3 東二
情けない姿を見せてしまった。多分、青木は幻滅しているだろう。
「いや、そんなの、とっくの前からそうかぁ」
自嘲気味に呟いた。
どうしてこうなったのか、自分でもよくわからない。誰にも何も咎められないという状況が、こうさせるのか。ぼうっとしてると一日が過ぎて、何もせずに眠る。いつの間にか朝が昼になり、夜になり、次の日になっている。
まともな生活に戻ろうといつも思っている。朝起きられなかったけど今日の昼からは予備校に行こう、昼過ぎちゃったけど夕方から掃除をして気持ちを改めよう、結局何もできなかったけど今日はもう休んで明日から頑張ろう……。
「あー、だめだ……」
自己嫌悪に陥ったところで改めなくては全く意味はない。わかっているけど。
(わかってはいるはずなんだけどな)
青木が待っているかと、急いでシャワーを浴びて出ると、もう彼女はいなかった。俺がきれいにならないと帰らない、とすごい剣幕で言っていたから、てっきり本当に待っていると思っていた。少し拍子抜けだ。
リビングの机の上には、いつも通りおかずが置いてあった。大体は彼女の母親が作ったものだが、五回に一回程度の割合で青木自身が作ったおかずが入っている。彼女は何も言わないが、結構わかる。
(……ってのは、ちょっとキモいな、我ながら)
中をのぞくと、入っていたのはきんぴられんこんだった。切り方がまちまちで、少し焦げかけているから、これは青木作だろう。
タッパを冷蔵庫にしまい、タオルで頭を拭きながら携帯電話を確認すると、青木からメールが届いていた。帰りますという簡潔なタイトル。彼女は、見た目は今どきの女の子らしいがメールの文章は素っ気なく、大抵はタイトルだけで用件を伝えてくる。ただしそれは俺宛のメールに限った話であって、他の友だちや、……男相手にどんなメールを送っているのかは知らない。
けれども今回は本文にも内容があった。
明日、朝八時に行くから、支度しといてください。
聡実
「……支度?」
翌朝、本当に八時きっかりに青木はやってきた。支度しろと言われて本当にしていないと怒られるのは目に見えているので、とりあえず外に出られる程度の服を着て待っていると、そんな俺を見て青木は満足げに頷いた。
「やればできるんじゃん」
昨日もそんなことを言われた気がする。青木は一度閉めた玄関のドアをもう一度開けて、俺を振り返った。外は快晴のようだ。
「じゃ、さっさと行くよ、田村」
「おい、待て。どこに行くんだ」
あわてて尋ねると、青木は呆れた顔を作った。
「どこにって、塾に決まってんじゃん」
「塾って」
「今日母さんが連れて行ってくれるって言うから、早くして。待ってるから」
俺が靴を履いたのを確認すると、青木は背中を押して外へと押しやった。
外に出たのは、もう二週間ぶりくらいだった。ここしばらく、米とインスタント食品、それから青木家のおかずで生活していたのだ。すぐそこの木がいつの間にか葉をつけている。手入れをしていないから荒れ始めている庭を、ぼんやりと眺めたが、いまだぐいぐいと背を押されている。ゆっくりと観察できないまま、隣の家まで運ばれた。
車庫には青木家の車がアイドリングして待っていて、運転席にはずいぶん久しぶりに見る青木家の母親が座っていた。いつの間にか俺の腕を掴んでいた青木が、車の後部座席のドアを開けて、俺に乗れと合図した。
車内をのぞきこむと、運転席の青木家母が振り返って微笑んだ。出勤ついでなのだろう、仕事着を着ている。今日は日曜日だが、青木家母の休みは昔から不定期だ。
「東二くん、おはよう」
小さい頃は、さとみちゃんのおばちゃん、なんて慕っていた。俺自身に母親がいないこともあって、一般家庭の子どもが友だちの母親に親しくする以上の懐きっぷりだったと思う。けれどもこの歳になるとひたすらに気恥ずかしい。どきまぎしながらあいさつを返した。
「あ、……おはよう、ございます」
「お母さん、お待たせ」
当然のように青木も後部座席に座り、車は出発した。
「あの、いつもありがとうございます、あの、おかずとか」
うまくしゃべることのできない情けなさと、小さい頃を知られているのに格好付けてもという恥ずかしさが混じる。さらにそれを隣の青木に聞かれているのがいっそう堪えた。青木の母親はもう五十くらいの歳のはずだが、まだ若く見えた。それとも年相応なのだろうか、よくわからない。
「いいのよ、あれくらいしかできないもの。あ、そうそう、ときどき聡実も作ってるのよ」
「お母さん!」
青木が咎めるような声を出した。
「あの、はい。わかります。あの、昨日のとかですよね」
俺は「あの」をつけないとしゃべれないのか、くそ。
青木が、信じられないという表情でこちらを見ていた。
「わかるの?」
「わかるでしょ、見た目がねえ?ねえ、東二くん。味はおいしいんだけど」
「いや、あの、はい。おいしいです」
「うそ!」
悲鳴まじりの否定に、俺は怪訝な視線を向けた。
「なんだよ。まずいもの俺に寄越してるのかよ」
「違うけど!」
俺たちのやりとりを、青木家母が微笑ましそうに聞いているのがいたたまれない。
「聡実。そろそろ着くけど、いつものところでいいのね?」
「うん、ありがとう」
やがて最寄りの駅前で車は止まった。しかし礼を言って降り立ったそこはいつも使う南口ではなく、反対側の北口だ。俺の通っている予備校も、南口にあるのだが。
「じゃあ、行こうか」
彼女はさっさと歩き出した。
青木のやり口はずるい。迎えに行くと言われれば準備せざるを得ないし、青木の母親まで引っ張りだしてこられたら、出発しないわけにはいかない。けれども、今さらどの面を下げて予備校に行けというのか。俺は国立大学合格者を多数輩出していると謳っている大きめの予備校に在籍している。合格者が多いのは在籍生徒数が多いからで、その中にはきっと俺のように途中で来なくなる奴なんていくらでもいて、予備校だってそんなやつらにいちいち構うこともないのだろう。俺の席はきっと、夏を過ぎたらなくなっていて、今戻ったって、「何しにきたの」と言われてしまうのがおちだ。
のろのろと歩く俺に、青木は構いもしない。
「ほら、何してんの。さっさと行くよ」
そして再び俺の腕を掴み、歩き出す。こいつは、こんなに強気なやつだったろうか。
「おい、そっちは違うぞ」
「何が?」
「予備校に行くんだろ?」
「うん。始まるのは九時だけど、早めに行っといた方がいいと思って。あ、今日は見学って形になるから」
何だか話がかみ合っていない気がする。青木はしかし歩みを止めず、俺の予備校は南口のすぐ前にあるというのに、北口から大通りの方へとどんどん駅から遠ざかっていく。
「そう遠くないよ」
「お前、どこに行こうとしてるんだ」
青木は俺を振り返り、まだ掴んでいる腕を見下ろしてぱっと離した。それから俺の顔を見上げて、きょとんとした。
「え?言ってなかったっけ」
「言ってない」
青木は困ったように眉根を寄せて、それから息を吸い込んだ。そこで初めて俺は、青木が何か緊張しているのを見て取った。彼女は心なしか早口で、
「あのね。これだけ休んだら元の予備校行きづらいかなと思って。私が行ってる塾に通えばいいと思うんだ。今日は見学ね。でも明日から来ていいよって言われてるから。個人経営で、アットホームな感じっていうの?田村はそういうの苦手かもしれないけど、そういうとこのほうが却って続くかもしれないよ」
と、ここまで一気に言い切った。