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10 東二

ネガティブ田村回です

 夏期講習が始まった。

 夜間部の高校生たちが加わると、こんなに人がいたのかと思うほどぎゅうぎゅうになる。机の上にノートさえ載ればじゅうぶん勉強はできるものの、狭いことに変わりはない。

 たくさんの数式を俺は解く。

 数学は答えがはっきりしているから好き、というのを、理系の友人から聞いたことがある。俺も理系だが、そんなふうに思ったことはなかったから驚いたのを覚えている。だって、1という数字一つとっても、その中に無限にものが含まれている。アキレスと亀の逸話を聞いたとき、ものすごく納得がいったものだ。

 まあ、それはそれとして、受験問題の数式は、答えは一つになるのは間違いない。ひたすらに解く。

 集中できているときは良い。ただ急に切れてしまうときがあって、そうなると駄目だ。もう何一つ頭が働かなくなって、机を見つめることしかできなくなる。


 駅前の予備校に通っていたときもそうだった。明日も普通に予備校に行こうと思って眠って、起きたときに何もできなかった。一日さぼってしまうと、なんでさぼったのかと責め立てられそうで、勉強についていけないのも怖くて、もうそれから行くことができなくなった。行かなければ行かないほど、取り戻せなくなっていくのはわかっていたのに。

 駅の近くでは、予備校で一緒だった奴を見かけることもある。当然だ、すぐ近くなのだから。予備校では勉強をするだけだと割り切っていた俺は、友だちなんて作っていなかった。そうでなくとも浪人したての奴らってのは、情けなさと悔しさでぴりぴりしていて、馴れ合いなんてごめんだと考えているばかりだった。だから、余計姿を見せたくはなかった。『負け犬』だとか、そんなレッテルをつけられるのはごめんだと思った。

 実際には、予備校からは責められるどころか連絡一つ来なかったし、俺と机を並べていた浪人生たちは俺のことなんて顔も覚えていないだろう。それはとても楽であり、少し辛くもあった。

 父親からは、最初の二週間ほどは毎日電話があったが、今では週に一度程度の連絡だ。「まあまあ、やってるよ」と言う俺の言葉を、父親は疑うこともない。「塾を変えたいんだけど」と言ったときも、お前がそうしたいならとあっさりと許可してくれた。

 それが信頼の証だろうか。半分くらいはそうだろう。ただ、彼自身、自分の仕事に集中したくて息子を構わない、というのは、確実にあるはずだ。それでいい、そうしてほしくて、俺は彼の渡航を勧めたのだから。俺ももう少しで成人する。いい加減、俺のことで煩わしい思いをしてほしくない。といっても金銭的にはまだまだ頼るわけだし、こんなの自己満足かもしれないけれど。もし良い出会いがあるのなら、再婚だってしてくれていいんだ。

『親父と再婚でもしたいわけ』

 いつしか言った自分の言葉が脳裏をよぎった。……いや、その可能性だけはないと思いたいけど。いろんな意味できつすぎる。『一緒に住もうか』と青木が言った言葉で思い出したのも、なぜかそのあり得ない図だった。思わず強く否定してしまったけれど、あいつ、多分ショックを受けてたな……。


 それはそれとして、俺はそんな父親の信頼を裏切っていることになるんだろうか。なるんだろうな。彼は俺が、ちゃんと生活して勉強していると思っているんだろうから。手のかからない息子でいようと思っていて、少なくとも父親の前ではそれを通してきたのだから。

 今も、ときどき塾をさぼってしまうときがある。ただ、一回さぼったら行けなくなるなんてことはなくて、また次の日には行こうと思うことができるし、その通りにしている。それは周りの浪人生がやたら気安いこととか、先生が妙に話しかけてくることとか、辛くなったら逃げることができる図書室があることとか……青木が毎日訪ねてくることとかのおかげだろう。

 青木はすごい。

 毎日塾に通って、勉強だけを頑張っているのかと思えば、浴衣なんかを着てしっかり夏祭りを楽しんでいる。しかもそれを負い目に思っている様子もない。俺なんて、少し遊んだだけで悪いことをした気分になってしまう。それ以前に塾をさぼるのをやめればその分勉強できることはわかっているのだけれど。

 青木は何事にも全力だ。楽しむのも、勉強するのも。

 それに比べて俺はなんでこんなに一所懸命になれないんだろう。

 現役のときは、それなりに頑張ってきたつもりだった。でもそれは全然足りなくて、俺より頑張っている人はいくらでもいるし、落ちたときもなんとなくぼんやり受け止めてしまった。またこれを続けるのか、と思った。実際、続けることすらできなかったわけだけど。

 だからか、と思う。

 お前は悔しくないのか、と自分で自分を罵っていた。なんで頑張んないんだよって、自虐するより頑張ればいいんだけど、それもせずに。

 本気で頑張ったことないから、挫折を感じないんだ。

 死ぬほど願ったことないから、死ぬほど悔しくないんだ。


 俺は隣の青木をぼんやり眺めた。

 こいつはなんで当たり前みたいに、努力できるんだろう?

