会話の中で国の名前や種族が出てくるだけだ。もしかしたら、製作陣は他の種族の地を舞台にしたゲームを、続編として出していくつもりだったのかもしれない。すでに死んでしまった彼女にはもう、確認する術は無いけれど。前世の彼女は、この設定とイラストが好きで買ったと思う。
そんなゲームの登場人物の一人が、クリスティア・エストリオ侯爵令嬢だ。クリスティアの役は分かりやすくも悪役。レイトロン男爵令嬢が誰かと恋に落ちるたびに、恋敵として立ちはだかる。けれど確か、前世の彼女はこの悪役令嬢が好きだった。ゲームをプレイしていて、可哀想になったのだ。ゲームの中のクリスティアの末路はどれも酷い物ばかり。国外追放から始まり、軟禁、果ては事故死やら他殺やら自殺など穏やかで無い物まである。だから、少しでも救われる終わり方が無いかと全員のルートを攻略したが……。結局、悪役が救われる話など無く。やりこんで彼女はガッカリしていた。
そんな彼女の記憶が、色褪せる事無く鮮明にクリスティアの中にある。いつ気が付いたのか分からない。たぶん生まれた時からあったのだろう。物心つく頃にはすでにあったし、前世の記憶に対する違和感という物も無い。けれど、だからと言って前世と今の自分がまったく同じな訳では無い。自分の性格の形成に多分な影響を与えているとは思うが、前世の彼女と自分は違う。情報として記憶があると言った方が正しいと、クリスティアは思っていた。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
無表情のまま聞いてきたハンナだが、彼女が自分の事を本当に心配しているのだとクリスティアには分かる。
「大丈夫、とはさすがに言えませんね。でもハンナ、わたくしはこうなって良かったと思っているのです。そもそもあんな傲慢な方、こちらから願いさげですわ」
言いながら不敵に笑うクリスティアに、ハンナは苦笑した。
幼い頃は、自分の未来を変えようとした事もある。けれど結局、第二王子の婚約者になり、互いの間に政略結婚以上の感情が芽生える事は無かった。いや、それ以上に彼には疎まれるようになった。
だからクリスティアは決めたのだ。
決まった未来。ならば自分は、物語が終わるその時まで役目を演じよう。さすがに人をおとしめるのは自分の矜持に反するのでしないが、正しい事を言ったからと言って、相手が悪意を持たないとは限らないのだ。そして決まった未来で役目が終われば、クリスティアは自由だ。そこから先、運命などに文句は言わせない。
早く屋敷に戻って、父と話すのが今から楽しみだった。
王宮のそば近くにあるエストリオ家の屋敷に着くと、クリスティアは老齢の男に迎えられた。エストリオ家に長く使える執事長の、リヴァイ・ハーバートだ。
きっちりまとめられた、真っ白な髪。薄茶の瞳は、いつも怜悧な光を宿していてどこか冷たい印象を与える。けれどその彼が、今日は暖かな色を瞳に宿しているのだ。自分の事を案じてくれいているのだという事はすぐ分かる。
「お帰りなさいませ、お嬢様。旦那様はすでに自室にてお待ちでございます」
「ただいま、リヴァイ。このままお父様の所へ向かいますわ」
「かしこまりました。では、荷物はお部屋に運んでおきましょう」
クリスティアは頷くと、ハンナを連れ立って父の部屋へ向かった。
父の名は、シュナイケル・エストリオ。
この国の侯爵の一人であり、宰相として王の片腕を担う存在だ。それだけでなく、魔法士の育成も父が管理している。王に次ぐ権力を持っていると言っても過言ではない。その為、父は忙しい。特にこの時期は国にとって重要な仕事の為に多忙を極めていた。本来ならこんなくだらない事で煩わせたく無かったが、王族が関わっているのだから仕方ない。
重厚な扉の前にたどり着く。ここが、父シュナイケルの部屋だ。深く息を吸って、クリスティアは姿勢を正した。
「お父様、クリスティアです。入っても宜しいですか?」
「どうぞ」
低く、耳に心地よい落ち着いた声が返ってくる。クリスティアは、ハンナに扉を開けるように目で合図した。
「失礼致しますわ」
部屋に入ると、シュナイケルだけでなく四つ離れた一番上の兄、ジルベルト・エストリオがいた。
