5 東二
夜、もう十時になるかというところでチャイムが鳴った。そんな時間に訪問してくるような人間には、一人だけ心当たりがある。
塾帰りなのだろう、青木は制服姿のまま、満面の笑みで玄関に立っていた。何だか不気味で身構えると、その表情を崩さずに第一声、
「私、いいこと思いついたんだ!」
青木の『いいこと』は、そこまで良いことじゃないことが多い。しかしとりあえず彼女の言を待つことにする。
「田村さ、私のお弁当作ってよ!」
しばらく黙って、「おべんとうつくってよ」に他の意味がないかを考えた。思いつかなかったけれど、素直に問うとばかにされかねないので、とりあえず理由を尋ねてみる。
「……なんで」
「私、うちで一番家出るの早いんだ。父さんも母さんも大体もっと遅い出勤だし、妹はまだ給食だし。私のためだけに余計に早起きして弁当作ってくれてるんだよ」
「はあ」
つまり、「おべんとうつくってよ」は本当に「弁当を作れ」という意味らしかった。唐突すぎて、俺の理解はワンテンポ遅くなってしまっている。
「田村だって、自分のお弁当作った方が良いと思うの。買うといちいち高いでしょ。私の分作ってくれるだけで、母さんはもう三十分は遅く起きられるんだよ」
「……お前が作れば良いじゃん」
疑問をそのまま口にすると、思いついていなかったらしくぽかんと口を開けた。ついで少し顔を赤くして、早口で言う。
「いいじゃん。田村が作るんだから、ついでで。いつもうちのおかず食べてるでしょ。お礼と思ってさ」
つまりこれは、俺を毎朝ちゃんと起こし、塾に行かせるための口実なのだろう、と俺は推測する。人に頼まれた何かがあれば、それを無下にすることはできない。長い付き合いで、青木はすっかり俺の性格を掴んでいる。信用されていないのが少し悲しくもあるが、前科があるので仕様がない。
「……まあ、いいか」
「いいの?」
「あんまり大したもん作れないけど」
「いいよ!ご飯と何か一つでもおかずがあれば!」
ぱっと表情を明るくした青木に、俺は苦笑してみせた。
青木の思惑通り、俺はきっちり目覚ましをセットした時間に起き出し、台所に立つ。昨日のうちに食材も用意してある。ご飯と一つでもおかずがあればと青木は言ったが、人に食わせるとなればある程度のものは作らねばなるまい。あくびまじりに包丁を動かした。
七時半にチャイムが鳴る。昨日から引き続き、青木の制服姿だった。青木が、第一志望の高校に落ちてとても悔しがっていたのは知っているが、俺の母校でもあるその高校より、今の高校の制服の方が彼女には似合うと思う。セーラー服は男の夢ではあるが、ブレザーをすっきりと着こなした青木は、運動部だったこともあって、立ち姿がきれいだ。
「おはよう、田村」
「ああ、おはよう」
青木は、俺がすでに身支度を調えていることに一瞬驚いたようだったが、すぐに嬉しそうな顔をした。
「できるんじゃん、田村!」
この台詞は何度目だろうか。
「これな。一応抗菌シート敷いてあるけど、時期が時期だし、あんまり暑いところに置くなよ」
「うん」
差し出した弁当は、昨晩青木から預かった弁当箱に詰めた。女の子の弁当だから、あまり色気がないのもなとこだわっているうちに楽しくなってしまって、俺の家のタッパまで出してきてデザートをつけてある。一緒に作ったおかげで俺の弁当までなんだか可愛らしくなってしまって、完成した弁当を見て、何をやってるんだ俺はと少し肩を落としたことは、青木には言うまい。
「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
俺の返しに、嬉しそうに微笑んで青木は登校して行った。さて、俺も出よう。
高村先生は変な人だった。彼の名誉のためにあまり多くは言うまい、が少しだけ紹介をすると、彼はこの町を一歩も出ていないらしい。修学旅行などのイベントもすべてスルーして、大学もこの地域の国立大学を出た。学会に出るよう言われても、遠方には絶対に出て行かず、本当にこの町の中だけで生活をしている。もう意地だよね、と先生は笑ったが、何がそこまで彼をここに引き止めるのか、よくわからない。そのくせ生徒たちには、見聞を広めるように言うのだから、説得力の欠片もない。
「どこか、行きたいとは思わないんですか。今なら飛行機でも新幹線でも、すぐでしょう」
うーんと先生は首をひねる。
「だったら、徒歩の方が楽しくない?まあ、行かないけど」
よくわからん。
塾生も少なからず変人ばかりで、この学習塾にいる限り俺もいつしか染まってしまいそうで少し怖い。というより、ここにいて本当に、大学に合格できるのだろうか。
「高村先生って変な人だろ」
「ああ、まあ」
「だから、何とかなるような気がしている」
よくわからん!
