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「西津森の御霊入れ様をお迎えできて、私たちもとても嬉しく思っています。戦火に巻き込まれて行方が知れなくなったと聞いていましたから余計です。どうぞこれから、自分の森と変わりなく、気兼ねなくお暮らしくださいね」
中津森の神官がイーシュを連れて日の落ちた神殿を歩いていた。部屋に案内している。これからイーシュが暮らす神官寮だ。
先導するのは中年のふくよかな女性だ。おっとりとした中に放たれる雰囲気は見る人を和ませるに違いない。
あれからイーシュは、ひとりでなんとか中津森にたどり着いた。
中津森の館の扉を叩いたのは、西津森陥落から一ヶ月以上が経ってのことだった。
中津森の神殿は西津森のものよりも荘厳だ。
太い柱が幾本も立ち、何気ない通路を飾る。故郷のとは違い、主の住まう館と直接に繋がっているせいもあるかもしれない。
イーシュは今は、泥だらけでぼろぼろの西津森の法衣でも旅の間の粗末な衣服でもなく、中津森の神官機関から支給された、飾りはないが清潔で清楚な薄手の白い服に袖を通していた。
案内の女性を見る限り、私服も認められているようだったが、与えられたのは日常着としてのものらしい。
すでに勧められた清めの為の沐浴を済ましたイーシュは、かつていつもそうであったように、清廉な雰囲気を余すところなくかもし出している。
「それにしても北の岬から女の足ひとつでなんて……大変な長旅でしたわね」
中年の女性神官が、よくぞその細い体で、というようにイーシュを見た。
西津森から逃げてきた神官もいくらかいた。が、たいていは連れ立ってやって来たという。兵士志願者でさえそうだという。
それなのに、御霊入れという森にとって大切な役を務めた巫女が、護衛もなく、たったひとりでやって来たというのは奇異なことだったらしい。言葉以上に女性の表情が語っていた。
だがイーシュは首を振る。
「いいえ、馬車を乗り継ぐ楽な道のりでした」
そうだろう。西津森の館から北の岬に着くまでに比べたら。
まだ領土を保ち、皇国と互角に渡り合う中津森の北側は平穏だ。
だがイーシュは今は多くを語らなかった。
今二人がいる神殿と神官寮を繋いでいる上階からは、森の向こうの方まで見渡せる。そばの湖、遠くまでなだらかな森。夜とはいえ、今夜は明るい月夜、認識ができた。当たり前だが、西津森の神殿から見る、起伏のある景色とはまるで違う。
イーシュは堪えるように表情を少し歪めて、遠くの方に見える館の広場の灯りに目をやった。いくつもいくつも灯り、小さくて見えずらいが、その周りをおそらくたくさんの人間が騒ぎまわっている。
「賑やかですね。まるでお祭りのようです。中津森の館はいつもこうなんですか?」
案内の神官が苦笑した。
「いえ、今日は特別です。今宵はナルディムを護った勝利の宴ですので」
「勝利の……」
西津森ではしばらく聞かなかった言葉だ。
「ええ、奥方様と、奥方様がお選びになられた、お二人の将軍様方のおかげです。戦況が以前よりぐっと良くなりました」
そうこうしているうちに、イーシュの部屋になる扉の前に辿り着いた。案内の女性が鍵を開けて、内部を簡単に説明する。
「なにか不自由ありましたら遠慮なくおっしゃってくださいね。今日はもう日が落ちましたから、奥方様には明日お伺いすることにしましょう」
身ひとつでやってきたイーシュには、荷物などない。慣れない部屋にぽつねんと立つ。
それがどこか頼りなく見えたのだろう。柔和な神官は微笑んで言う。
「……館の方を少しご案内しましょうか? 今日は宴の日です。神官にも少しの許容がされています」
つまり宴に参加して、神職の禁を犯さない程度に飲食を共にしてもいいという意味だ。