 きっとこいつは、努力の甲斐あって大学に合格するだろう。いや、合格しなくとも、努力したことは残る。違う大学になったとしても存分に力を発揮できるだろう。

 それでいつしか、良いところに就職して? 俺より良い男を見つけて、結婚して?

 俺より良い男って。

 俺より駄目な男を探す方が難しいや、こんなネガティブ男。

 青木は俺の視線には気がつかずに、真剣に問題集を見つめている。口元が微かに動いて、声にならない呟きで、きっと思考を漏らしているんだろう。



 今俺の家は荒れ果てている。押し入れから何からひっくり返して、ついでに整理を始めてしまったからだ。おかげで家に帰っても勉強する気にはなれない。ひとつずつ片付けて、夜は過ぎる。こんなことしてる場合じゃないよな、浪人の夏って、きっと大事だ。

 また自己嫌悪に陥りつつも、片付け始めるとそれはすぐに忘れてしまう。俺はきちんとものをしまうのが好きな方だが、父親は壊滅的に片付けのできない人で、投げっぱなし、放りっぱなし、どこにしまったかわからない、なんてことはざらだ。俺が片付けたところに適当に放り込むから、結局全部ぐちゃぐちゃになってしまったままだった。そのくせ収納道具を買ってくるのは好きで、箱やらケースやらはたくさんある。まあ、片付けが捗るから文句は言わないが。

 三日くらい片付けを続けた末に、俺は本来取り出したかったものを発見した。

「……そういえば、これを見つけたくて片付け始めたんだっけ」

 思わず呟いてしまうくらい、元々の目的を忘れきってしまっていた。これを取り出すだけなら、もっと早く見つけていただろう。片付けに夢中になって全然関係のないところまで手を付けてしまっていた。

 今俺の手にあるのは、四角いアルミの缶だ。せんべいやらおかきやらが入っていたような、大きめの、かぶせの蓋がついたもの。見た目からは窺い知れないが、手に取ると案外重く、少し動かすと中のものがからからと音を立てた。

 缶の蓋には、キャラクターもののメモが貼られていて、子どもの字で内容を書き記してあった。

 『おれのたからもの』

 この中には、青木やその母からもらったものが入っているはずだ。

 床にそっと置き、蓋を開けた。中に入っているのは、宝物とは名ばかりの、がらくたばかりに見える。しかもその物たちのほとんどについて、俺はそのいわくを覚えていない。げ、なんで飴なんて入れてあるんだ。もう開けずに捨ててしまおう、これは。

 石英を多く含んだ石ころだったり、名前も知らない雑草の押し葉だったり、吹いたら伸びるストロー状のおもちゃ、なぞなぞが書いてある豆本、CDの背に挟まっている紙、色のついたシャーペンの芯、等々。まあいかにも子どもが好きそうな物ばかり詰まっていた。そしてその中に、つい先日見たような細工物が紛れている。

「これか……」

 赤い鳥の形に作られた、銀杏細工。いろんな物と一緒に押し込められていたにもかかわらず、どこも欠けてはいなかった。どんな場面で手にしたのだろうか。青木も持っていると言ったから、きっと青木の母から与えられたのだろう。

 青木はいろいろと雑だから、きっと揃いの銀杏細工はぼろぼろになっているだろう。もうどこかに紛失してしまっているのかもしれない。

 俺は思い出を失っているが、物は大事にとってある。青木は何でも覚えているが、肝心の物はどっかにやっている。どっちが良いかなんて人それぞれなのだろうが、思い出がなくては物はただの物になってしまうだろう、と俺は思う。

 今にして思えば、青木が覚えていてくれるから、それに甘えてしまったという面もあるのかもしれない。

 このキーホルダーはなんだったろう。イルカの形だから、水族館かどこかかも知れない。青木に聞いてみるのもいいだろう。

 ただそのためには、青木と顔を合わせて気兼ねなく話すためには、俺がきちんとしていなくてはならない。そのためには、家でもちゃんと勉強をしなくてはならない。そのためには、まずこのとっちらかった家を片付けなくては。

 ……だめだなあ、俺。

 そんなことを考えながらも、やっぱりもくもくと片付けをしてしまうのだった。


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