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特設巡洋艦飛騨

作者: 山口多聞
掲載日:2015/05/07

『特設巡洋艦飛騨乗り組みを命ず』


 そんな辞令を貰ったのは、昭和20年の4月の頭でしたね。ちょうどラジオや新聞が米軍の沖縄上陸を報じている頃でした。


 私は2年前に高等商船学校を卒業したのですが、卒業後すぐに海軍に召集となり、そのまま少尉として特設砲艦と海防艦、さらに駆逐艦に乗り組みました。まあ、いずれも撃沈されてしまい、3度も海水浴を強いられましたが。


 それでも、仲間の船員の多くが死んでいった中、二度も死の淵から戻れたことに感謝しています。ただ、この辞令を受け取った時は、仏の顔もなんとやら。いよいよ今度こそダメかなと思いましたよ。


 艦は境港にいるって事だったので、私はその時は呉にいたので、広島経由で日本海側を目指しました。呉線、芸備線を乗り継ぎましたが、今思えばあれが原爆が落とされる前に見た最後の広島でしたね。


 綺麗で美しい街だったのですが……おっと、話がそれました。で、2日掛かりで境港へ行きました。もうこの頃には連日の空襲や警報の発令で、列車のダイヤは滅茶苦茶でした。それでもすし詰め列車で何とか行きましたよ。


 日本海側はまだ本格的な空襲を受けていなくて、境港も平穏な感じでしたね。ただ、この直ぐ後に良栄丸爆発事故で、街の3分の1が消失しましてね、ちょうど私らは海に出ていて命拾いしたわけですよ。


 で、私が乗り込んだ「飛騨」は境港に停泊していたわけですがね、驚きましたよ。日本にまだこんな立派な船が残ってたんだってね。


「飛騨」は全長が122m、排水量は7000tのある貨物船改装の特設巡洋艦でしてね。ああ、特設巡洋艦と言うのは、徴庸した商船に武装を施して巡洋艦とした船のことです。


 帝国海軍にもかつては特設巡洋艦がたくさんありましてね、日露戦争の時には特設巡洋艦の「信濃丸」がバルチック艦隊を一番最初に発見して、日本海海戦の勝利の立役者になりましたよ。前の戦争の時も、インド洋で通商破壊なんかしたと聞きましたね。ただ、戦争半ばを過ぎた頃には、もうこんな船が出る幕はなくなっていましたから、次々とただの運送船になってましたね。


 しかし、「飛騨」には前部甲板にも後部甲板にも大砲が積まれていて、対空機銃や魚雷発射管、それに水上機まで載っていて、本当に巡洋艦なみでした。


 私はこの船に、航海士官として乗り込んだのですが、乗った途端違和感を覚えましたね。なんといか、日本船らしい感じがしないんですよ。おまけに、あちこちに修理の跡がありました。それに、名前がそもそも特設巡洋艦なのに、丸がついていないのも改めて気になりましたね。


 で、着任の挨拶ついでに艦長に聞きましたらね、予感が当たってたんですよ。「飛騨」は元々ドイツ海軍の仮装巡洋艦だったそうで、横浜に停泊していた時に僚船の爆発事故で大破したそうなんです。


 で、その時ドイツ海軍が修理不可能と判断して、日本海軍にスクラップとして売り払ったとか。しかし、ちょうどその頃から日本の船舶事情が悪化したこともあって、日本海軍の方はなんとか修理しようと試みたそうです。


 幸いなことに、船体上部は壊滅的な被害を被っていたものの、船体自身と機関部の被害は思ったよりも軽傷であったため、早速ドイツ海軍から買い取って修理と改装を行ったそうです。


 普通外国の船って言うのは、予備部品がなくて修理などに梃子摺るのですが、幸いなことにドイツ海軍は横浜や神戸、それにスラバヤやペナンなんかに、自国製の修理部品や武器を持ち込んでいたので、これはなんとかなったそうですよ。


 ただ修理自体は長引いて、最終的に工事が完了したのは昭和20年も2月に入ってからだそうです。それで竣工すると特設巡洋艦籍に入って、「飛騨」と命名されたそうです。


 普通なら特設巡洋艦は民間から特設艦籍に編入した艦のみを指しますが、「飛騨」の場合は帝国海軍がドイツ海軍から直接購入した船となりました。だから本来は正式な巡洋艦籍に入ってもおかしくなかったそうです。


