8-6
◇
あれからどれくらい時間が経っただろう。
夜の闇はますます深く森を包む。
さっきまで明るく草葉を照らしていた月や星までもが姿を隠してしまっていた。
イーシュは道を失ってしまっていた。
「……どっちに進めばいいのでしょう?」
見上げても方角を指し示す印となるような光も無い。
足も止まっていた。
涙に濡れた頬は、暗闇に隠れ張り出した梢に傷つけられて幾本もの細かな赤い筋を浮かべる。
藪の中に埋もれるように、ひとり、イーシュは森に立ち尽くした。
その動きを失った者の鼓膜を僅かに震わすものがある。
はるか遠くの物音――地を踏み鳴らし、葉を蹴散らし、枝を折る音だ。追ってきた皇国兵だろう。
はっとしたイーシュは、はじかれたように、それとは反対の方向に逃げ出す。
やはりライオル一人では足止めしきれなかったらしい。無視して追ってきている兵士がいるらしかった。
イーシュは逆にそれを頼りにいくらか進んでは方角を見失って止まり、また物音が聞こえては逃げ出すということを繰り返した。
方角がわからない以上、へたに進んで逆戻りしてしまうと皇国兵と鉢合わせになってしまうからだ。そして、その行動が余計に方角をわからなくさせていた。
しかし、道に迷っているのはそのせいばかりではない。
今のイーシュの目には、いつものいい精霊が見えなくなっていた。
悲しみで目が曇ってしまっていた。
「見えるのは死に誘うものばかりです……」
イーシュの目には映っている。
黒い霧のようなものが。濁った煙のようなものが。
実体ないものがイーシュにつきまとう。
そしてよからぬことやありもしないことを囁き、惑わす。
ひんやりとした、それでいて粘っこいような嫌な感触が肌の上を這う。
「わかっています。私の心が悲しみに沈んでいるから……ライオルを犠牲に生き延びるくらいなら、共に死んでしまえばよかったと思っているから……」
いつかのように、死者が地の底から、古い樹木の影から現れてはあたりで揺らめく。
似たものを持った者たちが、わらわらと集う。
「同調するのは馬鹿げたことだということもわかっています。そんなことをしたって、ライオルも喜ばないと……」
イーシュはゆっくりと瞳を閉じる。
「でも……心はとても正直です。顔のように仮面を被せることができないんです。そして神も精霊も亡霊も、直接心を読むんです……。私は、そう……簡単には心の底から吹っ切ることができないんです……」
幼かったあの時とは違って、イーシュは精神修行を積み、防護の方法も覚えた。
それでも振り切れない。
愛した故郷を亡くし、やっと出会えた父を亡くし、これまで深く関わることのなかった人を犠牲にして逃げ延び、今度は古い友を……多分……。
ライオルと別れたことはそれほどの衝撃をイーシュに与えていた。
死者を眺める虚ろな目をしたイーシュが、その背後の森を見渡す。
いつの間にか霧が立ち込めていた。
いつもの清涼な霧ではない。
なにやら、重くどんよりと滞った、深い水の底の淀みのような霧だ。
「現実……でしょうか?」
イーシュの指にその霧が触れる。
そのあまりの冷たさのために、逆にイーシュはそれが現実の霧ではないことを知った。
感じた指先に痺れるような微かな痛みと脱力感が襲う。
慌てて見回せば、霧と死者たちが互いに溶け込んでいっていた。
かすかに見えていた星までもが侵食されたように、消える。
真闇が静かに降りてきていた。
「いけない……」
イーシュは駆け出した。
方向もあてずっぽうに。
このままでいては取り込まれてしまうからだ。幼い時の、あの事件によく似ている。
皇国兵の足音などは耳に入らない。
聞こえないのではなくて、イーシュには今、そんな余裕がない。
闇雲に動くのは危険だったが、すぐそばには皇国兵とは別の、目に見えない危険も迫ってきていた。逃げざるをえない。一刻を争う。
さきほどまでなだらかだった森はしだいに起伏がつき始めてきていた。
突然横切る大きな溝や、地表に張り出した木の根なんかに、イーシュは何度も足を取られて転がる。