その申し出にイーシュは一瞬驚いた顔を返し、次いで無理したような笑みをやんわり浮かべた。
「……ありがとうございます。でも大丈夫です」
大丈夫、というようにはあまり見えなかったのだろう。神官が難しい顔をする。
その顔を見たイーシュは、逆に気を使ってしまった。
「……あの、部屋から出て、一人で館を見て回っても構いませんか?」
「え? ええ、それはもちろん……今日は就寝の鐘は鳴りませんので」
女性は神官独特のゆったりとした動きで礼をすると、「では」と言って静かに部屋から出て行った。
◇
よく手入れされた神殿前の庭をすぎる。
人影はなかった。こんな夜更けに主門の閉まった神殿に用のあるものなどいない。まして今日は宴だという。むしろ倦厭の対象だ。
そこらに絶妙に配置された、冬とはいえ僅かに咲く季節の花々が可憐に揺れた。
イーシュはそれを不思議そうに眺めていた。
「……最期にライオルが言っていました……。皇国の猛攻にも耐える中津森の将軍は素晴らしいと……。きっと強くて優しい方々なのでしょうね……」
戦争中とはいえ、まだ中津森は穏やかだ。
それはイーシュを落ち着かせたが、同時に哀しみを倍増させた。
西津森の館を出てから張り詰め、押さえ込まれていた感情が、関を失って留めることができずに溢れそうになる。
しかし、人影が無いとはいえ、こんな場所で崩れ落ちるわけにはいかない。神殿前で神官が、なんて。
部屋に留まればよかったと後悔しながら、イーシュはとぼとぼと神殿を出て、歩を進め、一本道の向こうの館に向かう。
その途中の木陰から小さな眩しいものがひらりと現れた。
「……精霊です」
精霊は優しい白い光を放つ。
イーシュは知らず微笑んでいた。
そのまま、誘われるままに、イーシュは見知らぬ館の庭をいくつも渡って行った。
人影どころか、人気ひとつない場所に辿り着く。
「……綺麗な月夜です」
見上げれば白い小さな月が天頂に浮かんでいた。
それが落とす青い影が横たわる。
遠くからでも聞こえていた宴の喧騒はどこへやら、ここは全くの静寂に包まれていた。
イーシュはさらにそばの古い石の階段を登り、今は手入れのされていないらしい中庭を見下ろす柱廊に出た。幾本もの柱が整然と沈黙して並ぶ。
「人気がありません……館の離れでしょうか。今は使われていないのですね」
しかしイーシュは逆に安心したように、柱の一本にそっと寄りかかった。頬を寄せる。
石の、冷たい感触が伝わった。
心地よさげに目を閉じたイーシュのそばに、さきほどからあたりを浮遊していた精霊が同じように寄り添ってくる。
「ここ中津森に住まう精霊も、故郷の森のと変わらず優しいのですね」
実体無いものに宿る温かみを確かに感じて、イーシュは恍惚する。
しかしそれは僅かで悲しみに変わった。
「人も、精霊のように優しかったらよかったのに……そうしたら戦争など起きるはずもないのに……」
イーシュはいつかライオルとその話をしたことを思い出していた。
あの時ライオルは言っていた。人は精霊のようにはなれないと。なにもかもが違いすぎると。
「その通りです。私たちは違いすぎます。……でも……欠片も精霊と同じものを持っていないというわけでもない……だって、人は皆、心の中に必ず良心があります。隣人を愛する心もあります」
イーシュの心に故郷の思い出が湧いてきては去る。
穏やかな森、駆けた野、仰いだ空、花の香り、人々の声……。
神殿や孤児院の多くの者は、散り散りになり、おそらく多くは北の岬から旅立った。兵士となって戦地へ赴いた者は行方が知れなかった。
どちらにしても、もう二度と会えないだろう者ばかりだった。
イーシュが悲しみに沈んでいると、月から降りてきたような澄んだ光を内から放つ精霊たちがいくつも空から降りてくる。それがイーシュの周りを蝶のように軽やかに回った。