 しかし、まあ面子と言うものがあったのでしょうかね?帝国海軍の持ち物なのに、何故か特設艦籍に入りました。


 まあ、それはともかくとしまして。工事の終わった「飛騨」はすぐに内海から日本海へ向かい、そこで訓練を行って、最初の任務は大連へ向かうことでした。当時既に本土には満足に燃料もないので、比較的備蓄のあった大連へ取りに行こうとなったわけです。


 私が乗り込んだのは、まさに大連へ行くという時でした。


「飛騨」は特設巡洋艦の名に恥じない重武装でした。ドイツ製の15cm砲を6門に、3連装の魚雷発射管を2基、それに連装の12,7cm高角砲2基に、ドイツ製の20mm4連装銃や25mm機銃も搭載して、まるでハリネズミみたいでしたよ。


 ただ艦内の設備はと言えば、外観こそ元の形に近かったそうですが、戦時中の修理で内部はえらく殺風景でしたね。それでも、狭苦しい海防艦や駆逐艦よりは遥かに広く、ゆったりしていましたし、船体だって戦前のしっかりとした造りのものですから、当たれば轟沈確実なんていわれた戦標船なんかより、よほど安心感がありました。


 そんな中で、やたら豪華な貴賓室みたいな部屋が一室だけありましたね。当時の乗員の間では、満州に天皇が落ちのびられるために使う部屋なんて噂されましたよ。


 この頃は本土近海と言えど、敵機や敵潜水艦が跳梁跋扈していまいたからね、だから艦長は細心の注意を払って船を進めました。最短コースではなく、島や沿岸づたいに航海をしました。


 護衛はなしです。「飛騨」そのものが強力な武装をしているというのもありましたし、下手に速度の遅い船を付ければ、逆に攻撃を受ける可能性があるということでした。


 実際、独航の方が目立たなくて良かったかもしれません。


 そうしたおかげでしょうか、1週間は掛かりましたが、無事に大連に入港しました。そこで燃料タンクを一杯にして、さらにドラム缶にまで積めて搭載しました。とにかく、備蓄を少しでも浚っておこう。そんな感じでした。


 また、この頃は内地における食糧不足が深刻でしたから、空いた空間には大豆や麦、高粱を積めた袋を積みましたね。これで被弾したら終わりだろうなと、その時は思ったものです。


 大連を出た「飛騨」は往路とは逆コースで進みましたが、寄港地が境港から浜田市に変更になりましたね。その時は理由がわかりませんでしたが、さっきも行ったように「玉栄丸」の爆発事故のせいだったんでしょうね。


 1回目の任務は無事に終了しましたが、休む暇もなく今度は青島(チンタオ)行を命じられました。これには参りましたね。青島は大連と黄海を挟んで反対側ですからね。今度こそダメかとは、やはり思いましたよ。


 とは言え、予備とは言え私も軍人ですからね、今回は護衛艦である駆逐艦「花月」と一緒に向かいましたよ。


「花月」は新鋭の「秋月」型駆逐艦でしたが、「大和」と共に特攻出撃はせず、その後機雷による封鎖を避けるために日本海側に回航されてきたそうで。


 5月2日に我々は浜田市を出港しました。航路は前回と同じく、極力沿岸部に沿う形で航行しました。出港してからずっと、敵機や敵潜水艦への警戒しっ放しです。


 そして2日後、艦は朝鮮半島の仁川沖合いで針路を変更し、最大船速で黄海を横断しました。艦長は敵潜水艦に備えて、虎の子の水偵を対潜哨戒に発進させたくらいです。


 1回敵潜水艦発見の報が入り、すわ敵襲かと全員戦闘配置に付きましたが、すぐに流木の見間違えとわかり、安堵したものです。


 青島に無事に到着しましたが、いよいよ沖縄の戦況も悪化の一途を辿っていただけに、我々は物資の積み込みを急ぎました。


 駆逐艦「花月」は別任務があると言うことで、帰りは我々での独航となりました。それはそれは心細い帰路でしたね。今度こそ敵が来ると、皆戦々恐々でした。そして不幸にも、その予感は当たりました。


 黄海を横断し、朝鮮半島を沿いを南下していき、あと少しで対馬海峡という所で、敵の偵察機に見つかりました。長距離偵察のB24でした。


 総員戦闘配置が掛かりました。先の潜水艦騒ぎと違い、今度は偵察機に見つかったから確実に敵機が来ると思われました、そして3時間後、ついに敵機が艦上空に現れました。やはりB24です。