短く切った、サラサラの銀に近い金の髪。空を思わせる青い瞳。いつも微笑を湛えた口元。整った顔立ちで、世の女性の注目を集めている。
「あら、ジルお兄様までいらっしゃるとは思いませんでしたわ。領地の方は宜しいのですか?」
クリスティアの言葉に、ジルベルトはふわりと笑う。
「クリスティアの一大事だ。何よりも優先させるに決まってる」
ジルベルトは優秀だ。確かに彼ならば、いくら今が国全体慌ただしい事になっていても、少しくらい領地を離れた所で問題は無いだろう。
「さて、クリスティア」
シュナイケルの声に、二人は気を引き締めた。
「リヴァイから報告は受けている。けれど、クリスティアが直接報告なさい」
「はい」
クリスティアはシュナイケルの言葉に頷くと、胸元に輝く大きなエメラルド色の石がはまったアミュレットを外した。
「第二王子と、その取り巻き達に糾弾されましたわ。それも、リリシス・レイトロン男爵令嬢を傷つけ、おとしめたとして」
言いながら、クリスティアは手元にあるアミュレットの裏側のスイッチを押した。同時に石が発光して、全員の目の前に映像が映し出される。紛れもなく、先程クリスティアがレオナード達に糾弾された時の物だった。
このアミュレットにはめられているエメラルド色の石の名は、映写石。その名の通り、あらゆる出来事をそのまま映像として記憶する事の出来る優れものだ。一回に記憶できる時間は使用する人間の魔力量に比例するが、最大で丸一日分の出来事を一つの映写石に保存する事が可能だ。前世の彼女の言葉を借りるなら、ビデオと呼んでもいいだろう。ただ、この映写石はビデオと違い、編集や改竄する事が出来ない。それは発動させるために、魔力を行使した者であっても例外ではない。公的な会談の時や、犯罪などの証拠として使われたりもする物だ。
記録していた映像が終わると、アミュレットの光が消える。クリスティアはアミュレットをシュナイケルに手渡した。
「……言葉も無いとは、この事だな」
「まったくです。それでクリスティア、傷は大丈夫かい?」
「ええ、馬車の中で治しましたわ」
「そうか、それなら良かった。それにしても、私の大切な妹に傷をつけるなんて……。彼らは死にたいのかな?」
顔は極上の笑みを浮かべているはずなのに、目が笑っていないせいでとても怖い。ジルベルトから氷のような魔力が溢れ、部屋の気温が数度下がろうかという時だった。
「クリスティア!!」
叫ぶように名前を呼んで部屋に入ってきたのは、先程クリスティアを糾弾した人達と一緒にいたリューゼ・エストリオだった。
ジルベルトと同じ金色の髪に空色の瞳。どこか獣を彷彿とさせる、精悍な顔立ち。そのせいか、ジルベルトとは違った意味で女性にもてる。
「リューお兄様。こちらにいらして良かったのですか?」
「当たり前だろう!」
言うが早いか、クリスティアはリューゼの腕の中にいた。正直言って苦しい。
「あの愚者どもには、適当に理由をつけて抜け出してきた。クリスティアを排除できたと思って有頂天になっているから簡単だったな」
「リューゼ、そろそろ放してあげなよ。クリスティアが苦しそうだ」
苦笑しながら、ジルベルトが助け舟を出してくれる。そこでようやく気付いたのか、リューゼはクリスティアを抱きしめる腕を緩めた。
「すまない。さっきの事があって、つい力の加減を間違えてしまった」
「……大丈夫ですわ」
ようやくクリスティアを放すと、リューゼはジルベルト達に向き直った。
「まったく、リューゼには困ったものだね」
「ジルベルト……。演技とは言え、嫌悪しか抱かない存在と一緒にいなければならない俺の気持ちも分かって欲しいね。しかも、あの場面にいながら何も出来ないのは拷問に近い」
少し肩を落として、リューゼが嘆息する。彼がレオナード達と一緒になってリリシスの側にいたのは、彼女に好意を持っていたからではない。全ては彼らの動向を探るためだ。
「これがあと半年も続くのかと思うと、眩暈がする……」
「でもまあ、今回の一件であと半年で済む事になったんだから良かったじゃないか」
「ふふふ。そうですわね」
「まあなー」
三人とも黒い笑みを浮かべた。まるで狩人が、今まさに獲物を狩るかのような雰囲気がある。
