4 聡実
玄関を開けて、「ただいま」と言った。かすかに「お帰りー」という声が聞こえてくる。
ブーツを脱いで、家に上がる。リビングに入ると、妹がごろごろと寝転がってテレビを見ていた。
「ただいま」
「お帰り」
「良いご身分ですねえ。今日一日中テレビ見てたの?」
妹は面倒くさそうに私を見上げた。
「そんなわけないじゃん。いいから、早く風呂掃除しなよ。今日姉ちゃんが当番でしょ」
「あんたさ、受験生の姉のために、代わりにやるよとか言えないわけ?」
「知らなーい」
仕方がないので、荷物を置いてから風呂場に向かい、浴槽に洗剤を吹きかける。こすらなくても汚れが落ちると宣伝されている洗剤だったが、我が家では基本的にそれを信じておらず、スポンジでこすって掃除をする。
漫然と浴槽の壁をこすりながら、私は今日のことを思い返していた。
「塾って、お前、そんなの通ってたのか」
田村は戸惑ったように言う。
「そりゃ、私も今年は受験生だもん。私も塾くらい行くよ」
「……そうか」
それからしばらく歩いて、私たちは塾にたどり着いた。田村が通っていたのは、全国にたくさんある大手の予備校だけれど、私は普通のおじさんがやっている小さな学習塾に通っている。
普通のおじさんと言ったって、国立大学出のもちろん頭の良い人だ。この学習塾と、大学の非常勤講師をしながら生活をしているらしい。高村塾というシンプルな名前。『田村』にちょっと似ているなと最初思ったのは内緒だ。小さなビルの二階を借りて、たった二部屋だけの塾だ。生徒数は私を含めて20余人、講師は二人ないし三人。
「おはようございます」
「はい、おはよう、青木さん、と」
顔を出したのは、いかにも人の良さそうなおじさんだ。白髪まじりの髪の毛が少し薄くなり始めている。目尻のしわが、柔和な感じを出していた。紺色のポロシャツに綿パンといういつもの服装。これが高村塾代表の高村先生である。
「はい。先週話した、田村くんです。今日は見学ってことで」
「うん。おはようございます。私はこの塾の代表の、高村伸行です」
「あ、はい。田村東二といいます。今日はよろしくお願いします」
戸惑っていたわりに、紹介をすると田村はきちんとあいさつをした。そういうちゃんとしたところに、私は嬉しくなってしまう。
「月謝だとかシステムについては昼に話すことにして、とりあえず午前中は、みんなに混じってやってもらうってことで、いいかな」
「はい」
返事をしてから、初めて田村は室内をきょろきょろと観察した。といっても、ただ机が並んでいるだけの部屋だ。大手ほどきれいじゃないだろうけれど、面白いものもない。しかし、この塾で私が一番気に入っているのは、奥の扉の向こうにある図書室だ。きっと田村も気に入るだろうと思っている。そう言うと、田村は少し興味を引かれたようで指し示した扉をちらりと見ていた。
田村が通っていた予備校がどのように授業を進めていたのかは知らない。私はそれまで塾というものに通ったことがなかったので、この塾のことしか知らないのだ。高村先生はそう変らないはずだと言ったが、他の子は結構感じが違うと言っていた。大手では、これほどまったりとしていないという。…まったりというと少し語弊があるだろうか。別に、レベルが低いことをしているわけじゃない。話し合う機会が多いのだ。
例題の解説を行ったあとに、しばらく各自問題を解く時間が与えられる。問題を解き始めた田村に、高村先生が話しかけた。
「どう?それ、三つくらいアプローチがあると思うんだけど」
「……三つですか」
問われて田村は、考えながら解き方を列挙した。先ほどの解説で出た解法は一つだけだ。二つはなんなく答えたものの、三つ目が思いつかないらしく、田村はノートを見つめて動かなくなる。
「結構簡単なやつを残すんだね、田村くん。今出した二つの方がややこしいと思うけど」
「……」
そして答えを言うことはなく、自分の机に戻る。田村の視線に構うことなく、何かの資料を読み始めてしまった。
「今日、どうだった?」
「なんか、変な人だな」
田村は難しい顔で首をひねった。けれども表情に反して、先生のことは結構気に入ったらしい。
「どうする?通う?」
思い切って尋ねると、田村は居心地が悪そうに顔を逸らした。私だって、他の人がいるところに彼氏を連れてきて一緒にお勉強なんて、恥ずかしいに決まっている。でもそれどころではないのだ。
「……考える」
「だめ。今決めて」
考えるのを待っていたら、また田村は部屋の中で数日過ごしてしまうのだから。厳しく言うと、田村は不機嫌そうに眉を寄せた。
「私、紹介者なんだから。早く返事したいの」