 この4発爆撃機はB29やB17程ではありませんが、米軍機らしく頑強で、多数の爆弾と銃塔で武装していました。こいつのために沈められた味方艦船は多数あります。


 そいつが都合5機やってきました。こっちが独航の商船であると思ったのか、少なめでしたが、それでも動きの鈍い艦船からすれば強敵であることに間違いはありません。特にこいつの行う反跳爆撃は強烈です。


 私は航海士だったので、船橋から見ているだけです。艦長は回避運動を行いながら、対空戦闘開始を合図しました。


 命令と共に、空中に指向できる対空火器が火を吐きました。さらに、敵機が低空で来るとわかると、主砲までもが砲撃を始めました。とにかく、持てるだけの火力を全てぶつけたんですよ。


 空中に次々と砲弾が炸裂し、さらに機銃の曳光弾も凄い迫力でしたよ。ただ、迫力は凄いのですが、敵機は中々落ちませんでしたけどね。対空戦闘て言うのは、見た目は派手ですけど高速の航空機相手ですから、中々当たらないものです。


 それでも、威嚇の意味では成功しました。敵機の動きに多少乱れが生じるのが、ブリッジからでもはっきりと見えましたから。


 敵の1回目の爆撃は全部失敗しましたね。それどころか、1機から黒煙が出たので、乗員皆手を叩いて喜びましたよ。しかし、すぐに機銃掃射のしっぺ返しが来ましたけどね。ですが反対舷の機銃がついに撃ち取りましたから、皆口々に「ざまあ見ろ!」ですよ。


 あれが日本製の25mm機銃だけでは無理でしたでしょうね。発射速度の速いドイツ製の機関銃様々です。


 4機になったB24は一端距離を取りましたね。こちらの対空火力が強力であることに気づいて、作戦を練り直したのでしょう。2機ずつに分かれて両舷から向かって来ました。


 挟み撃ちですよ。こうなると、速度の遅い船は逃げられません。しかし、艦長は冷静でしたね。


「主砲水平連続射撃!」


 命令と共に、主砲が轟然と射撃を始めました。一番近い砲の砲員が次々と砲弾を装填しては、空薬莢が床に転がるのが見えました。


 B24は再び反跳爆撃を試みようと低空を突っ込んできますが、その鼻先に主砲の砲弾による水柱が立ちます。もちろん、相手は高速ですから中々当たりません。ですが、敵機が水柱に巻き込まれまいと少し高度を上げた瞬間を見計らって、今度は高角砲と機銃も咆えます。


 いやあ、先にもまして凄い迫力でしたよ。この時には艦内にしまわれていた陸戦用の軽機関銃や小銃まで引っ張り出した奴がいましてね、とにかく空に向けて放てる武器は何でも放つでした。


 もちろん、敵機だって負けていませんよ。機首や上部に搭載した12,7mm機銃で撃ってきます。こっちよりも口径は小さいですが、初速の速いこいつは凄まじい水柱を立てますし、人なんか当たれば木っ端微塵です。実際戦闘が終わって調べると、船体そこら中穴だらけでしたよ。


 しかし、敵機の内3機はこっちの砲火に怯んだのか、適当な所で爆弾を落としましたね。もちろん、あたるはずなどありません。


 残る1機、こいつが最後の強敵でした。砲火を物ともせず、薄っすらと黒煙を噴きながらもなおも突っ込んできました。こうなると、どっちが先に倒れるかの我慢比べです。


 敵機の右主翼にパッと被弾した閃光が見えたかと思うと、次の瞬間根元から折れるのが見えました。撃墜です。その瞬間、皆拍手ですよ。ところが、すぐにそれも止みましたね。なぜなら撃墜される寸前敵機が放った爆弾がピョンピョンと跳ねながら向かってくるのが見えましたから。


 いや、前に魚雷を受けた時以上に生きた心地がしませんでしたね。何せ爆弾が見えてますから。


 艦長は全速前進と面舵一杯で交わそうとしました。また砲も砲身が焼け付かんばかりに撃ちまくり続けました。


 ですが、さすがに小さな爆弾を撃破するなど不可能です。爆弾が船体の右側に吸い込まれる用とした瞬間、もうダメかと思いました。


 その直後、爆発音と凄まじい水柱が立ちましたね。物凄い音でしたが、少なくとも直撃ではないなと感じました。案の定、爆弾は命中直前の至近距離で跳躍力を失って着水し、そこで爆発したそうです。