それでも、息を切らしながらイーシュは坂を駆け上がる。
「……きゃっ!?」
急にイーシュの体が宙に放り出された。
そうして地面に体を強打する。
森の藪の向こうで急にくぼんでいた崖に気づかず、まともに落ちたのだ。
からからと、さきほどまでいた場所から小石が転がってくる。その高さは大人の背丈の倍もあった。
「う、ううっ……」
うめき声が嫌でも漏れた。
腕を張り、上半身を起こす。着地した地面にびっしりと生えた雑草が、触れて肌を切る。
その視界に、そばに無造作に転がるごつごつした岩が映った。比較的柔らかい草地に落ちたのはまだ幸運だったらしい。
「に、逃げないと……」
落ちた時に打ったのだろう。くらくらする頭を抑え、なんとか立ち上がろうとする。
そのイーシュの目の前の地面に、具足をつけた足がある。
とっさに身構え、はっとして見つめた。
が、その武具は皇国のものではないことに気づく。見覚えもあった。
「……ライオル!! よかった! 無事で…!」
安堵の顔で見上げるイーシュの視線の先には、わずかに微笑むライオルが立っていた。赤茶の髪が風もなしに揺れる。
イーシュは自力で立ち上がり、よろけながらライオルの前に立った。
「追いついたんですね。よかった……さすがはライオルです」
しかしライオルは、いつものような突き抜けるような勢いは無く、ひょうひょうと微笑むだけだった。
風が、木の葉を巻き込んで吹き流れていく。
イーシュは首を傾げた。
「ライオル……?」
向き合って立つライオルの全てが、時々青白く透けながら揺らめく。
「!!」
口を覆い、イーシュは小さく後ずさりをした。
「……ライオル……」
そうしてそのまま、顔を覆ってうつむいた。
気づいたのだ。
これは魂だと。
ライオルは死んでしまったのだと。
崖から落ちて全身を強打したのが、逆にイーシュを助けた。
意識がそれたその瞬間に、死者たちをかいくぐってライオルがイーシュの意識に語りかけてきたのだ。
ライオルは生前には見せたことの無い優しい微笑を湛えながら、小刻みに震え固まったイーシュに、有無を言わさず死の直前の光景を見せ、飛び交った言葉を感じさせた。
◇
『女だけ逃がすとは、めんどくせえガキだぜ!』
おそらく、イーシュが逃げ去った直後のことだ。ライオルと斬り合う皇国兵が汚らしいがらがら声で煽る光景がイーシュの脳裏に浮かぶ。
魂となったものの言葉は魂に直接響く。
兵が発したのは実際は皇国の言葉だったのだろうが、ライオルはそれを理解していた。これはライオルが理解していたものだ。
取り囲む別の皇国兵たちが持っていた剣をぶらぶらさせながら、次々に口を開く。
『まあいい。そこらじゅう適当にあぶってやれば出てくるだろ? すぐに追いかけていった奴らもいるしな! ひゃはっはっは』
『楽しみだな、おい。異国の女は味が違うっていうからな』
『そうそう、さっきの村には石ころか芋みたいなのしかいなかったからなあ』
薄汚い話題で沸いていた中の一人が、思い出したように取囲んだライオルに目を向けた。
『……それにしても、てめえ、さっきは三人を同時に斬っちまうとは……、油断していたとはいえ……。楽には死なせねえぜ?』
最後の男の言葉を聞いて、ライオルが鼻で笑った。
『皇国の奴隷同然の掻き集められた雑兵風情が、妙な仲間意識なんて見せんじゃねえよ。これっぽちも持ち合わせてねえくせによ』
異様な雰囲気に変わった皇国兵たちが一様にライオルを睨みつけた。
『……ああ?』
図星だったからだ。現に隣の仲間が斬られて倒れても、駆け寄ることも悲鳴をあげることも無い。
妙に鋭く、落ち着き払ったライオルを訝しがった一人が、声を低くする。
『しかしお前ら……どっから沸いて出てきたんだ? 近くの村の残りか?』
ライオルは哀れみを語気に滲ませる。
『気楽だな。ただの村の少年が、いまだにこんなところをうろついているわけないだろ?』
言い終わらないうちに、風のような速さで幾歩か踏み込んだライオルが、訓練された正確な太刀捌きで取り囲む皇国兵の一人の兜を切っ先で吹き飛ばす。そうしてわざわざ、という仕草で剣に彫られた西津森の紋章を見せ付けた。
