1 聡実
田村家は父子家庭で、早くに母親を亡くした田村を父親は男手一つで育て上げた。父親は社内でそれなりの立場を持っていたため、運動会や授業参観などさまざまな行事を見送らざるを得なかったが、しかし田村はそれを笑って許し続けた。家事を積極的に手伝い、中学生になってからは家庭のほとんど全てのことを一人でやっていた。父親は自分を養ってくれているのだから当然と思ってこなした。
そんな田村だったから、大学は金がかからないよう地元の国立大学を目指した。本当は高卒で働くべきかもしれないけど、やりたいことがあるから行かせてくれと頼んだ。父親は当然応援し、私立でも構わないと言った。実際馬車馬のように働いてきた父親は、それなりの貯蓄を作り上げてきていて、それらを全て息子に使っても良いと考えていた。
しかし田村は国立大学一本だけを受験し、そして落ちた。頭を下げて、もう一年勉強させてくれと言った田村に、父親が反対できるはずもなく、予備校に田村を通わせた。
そしてこの夏、田村の父親は海外赴任を命じられた。最初はもちろん田村を連れて行こうとしたけれど、田村本人がいやがった。「俺は日本を出たくない」と頑固な田村に、ならば仕事を辞めるとまで父親は言ったが、田村自身が海外についていくことも、日本に留まるため父親が辞職することも、そのどちらも田村は了承しなかった。父親が今の仕事にやりがいを感じていることを察していたからだ。「いっそいない方が、家事とかしなくていいし、勉強に集中できるよ」と冗談まじりで言われては、今まで苦労させてきたという負い目を感じている父親には何も言えなかった。
あきらめて父親は一人渡航し、田村は最低でも一年間、一軒家に一人で住むことになった。田村には祖父母はいない。みんな他界してしまっていた。だから父親は、田村家の隣の青木家——つまり私の家だ——に田村のことを託した。青木家は大いに同情し、ことあるごとに面倒を見るように、田村の一つ年下である青木家長女——つまり、私だ——に命じた。私はその命を守り、しょっちゅうおかずを持たされては田村家の門扉を叩くことになる。
さて、田村は一人の方が気楽だと父親を送り出したが、その言葉を信じ家を出た田村の父親の判断は、どうしようもなく間違っていた。一人暮らしは田村にとって最悪の状況を作り出すのみだったのだ。
私はいつものようにおかずを持って田村家を訪れた。約束も連絡もしていないが、不在ということはまずない。それを裏付けるように今日もチャイムに応えて玄関が開いた。
ぼさぼさの髪に灰色のスウェット上下。彼の背後からはどこかすえた臭いがする。当たり前だ、家中閉め切っているのだから。
「ああ、悪いな、青木」私たちは家族ぐるみのつき合いなのに関わらず、お互いを名字で呼んでいた。
「悪いと思ってるんなら、出てきなさいよ」
睨むようにして言うと、田村はごにょごにょと口の中で何かを言っていたが、私には聞き取れない。
「はっきりしゃべって」
「だからつまり、明日になればな、行くから」
信用できるはずがない。この言葉を、田村はもう十回近く放っている。そしてそれが実現されたことは一度もないのだ。
「なんで。自転車ですぐじゃない」
「わかってるよ」
彼の通う……通っていた予備校は駅の近くで、自転車を10分も走らせればすぐに着く場所である。
そう、通っていた。
「これ。渡したからね。明日返して。それでその足で、明日こそ予備校行って」
そう言って手に持ったタッパを押し付けた。浪人を始めて、そして一人暮らしを始めて3ヶ月。今田村は予備校に通うのをやめていた。
通うのをやめて何をしているのか?
次の日、ポストにタッパが入っているのを見た私はわずかに期待した。しかし隣家の窓を見上げてすぐさま落胆する。窓のカーテンは締まり、わずかにそこから光が漏れている。それは田村が家を出ていない証拠だった。
何をしているのか?
何もしていないのだ。
端的に入ってしまうとつまり、田村 東二は親の目がないのをいいことに引きこもりになってしまったのだった。