「……」
「今から、田村の予備校には行きにくいでしょ。うちなら、進みも調整できるし。料金もそんなに高くないよ」
しばらく田村は黙った。私もそれ以上は押せなくて、一緒に黙って歩いた。バスに乗るほどの距離でもなくて、二人で歩いて帰っていた。もうすぐ家が見えてくるころだ。
「……ねえ普段家で何してるの?ゲーム?」
場をつなごうとして、余計なことを聞いてしまったらしい。田村はますます不機嫌になって、乱暴に答えた。
「何でもいいだろ」
よくない。勉強してもらわないと、田村の父親に申し訳が立たない。
「頑張ろう?ねえ。おじさんに負担かけないようにって、国立目指したんでしょ?浪人してお金かかってちゃ意味ないじゃん」
「親父のためだけじゃない」
「じゃ、なおさらじゃん」
田村は横目で私を見て、尋ねた。
「お前、志望校どこなの」
話題を変えようとする田村に内心苛ついたが、私は志望の大学を言った。それは取りも直さず、田村が志望し、一度不合格になった大学でもある。田村は驚いたように一瞬目を見開いた。しかしすぐにその目を伏せて、さっと視線をそらす。
「……あっそ」
結局、それ以上話すことはなく、私たちはそれぞれの家に帰った。
「姉ちゃんいつまで風呂掃除してんの?」
妹が風呂場を覗き込んでそう言った。いつの間にか、私は浴槽を何週もしてスポンジを動かし続けていた。
次の日、高校に登校する。中学から継続してテニス部に入っていたが、春の大会で引退した。もうすぐ夏が来て、部員たちは真っ黒になるだろう。私はもうそれらとは無縁だ。今年は美白でも目指そうかな…なんて、そんな場合ではないけれど。
第一志望の高校には落ちたけれど、私は今公立高校に通っている。私の地域の公立高校は、推薦入試と一般入試が主な試験だが、定員割れをした場合だけ二回目の一般入試が行われるのだ。私はどうにかそれに滑り込んだのである。私立の高校は、私が落ちた高校よりレベルが高いか、それよりはるかに低いかの二択しかなくて、どうしても公立高校に行きたかったのだ。けれどもそうやって無理に入った高校は、一応進学校と謳い、入学にはそれなりの学力を要するものの、その進路は半数が推薦入試やAO入試、四分の一が専門学校や就職で、一般入試で大学を目指す生徒は残り四分の一しかいないようなところだった。
高校生活を送る分にはそれほど問題はない。テニス部もそこそこ強かったし、友だちにも恵まれた。しかし学校の授業だけで私の志望大学を目指すには、ちょっと厳しい授業体制ではあった。多くの生徒には、それほど進んだ授業は必要なかったのである。
だからこそ、田村において行かれるのではと焦ったのだが…。まさか引きこもりになったのは、私を待つためとかそういうことではあるまい。
田村の容姿は、お世辞にも「イケメン」とは言えない。背は低くはないが高くもないし、天然パーマの髪はしょっちゅうぼさぼさしているし、ニキビ面だった。しかし運動はよくできて、運動部にこそ入っていなかったが、体育の授業ではよく活躍したという。運動ができる男子というのはそれだけで恰好良く見えるものだ。近辺の公立高校一の進学校に合格するだけあって、頭も良かった。それに加えて、高校に入った頃からニキビが消えて、それなりに見える顔になってきていた。よもやモテるはずはないと信じたかったが、内心気が気でなかったことは否定できない。不安になるたびに、友人にしょっちゅう写真を見せては、「これはないわ」と言われることで安心しようとしたものである。彼にとっては知らないところでけなされて、甚だ迷惑な話だったろう。
「おはよう、青木。何ぼうっとしてるの?」
友人がやってきて、私の肩を叩いた。
「彼氏のこと」
「あの引きこもりの残念彼氏?」
「残念じゃないもん……」
余談ではあるが、毎回「これはないわ」と言ってくれていたのは一年のときからクラスが一緒のこの友人である。
放課後、高村塾を訪れる。この塾は全生徒のうち三分の二が現役生だ。もう机には何人かの生徒が座り、参考書とにらめっこをしていた。私も机に向かい、ノート類を取り出そうとしたところで、
「あ、青木さん」
今日も同じ色のポロシャツ(何枚も持っているんだろうか?)を着た高村先生が、私に声をかけた。
「こんにちは、高村先生」
「うん、こんにちは。あのね、昨日の田村くんだけど」
「えっ、はい!」
なんだろう。結局田村がここに通いたいかどうか、昨日は確かめることができなかった。何か問題でもあっただろうか…。
「明日からうちに通うことになったから。紹介、ありがとうね」
「…………えっ」
机に置こうとしたノートが、目測を誤って床に落ちた。