薄ら笑いを浮かべていた皇国兵がそろって青ざめた。
『……お前、森の剣士か!?』
『ああ、こう見えて一等の近衛兵だよ。近衛兵になる前は、お前らみたいな雑兵、千人は戦場で斬ってきたぜ?』
ライオルを囲むことができるほどの数の皇国兵がひるみ、顔を見合わせる。
勝利するのは皇国兵の方に違いない。けれど受ける痛手は大きいとわかったのだろう。無傷ではいられない。
見下したようにライオルは鼻で笑った。
『なにいまさら怖気づいてんだよ。こっちはたったの一人だぜ? たかが知れてんだろ?』
そうして不敵な笑みを浮かべると、手招きをする。
『さあ、来いよ。皇国のろくでなしども。西の森の誇りを見せてやるぜぇ!!』
獣のようなライオルの雄たけびが森に轟き、剣合音がいくつもいくつも鳴る。
赤茶の髪の森の少年は、大柄な皇国兵幾人もに重篤な傷を負わせ、身動きを封じた。もしかしたら命を奪われた者もいるかもしれない。
だが、多勢に無勢。ついにその時が来る。
動きの鈍ったライオルの視界が、突然朱に染まる。どこかを斬られたのかもしれない。
そうして徐々にイーシュに見えるライオルの視界は、黒一色に変わっていった。
◇
イーシュはライオルの魂の前で崩れ落ちていた。頬にいく筋もの涙が流れる。
「ごめんなさい……ライオル……私のせいで……ライオルまで巻き込んで……」
ライオルは優しく首を振った。
そこには生前の照れ隠しはない。
別人という印象ではない。
魂の奥深くにあった、本当の心がむき出しになっていた。
『巻き込んでなんかない。もともと、森と朽ちるつもりであの館に残ってた。俺は主の近衛兵だ。逃げるわけにはいかないし、俺もそれを誉れとして選んだ。森の最期にお前と一緒にいられないのは残念ではあったけど……お前が生涯かけて尽くしたいと思った森だから……俺もそうしてもいいと思ったんだ』
その足元にうずくまったようなイーシュは、震えるばかりで言葉を発しない。
ライオルはもう人ではない。
けれど、生きた人間がするように困りながら穏やかな笑みを浮かべ、続けた。
『……でも、最期にお前に会えた。もう逃げたとばかり思っていたから、あの時はなんでまだこんなところにいるんだ、って怒りも湧いたけど……。でも正直、嬉しかった。会えて嬉しかった……。嬉しかったよ』
イーシュはただ涙をすする。
その肩を、重さを持たない青く透けるライオルの手がかかる。慰めるように。
『俺が死んだのは、旦那様のためでも森のためでもないけど、それよりももっと大事なお前の為だったから、……本望だよ。ありがとう、こんなくだらない俺の人生を意味あるものにしてくれて』
聞いて、跳ねるように顔を上げたイーシュは、ライオルを見つめた。
「ライオル……ありがとうって言いたいのは私の方です……!」
魂のライオルはゆっくりと、首を横に振った。
頬の向こうに、森が透ける。
『このことだけじゃない。その前から、ちっちゃいころからずっと……。将軍目指して近衛兵にまでなれるほど頑張れたのは、お前にいいとこ見せたかったからだし……』
イーシュが言葉の全てを聞き取る前に、やって来た崖の上の方から幾人もが葉を揺らす音が遠く聞こえた。
皇国兵だ。近い。
『逃げろ。イーシュ』
ライオルの魂がすっと、左手を伸ばし、物音とは別の方向を指し示す。
すると行く先の道がほのかに明るく灯る。
驚いたイーシュが空を見上げた。
気づけば、雲が流れ、その合間から月が照り始めていた。
ゆく道が光ったのは、丁度そこに光が当たったのかもしれないし、ライオルがイーシュの脳裏にそう見せたのかもしれない。
けれど、たしかな現象として、木々の梢もさわさわと風に揺れながら道を開けたかのようだった。
見えないものも、時折現実のものを動かす。見えないものは自然の摂理に人よりも近い。時には風を起こし、雲を晴らし、光を呼ぶ。木の葉を散らし、枝をもよける。
魂のライオルは急くように、再びイーシュに想いを伝えた。