 爆弾の破片によって負傷者が発生し、それから船体にも浸水が発生したそうですが、幸いにも致命的な打撃は受けずに済みました。


 手に余ると思ったのか、それとも爆弾が尽きたのかはわかりませんが、結局B24は引き上げていきました。いやあ、あの時の戦闘は今思い出しても痛快時でした。


 ただ痛快であっても、それが戦局に何か影響を与えるわけじゃないですけどね。我々は危機を脱してとにもかくにも、浜田市に入港することが出来ました。


 船は軽い損傷を受けましたが、この頃の日本にはそれすらも修理する余裕はありませんでした。本当に簡単な補修をしただけ、次の航海です。今度は朝鮮半島の元山行きを命じられました。現地に集積された大豆や米、高粱と言った穀物の引取りです。


 前回は燃料でしたが、今度は食べ物と来ました。まあ、仕方がありませんね。この頃の日本には、既にその食べ物すら、満足になくなっていましたから。戦後知りましたが、政府は本気で国民による反乱や革命を心配したそうです。


 もうここまで来たら、戦争どころの話ではないのでしょうが、我々は命じられたことをやるだけです。船の整備と弾薬の補給などを終えて、我々は6月1日に浜田市を出港し、今度は日本海を北上して朝鮮半島の元山に向かいました。


 日本海と言えど敵潜水艦はいますし、敵艦載機だって来ます。ただそれでも、こちらの方はまだ平穏でしたね。表向きですが。朝鮮半島に近づく直前「敵味方不明機接近」で戦闘配置が掛かりました。すぐにその不明機は去ったので、配置は解除されましたが、艦長たちは「ソ連機だったかもしれん」としきりに言ってました。


 ソ連が攻めてくるのでは、と言う噂が実しやかに流れていましたね。ただそれでもまだ中立条約を結んでいるから、その条約切れまでは大丈夫だろうと言うのが、あの頃の空気でしたね。


 6月3日に元山に到着し、慌しく日本向けの物資や便乗者を積み込みました。この頃既に関釜航路は封鎖されており、そのため日本行きの船は貴重でした。だから、本艦にも当初の予定にはなかった員数外の人間や、物資を積み込みましたよ。


 命令では、ここで海防艦や僚船と船団を組めとのことでしたが、艦長が猛反対して結局単独で日本へ帰ることになりましたね。船団に組み込まれて脚が遅くなったところを襲われるのを恐れたのでしょう。そして、実際そのために喪われた高速船も多かったのですよ。


 6月10日に新潟に入港し、荷物を下ろして再び元山へ行きました。

 

 そうして日本海を何度か横断して、日本本土に貴重な資源や食料を送り届けましたね。ほとんど輸送船ですが、この頃にはまともな輸送船が残っていませんでしたし、日本海に潜水艦以外の敵艦が現れる気配はありませんでしたから。


 しかしそうしている間にも、日本本土はマリアナから飛んでくるB29によって焦土と化していましたね。日本海側は平穏でしたが、それでも徐々に戦火は迫っていました。


 幸いにも「飛騨」が艦載機やB29に襲われることはありませんでしたが、まさかの形で火の粉は降りかかってきました。


 夏も真っ盛りの8月9日未明「飛騨」は、護衛である駆逐艦の「雪風」と共に、ちょうど朝鮮半島の元山まであと半分と言う海域に差し掛かっていました。敵潜水艦への対潜警戒こそ厳重にしていましたが、既に何度目かになる航海だったので、少しばかり慣れによる余裕がありました。


 しかし、通信室からの報告によって、それは吹き飛びました。


「ソ連が満州に侵攻しただと!?」


 艦長はじめ、皆驚きました。もちろん、私もです。ソ連が中立条約の延長を拒絶したことや、日本に侵攻するだろうと言うことは聞いていましたが、こうも早いとは。


「連中、廣島に米軍が新型爆弾落としたもんだから、それに乗っかってきやがったな!」


 誰かがそう言った言葉に、ハッとしました。この3日前に廣島に新型爆弾が落とされ、廣島が壊滅したことは、無線傍受でわかっていました。沖縄も既に陥落し、日本の敗勢はもうどうにもならない。