「まったく。たまに私はお前たち兄妹が心配になるよ」
シュナイケルは深々と嘆息する。そうしてリヴァイを呼んだ。
「さて、それでクリスティア。お前は今後どうしたい?」
シュナイケルがクリスティアに問う。その口元が不敵に笑っていた。クリスティアも笑みを深くする。
「わたくしの望みは決まっております。殿下との婚約を破棄し、しばらく旅に出ようと思いますわ」
「旅!」
まったく想像していなかったのだろう、慌てた声をリューゼがあげた。
「ええ、リューお兄様。わたくしは、この世界を見たいのです」
ジルベルトが思案気な顔になる。
「確かに、クリスティアは昔から世界が見たいと言っていたけれど……。半年後の準備はどうするんだい?」
「その事でしたら、すでに神官と話がついておりますわ。半年後のその時まで、わたくしにやる事はありません。エストリオ家にてやらねばならない事でしたら、しばらくあの二人を置いていこうと思いますの」
「あの二人か……」
あの二人とは、クリスティアの護衛騎士の事だ。クリスティアが見つけて育てた。ハンナに続く、家族以外にクリスティアが本当に信頼できる数少ない仲間だ。
「……よかろう」
「父上?」
シュナイケルの言葉に、ジルベルトがさすがに目を瞠る。
「あの二人なら二週間もあれば、必要な事は終わらせる事が出来るだろう。終わり次第、クリスティアの後を追えば良い。それまでは、ハンナと女性二人だけの旅になるが……。お前達ならば、大抵の事には対処できるだろう」
「ですが父上。女性二人だけの旅となれば、侮る者が必ず現れます。無用な争いに巻き込まれる事もあるでしょう。そのリスクは減らすべきではありませんか?」
「かもしれん。だが、ハンナとクリスティアの力は知っているだろう。これも経験だと思えばよい。それに、今は第二王子の件がある。逆に旅に出ていた方が安全な事もあるだろう」
「それは、確かにそうですね」
「ただし、二人と合流するまでは危険な事は絶対にしないように」
釘を刺すようなシュナイケルの言葉に、クリスティアは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「分かっておりますわ、お父様。危険な事は致しません」
私にとっては、という言葉を飲み込む。クリスティアの心情を察したのか、シュナイケルが胡乱気な視線を向けてきたが、微笑みを返すと嘆息した。
「それで、いつ出発するつもりだ?」
「荷物はすでにまとめていますので、このまま着替えたら出発しようと思いますわ。のんびりしていて、第二王子派に邪魔をされると面倒ですし」
「そうだな。……仕方ない。クリスティアはしばらく養生を理由に領地へ帰した事にしておく。陛下の方は、私に任せなさい」
「はい。ありがとうございます、お父様」
思い描いていた通りの結果を得られて、ほっとする。旅に出る事を反対される可能性も考えていたのだ。
「それにしても、半年後が楽しみだね」
楽しげな声にジルベルトへ視線を向ければ、最高の笑顔を浮かべている。だが、その目が全く笑っていない。それはリューゼも同じだった。
「ジルベルトの言う通り。本当に楽しみだなぁ」
「ええ、本当にそうですわね。ふふふ」
クリスティアも同意するように笑みを浮かべる。なのに三人の空気が絶対零度の冷たさを含んでいるのはきっと、勘違いではないだろう。
「やれやれ。私はお前達兄妹の未来が心配だよ……」
シュナイケルは嘆息しながら、引き出しから紙の束を取り出した。
「さて。私は早速、陛下と面倒な話をしてこよう」
うんざりしたように言うと、紙の束とアミュレットを手に部屋を出ていく。その顔が、声に合わないほど嬉々としているのは誰が見ても明らかだった。
「父さん、用意周到だな」
「クリスティアがおとしめられたんだ。陛下もさぞ楽しい話が出来ると思うよ」
それはシュナイケルだけだ、と言うのは誰も言葉にしない。クリスティアは不満気に息を吐いた。
「わたくし達の未来の心配なんて、お父様にだけはして頂きたくありませんわ」
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