『森は俺たち森の民の庭……。幼い時から暮らす家も同然……。森に慣れない皇国兵には分からない勘が利くはず。イーシュ。森の民なら、きっと逃げ切れるよ』
触れられない体となったはずのライオルの手がイーシュの手を取り、引いて立たせた。
イーシュの心を、そうさせたからだった。
だからイーシュは再び二本の足で地面を踏みしめた。
「ありがとう……!」
イーシュはそう念じ、口にも出すと、指し示された道に向かって駆けた。
躊躇は無い。魂になってまで助けに来てくれた人のためにも。
はるか背後にまだいるのかいないのか。イーシュはライオルを思った。
「ありがとう……ライオル。また助けてくれて……」
幼い日、囚われそうになったのを助けてくれたのも、ほかならぬライオルだった。
魂になっても、ライオルは心に光を灯したままだった。
その光に照らされて、イーシュは死者の幻想から目を覚ました。
イーシュの頬には涙が伝うが、さきほどまでのような重い、暗い涙ではない。ひとつ。ふたつと、輝きながらあたりに零れた。
その脳裏にライオルの魂の声だけが追いついて響く。想いは距離を越える。
『俺、イーシュが好きだったよ……大好きだった』
イーシュは死者の群れの中を突き抜けた。
共鳴するもののなくなった者とは繋がりが持てない。
死者の触れようとした手も、なんの抵抗も感触もなく、すり抜ける。あれほどはっきりと映っていたその姿も、イーシュの目にも朧になっていく。
追うのをやめた死者たちは、名残惜しそうに闇の中からイーシュを見送った。
想いとともに亡霊を振り切った駆けるイーシュの目の端に、別のものが現れ始める。
「……精霊?」
澄み切った光を湛え、きらきらと輝く光の粒だ。
それがまるでこっちだとでもいうようにイーシュを追い越し、その先へと飛んでいった。
ライオルが指し示した道だ。
道を照らし明るくしたのは精霊の働きだったのかもしれない。
懐かしさに、イーシュの瞳は潤む。
「ずっとそこにいたんですね……」
隔たっていた時間は、長く感じられていた。物心ついた時から常に精霊と共にあったイーシュには。
重いものに囚われきった心は、隣人の姿すら見せなくしていた。
でも、その道しるべに従わずとも、もうよかった。
立ち込めていた黒雲はいつの間にか吹き流されて、煌々と照る月ばかりか空にはまた満天の星空が広がっている。すけ始めた木々の枝葉の間からイーシュは三角に浮かぶ北を示す明るい青い星々を確認して、その方角に走った。
苔むした岩も、時折流れる小川も、森に慣れ親しんだ森の民の足を弛ませることはできない。
皇国兵もイーシュが駆ける物音を当然聞いたのだろう。うなり声を上げながら追ってきているようだったが、だんだんとそれが小さくなっていく。
相当、距離が開いてきていることをイーシュに知らせた。
相手は鎧を纏い、剣を携える者たちだ。余計だ。身軽なイーシュとは違う。
皇国兵の声も気にならなくなった頃、目線まで垂れ下がり茂った梢の葉の向こうがきらりと光る。
「……!」
イーシュは迷い無くその方向に飛び込んだ。
森が急に開ける。
濃い藍の空に、満ちた星の空が広がっていた。
しかしそれは一瞬だけで、イーシュの視界がぐるぐると回る。
出た先は急な傾斜になっていた。そこをまともに転げ落ちたのた。再び転落したイーシュの小さな悲鳴が上がる。
短くは無い斜面を、あちこちぶつけながら下まで落ちてようやく止まった後は、白かった上等の法衣はもう、その名残もなかった。
けれど、そこはあくまで斜面で、さきほどのような崖ではない。
長い髪を乱し、絡めたくらいで、イーシュはすぐに顔を上げることができた。
くちびるにひっついた細い髪をよけてあたりを見てみると、そこは地元の人しか知らないだろう、森と森の合間を縫うような、硬い土が露出するだけのささやかな小道が伸びていた。その脇の草むらにイーシュはうずまっている。立ち上がると服についていた木の葉が、幾枚もひらひら落ちた。
イーシュは行くべき北の方の道の先を見つめた。