 だからこそ、ソ連は火事場泥棒的に参戦した。日本にはその火事場泥棒を跳ね除ける力さえありませんから。


 ソ連への怒りよりも、いよいよ日本もお終いだと本気で思いました。時を置かず、元山に停泊中の船舶から空襲を受けていると言う報告も入りました。


 元山に行くべきか、行かないべきか。部隊の指揮権は艦長にあったので、皆艦長の命令を待ちました。


「元山に行こう。命令は撤回されていない。空襲は終わっているかもしれないし、それに沈んだ船の乗員を助ける必要もある」


 こうして我々は、元山の港に向かいました。


 そして、昼前に入港したのですが、元山の港はヒドイ有様でした。敵機の攻撃を受けて撃沈された船や撃破された船がそこかしこにいました。


「救命艇降ろし方用意!」


 「雪風」と港内にわずかに残存する無傷な船と共に、我々は海上に投げ出された船員の救助を開始しました。


 救助中とは言え、何時ソ連機の再来襲があるとも限りませんからね、戦闘配備のままです。私も双眼鏡でずっと空を眺めていました。


 夕方、陽が沈んだところで救助作業を中止し、夜陰に紛れて脱出するよう命令が来ました。荷物の積み込みは全くなされませんでしたが、何時ソ連艦隊が現れるとも限りません。


 ところが、ここで問題が発生しました。ソ連軍が越境したことを知った日本人市民が次々と港に押しかけて来たのです。数千人はいたでしょうか。


 命令に従うならば、彼らを見捨てなければなりません。しかし、「飛騨」と「雪風」、それに僅かばかり生き残っていた海防艦や輸送船に分散させれば、何とかなるかもしれません。


 最高指揮官は本艦の艦長でしたので、艦長が口を開くのを、皆固唾を飲んで見守りました。


「同胞を見捨てるわけにはいかん。乗せられるだけせてやろう。ただし、日の出前には絶対に出港するぞ」


 こうして、市民の乗船のために全ての内火艇やカッター、湾内に残っていた艀などが動員されました。市民たちはまず、生き残っていた3隻の貨物船に乗せられ、それらが一杯になると2隻の海防艦に。それすらに乗れなかった500名の内400名が本艦に乗り込みました。

 

 まだ乗りたい人は相当数いたでしょうが、これ以上乗せている時間はないので、船団はここで乗船を打ち切り、緊急出港しました。


 駆逐艦「雪風」が先頭に立ち、続いて本艦、さらに後ろに3隻の大小貨物船に2隻の海防艦という7隻で船団を組みます。


 しかし出港直後、電探室から悲鳴が上がりました。


「水上電探に反応!11時の方向に反応あり!」


 ソ連軍は予想した空襲ではなく、艦隊で襲い掛かってきました。


「敵艦視認!巡洋艦1、駆逐艦1、海防艦3!」


 現れたのは「マクシム・ゴーリキー」型の重巡洋艦に、駆逐艦と小型の護衛艦の3隻。大規模な戦力とは言えませんが、それでも船団には脅威です。


「総員戦闘配置!民間人は艦内へ!」


 戦闘時には危険となるため、乗り込んできた民間人を艦内部へ収容し、その間に戦闘準備が済ませられます。主砲と魚雷発射管に要員がとりつき、いつでもソ連の軍艦に撃てるようにします。


「敵艦から降伏勧告が!」


 その通信室からの報告に、誰もが怒りの形相になりましたね。何様のつもりだと!


 まず「雪風」が突撃に入りました。歴戦の駆逐艦は久々の対艦戦闘に胸おどらせるように、物凄い勢いで突撃していきます。


「撃ち方初め!」


 本艦も負けていられません、主砲を発射して援護します。ソ連艦ももちろん、発砲してきます。


「敵弾遠弾です!」


「こちらの弾も遠弾です!」


「落ち着いて撃て!」


 訓練が不足しているせいか、こちらの弾は中々当たりません。ただ、ソ連軍のほうも同じなのか、敵弾も艦から遠くに落ちます。その後、少しずつ修正して弾着が互いに近づきます。


「こりゃどっちが先に命中弾を出すかだな」


 艦長のそのセリフが全てを物語っていました。私もひたすら先に命中してくれと祈りました。


 ドグワーン!