「珍しいです。精霊舞以外で精霊がこんなに人に寄り添うなんて……」
光の粒たちが言葉無く囁く。
イーシュはその想いを汲み取った。
「ああ……舞えというのですね。あなたがたの愛を見せてくれると……慰めてくれると……」
イーシュは服の帯を解いた。
帯は服よりもさらに柔らかな素材で、透かすと向こうの景色が見えるほど薄い。まるで白いヴェールのようだ。
それを纏い、イーシュは月の光をすくうように、手を前に差し出した。そうして緩やかな動きで体をくねらせる。精霊がその動きに合わせてイーシュの身の内に宿って、暖かで心地のよい感覚を与える。ヴェールのような薄布が青黒い夜闇にひらめく。
短くはない舞を終えて、夢見心地の瞳から、徐々にイーシュは醒めた。ゆっくりと、その煙る緑青の瞳を開く。
イーシュは悲しみではない涙を瞳に浮かべた。
「森に残ることに決めた私を、お父様……それにライオルは許してくれるでしょうか……」
そうしてイーシュは北の岬まで連れていってくれた旅芸人の一団の顔を思い出す。
そして別れ際に自ら語ったことを思い出していた。
「けれど、私が生きて存在しているだけで、誰かの、なにかの力になれるかもしれないのだとしたら、私はその可能性を捨てたくはないんです。たとえそれが、神官という肩書きや、気の持ちようがさせるものだとしても……」
イーシュは沈黙しながらもそばを離れない精霊に答えを望まずに語る。
「なにが出来るのかなんてわからないけれど……何も出来ないのかもしれないけれど……。こんな私ですが、もし求めてくれる人がいるのなら、そのそばに寄り添っていてあげたいんです。それが私の幸せです。神官としては未熟な私ですから、それは神職以外でのことだったとしても……それでも構わないでしょうか?」
そばを漂う精霊はもちろんなにも答えない。
しかし確かに、先ほどから変わらない暖かなものを贈り続けてくれていた。
イーシュにはそれで十分だった。
「これからなにが起きるかんなてわかりません。わたしになにができるかなんてわかりません。でもわからないからといって進むのを躊躇するのは違うような気がします。なにができるかなんていうことは自分で探すものです。自分で作るものです。それが生きているという事です。……そうですよね? ライオル」
そんなことをライオルは一度も言ったことなどない。
しかしあのライオルなら、きっとこんな時そう言うのではないか。イーシュにはそう思えたのだ。
形が無くなって触れる事はできなくなっても、その人の記憶は胸に残って、願い思い起こせばいつでも無限にここに現れる。そしてその人の芯であった魂も消えない。
もう二度と、共に笑い合えないことは寂しくはあるけれども。
それは滴った水の雫が大河の中に見失うという自然と同じ摂理だから、逆らうことは人にはできない。
イーシュは見上げた。
そうして、躊躇していた言葉を口にする。
「ライオル……ありがとう……。冥福を祈ります……」
その人に、あなたの冥福を祈らせないで欲しいと言ったのは、そう昔のことではない。
幾人もの幼馴染がそこにはいて、もしもの時にはイーシュに冥福を祈って欲しいと請われたのに、ライオルだけにそんなことを言ったのは……。
白い月の光が空から降りてくる。その中を何かが昇華していった。
イーシュはそれに親しい友人の笑顔を感じていた。
「あなたはこれから光に、風に、森の梢の音になるのですね……。私にとってあなたは……」
もちろん恋人でもないし、この期に及んでもそういう感情でもない。
けれどその人のことを思うと、イーシュの中に深く重い痛みとふんわりとした優しさがこみ上げる。
イーシュは言葉にできずに固まった。
「今夜はなんて哀しい夜でしょう……でも、なんて優しい夜でしょう……」