だいぶん向こうの方に馬車が一台停まっている。派手な身なりからして、乗っているのは旅芸人たちらしかった。身動きを止めていたが、恐らく目が合うと、その人々が口々に言った。
「あんた、なんてとこから出てくるんだよ! 皇国兵かと思ったじゃないか!!」
「あんたも逃げるんだろ!? ちょうどいい、さあ、乗んな!!」
痛む体を押して、イーシュは再び駆けた。馬車まで辿り着くと、体格のいい男がひょいとイーシュを荷台に引きあげてくれた。
そこでイーシュは崩れ落ちた。安心したのだ。緊張から感じないようになっていたが、もう体は限界を超えていた。
そばに座っていたきつい化粧をした女芸人が、イーシュの体をいたわってそっと撫でた。
「大丈夫かい? あんた」
返事をすることができないほど、イーシュの息は速く、荒い。女芸人はそのままイーシュをさすった。
いくばくもないうちに、西津森側からだろう、イーシュが来た方向からまたひとり、慌てた様子で誰かが馬車に向かって走って来た。
「やばい! もうそこまで皇国兵が来てる!」
イーシュを引き上げた大きな男が言う。
「団長……」
奥に座っていた団長と呼ばれた年配の髭の男がうなだれる。
「そうか……仕方がない……こんなに待ったがあいつらのことは諦めるしかないな……」
「もうどこかで捕まってしまったのかもしれないね……」
イーシュの隣の女芸人もしんみりとそう言った。
そして馬車は、最後の男を収容すると慌ただしく出発した。
馬に打ち討つ男の威勢のいい声が響いた。
暗い野道を馬車が揺れる。
夜明けはまだ遠い。
乗り合わせた馬車にはイーシュを含め総勢十名ほどの男女が沈んだ顔をうつむかせていた。荷物は少ない。そのほとんどが食料だろう。芸人らしい持ち物はあまり見当たらなかった。切迫していたのだろう状況が伺われた。
まだ倒れこんだままのイーシュに女芸人は再び声を掛けた。
「こんな泥だらけで……あんたどこから来たんだい?」
ようやく口がきけるようになったイーシュが、か細く答える。
「主の館から……」
「主の館だって!? 馬にも乗らずにかい!?」
女芸人が飛び上がる。
他の芸人たちも目を見開いた。
「夜通し歩き通しだったんじゃないのか?」
「そんな細っこい体でよくここまでこれたな」
ざわめく馬車の中、団長がようやく気づいた。イーシュに近寄る。
「その服……ずいぶん汚れちまってるが、あんた神官か?」
そう言った団長は何かにはっとして、信じられないという顔をしながらイーシュをしげしげと見つめ始めた。
「……って、もしかして精霊祭の巫女様じゃねえのか!? あんた!!」
「は、はい」
イーシュの答えを聞くと、一同が軽く飛び上がった。
中には「そういえば……」と声を漏らした者もいた。
この一団、もしかしたら精霊祭に居合わせた芸人たちなのかもしれない。団長は飛び上がった形、半立ちになったまま、夢でも見ているかのようにぽかんと口を開けてイーシュを見つ続けていた。
無理も無い。神官と話すことすら庶民にはあまりないことだというのに、精霊祭の巫女、御霊入れと直に話し合うなんてことはさらに稀だ。森に一人しかいない雲の上の存在だ。
一通りイーシュを上から下まで眺めると、目をしばたたかせていた若者が、急にはつらつとし始めた。嬉しそうに隣の団長の肩を叩く。
「こ、こりゃあ、団長!! 俺たちついてるよ! きっとこのまま逃げ切れるはずだ!!」
さきほどまでの暗い顔はどこかに吹き飛び、皆の顔に明るさが宿り希望に沸き立つ。
馬車は発ったとはいえ、どこに皇国兵が潜んでいるかわからない。ここは寂れた、土地の者しか知らないような田舎道だが、絶対に安全とは言い切れなかった。
うつむいていたのは逃げ切れるかどうか分からない不安のためでもあったのだ。
「ありがとう! 巫女様! このまま共に北の岬まで行きましょう!!」
あまつさえそう言って、旅芸人たちは順々にイーシュの泥と傷だらけになった手を握る。
助けてもらったのはイーシュの方だ。
しかしそう言っても誰も耳を傾けない。沸き立ちすぎて、聞こえていないのだろう。
言葉を無くし、イーシュはただ唖然と喜び合う人々を見ていた。