 命中弾による爆音と閃光が戦場に轟きます。


「敵艦に命中弾!」


 その瞬間、艦全体に歓声が上がりました。仮装巡洋艦である本艦が、なんと正規の巡洋艦相手に先に命中弾を出したのです。敵艦の前部主砲から薄っすらと黒煙が立ち昇っていました。


「一気に畳み掛けろ!」


 命中弾に勇気付けられたのか、こちらの主砲弾が続々と敵艦に命中し始めます。一方で、敵艦の弾はかなり至近まで来ていましたが、こちらの命中弾以降遠弾ばかりとなりました。もしかしたら本艦の命中弾は敵艦の射撃指揮装置を破壊したのかもしれません。


「よし、止めを刺すぞ!魚雷戦用意!」


 艦長の命令が飛びました。


「飛騨」には艦内に収納した61cm3連装魚雷発射管がありました。なんでも駆逐艦の予備用だったとか。誘爆の原因になるから降ろしてしまえという意見もありましたが、後生大事にとっておいたそれが、まさかこんな形で役に立つとは。


 ちなみに、「飛騨」に搭載されていたのは、戦後有名になる酸素魚雷ではなく、空気魚雷だったと記憶しています。


「撃て!」


 照準が付いた所で、魚雷が発射されました。白い雷跡を残して敵艦へまっしぐらに進んで行くのがはっきり見えましたね。


 敵艦もそれに気づいて回避運動を始めましたが、爆音とともに2本の水柱が高々と上がるのが見えました。もちろん、その途端に艦内は万歳と歓声で一杯です。私も「やった!やった!」と年甲斐もなく騒ぎましたよ。


 その時になって、突撃した「雪風」も戻ってきました。「雪風」は単艦で2隻の敵艦を撃破していたのです。しかも、自身はほぼ無傷で。


「最大船速で当海域を離脱する!」


 艦長の命令で、船団は燃える敵艦を放置して離脱しました。


 この時は撃破した敵艦がどうなったかは知りませんでしたが、戦後知った所では、3隻のうち巡洋艦と護衛艦は沈没し、残った駆逐艦は中破状態で沈没した艦の乗員を救助すると、ウラジオ・ストックに引き上げたそうです。


 この海戦のおかげで、ソ連軍は海上戦力の一部を日本海へ南下させねばならず、その後の樺太と千島侵攻が大幅に遅れたとか。もしこの海戦がなければ、日本は択捉島以南の島々や北海道まで喪っていたと、そう言う歴史学者がいると言う話も聞きましたが、我々にしてみれば本当に九死に一生を得たと言うところで、なんとか10日の夕方には舞鶴に入港できました。


 そして、再度出港を準備している間に、15日の無条件降伏を迎えました。ああ、やはり負けたかと思った反面、これからどうすればと思いました。


 多くの仲間が、復員のために船を降りることになりましたが、私は終戦後も残務整理要員として残され、さらに高等商船学校出身の予備士官という出自が幸いしたのでしょうか、そのまま今度は復員輸送に携わることになりました。


 乗艦は「飛騨丸」と改名され、武装を取り外して復員者用に居住スペースを増設した「飛騨」でした。


「飛騨」は巡洋艦であるから、接収対象であると言う声がソ連から出たと聞きましたが、日本とGHQはこの船はあくまで貨物船改造の特設艦であるということで、押し通したようです。ただ船は確かに特設艦籍に入ってましたが、どこかの船会社の所有と言うわけでもなかったので、所有は当初運輸省へ移されました。


 これは最初、復員輸送終了後は壊滅していた青函連絡船の代替になるためと聞きました。


 しかし、「飛騨丸」は曲がりなりにも本格的な貨物船です。しかも日本に残された数少ない大型の外洋航路に配船可能な船でした。


 そのため、復員輸送が終わるとそのまま運輸省から船舶運営会へ貸し出され、アメリカから貸与されたLSTやリバティー船とともに、運用されたそうです。


 そうですと言うのは、私は復員輸送終了後に新設の海上保安庁に移ったため、「飛騨丸」から退船したためです。


 その後「飛騨丸」は朝鮮戦争の米軍の輸送任務に投入され、その輸送に貢献したそうですが、沿岸部で触雷によって大破、全損となり解体されたそうです。


 「飛騨丸」は、前身はドイツの商船だったそうですね。その後国家の求めに応じて仮装巡洋艦となり、異郷の地で瀕死の重傷を負いながらも、再び国家の求めで復帰し、そして果てました。


 平和な時代だったら、一商船としてその船齢を全うしたのでしょうが。時代がそれを許さなかったのでしょうね。


 短い期間とは言え、彼女の乗員として働けたことは、私にとっての誇りです。


 長々と話しましたが、これが私の彼女に関する話の全てです。


 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 「飛騨」が「雪風」らと共に艦内に民間人を収容して、ソ連艦隊と戦う場面は燃えました。 戦争の敗北が決まっていても、一人でも多く民間人を助け、祖国に戻ろうとする展開は好きです。
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