まあ、実際模試の結果も上がってるしなと隣に座った浪人生は笑った。本当に変な学習塾だ。しかし、「アットホームな感じ」と表した青木の言は間違っていないように感じる。かといって内輪な感じがしないのは好感が持てた。なぜか旧帝大を志望する学生が多い高村塾である。やたら意識が高い。
この中にいて、俺は自分が元引きこもりであったことを少しずつ忘れていけるような気がしていた。青木の弁当を毎朝作り、彼女に渡してから家を出る。ときどき高村先生にペースを乱されつつも、勉強に集中する。この数ヶ月で忘れていた勉強の勘というか、そんなようなものを取り戻しかけていた。
……だというのに、そのきっかけを作ってくれた他ならぬ青木が俺を引きこもり扱いする。
弁当を作り始めてから、青木は空の弁当箱を渡すために、毎晩俺の家に寄るようになった。食べ終わった弁当は、そのままで良いと言ってあるけれど、彼女は毎日きれいに洗って俺に手渡した。一言二言しゃべって、家に帰っていく。それはいい。
塾の件を始め、青木の介入を許したせいか、彼女は俺の私生活を詮索するようになった。顔を合わせる度に、今まで何をしていたのか、ちゃんと掃除はしているか、今度家に上がってチェックして良いか。
「あのさあ。お前って俺のなんなわけ」
俺はとうとうあきれ果て、青木に問うた。なぜか青木は顔を赤くして、うつむいてもごもごと、俺の親父がどうだとか呟いている。
「なに、親父と再婚でもしたいわけ」
からかい混じりにそう言うと、はあ?と声を上げた。
「冗談でもやめてよね、そういうの!私は真面目に……」
「真面目に母親の真似事でもやってんのかよ」
なぜかいらついてきて、俺の声音は波立つ。青木ももちろんそれに気がついて、怖じ気づいたようにぼそぼそと。
「わ、私は田村にちゃんとしてほしくて」
「やってんだろ!」
そう叫んだあと、すぐに後悔する。何を情けないことを。一人で勝手にキレて、本当に子どもみたいだ。
「悪りい」
「う、ううん。私も、ごめん……。田村、最近頑張ってるもんね」
気まずい雰囲気のまま弁当のお礼を言われ、そのまま青木は帰って行った。
リビングに戻り、ソファに座る。本当はいつ青木が見に来たって大丈夫なように、リビングは以前のように片付き、掃除されていた。逆に言えば、ちゃんとしているからこそ青木に信頼されていないようでいらついたのだ。
反省と怒りが交互に押し寄せてきた。青木の過剰な介入と、彼女が心配してくれていることは分かるからそれを無下にした後悔とが、もやもやと俺の頭を支配している。ともかく近頃の彼女は調子に乗っているように感じる。俺が少し素直になったからといって、何でも言うことを聞くなどと思ってもらっては困る。本当に幼いころは、俺のことを「とうじにいちゃん」なんて呼んでいたくせに。あいつだって、自分で作りもせずに俺に昼飯を作らせているじゃないか。
いつしか怒りの方が勝ってきて、俺は翌日の弁当を作らないことに決めた。