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8-5

「追って来る奴はいないようだな…」


 あの後、ベルンが全て雑兵を片付けたのか、それとも二人が森に消えたのが早かったのか。後からやってくる者は一人としてなかった。それは、ベルンも含めてだった。

 ライオルはずっと固く唇を結んだままでいる。イーシュもだ。

 無言のまま二人は平らかな森を進んだ。

 谷を越える前に比べて、いくらか木々の密度が下がったようだ。少しだけ枝葉の張り出しが、進むのに気にならなくなる。

 先を行くライオルが、急に、背中を向けたままぶっきらぼうに言った。


「足、大丈夫か?」

「ええ、平気です」


 元々森の民は森慣れしているというのもあるし、それにイーシュは舞の訓練で見た目よりも体力がある。

 ただ、その纏う白い法衣は土と草の汁とで汚れてしまっていた。そこらに引っかっけてしまったのだろう。柔らかな素材の布は、ところどころに穴が空いている。それに森に入る時に袖や裾を切ってしまっているので、清楚で身奇麗な普段の面影はひとつもない。

 ライオルもそれは知ってはいただろうが、改めてちらりと振り返り、再度確認した。それから前を向き直り、十歩ほど歩を進めてから小さく呟いた。


「……なぁ、イーシュ。俺、最後まで将軍にはなれなかったよ。お前の前でずいぶん吠えたのに、かっこわりいや」


 戦に程遠い、神官であるイーシュのぼろぼろの姿が、西津森の現状を痛烈に語っていた。

 ライオルの口調は、まるでそれが自分の力無さのせいだとでも言いたげだ。

 イーシュは首を振る。


「それは……だから年齢のせいですよ」


 その話は前にもした。将軍になるにはもう少し信頼と経験が必要だ。十代でなるには難しい。と。

 だが、ライオルは「それでもだ」と言って、イーシュから見える後姿を寂しくした。


「俺、前によ、中津森の将軍が新しく任命されたとき、ずいぶん批判したけど……そんな資格すらねえやな。あそこの将軍たちはすごいよ。素晴らしいよ。会ったことはねえけど、あの皇国相手に、今でもちゃんと中津森を守っている。彼らじゃなかったら、とっくに中津森は無かっただろうな……。西津森の俺たちは……この体たらくだぜ。恥ずかしいや」


 慌ててイーシュが小走りでライオルの隣に並んだ。


「そんなに自分を卑下しないでください。……ライオルは強くて優しいです。きっと将軍になれたはずです。だから今は、私はそれで十分だと思いますよ?」


 本当になれたかどうかは、もちろんわからない。

 だがイーシュの瞳は澄み切っている。そう信じきっている色をしている。

 頬染めながら、ライオルは苦笑いのような無理した微笑を浮かべた。


「……ありがとよ」


 普段のライオルならこんな風に素直には言わない。

 イーシュは嬉しそうに微笑を返した。


「それに、こんな状況ですが、まだ終わったわけじゃありません。逃れ着いた先で将軍になったらいいじゃないですか」

「逃れついた……先、か?」

「はい」

「へへっ……そこじゃあ、もし将軍になっても、異民族を信用できるんだろうか? とか、故郷を守れなかった兵士に将軍が務まるんだろうか? なんて影で噂されるかもしれないな。俺がそうしたようにさ」


 自虐してはいたが、ライオルの琥珀の瞳は内から光を放つように輝いていた。








 森は続く。

 まだ夜も続く。

 館を出て、ベルンと別れて、どれくらい経ったのだろうか。

 当分、夜が明けないことだけは体感で分かる。

 二人とも体は疲れきっていたが、その足が止まることはなかった。

 進むべき道は、森の民だ、山の微妙な傾斜や、木々の張り出し方、年輪、星の位置なんかで分かった。地図上の知識でではあるが、地理も把握している。そう間違った方向へ向かっているということはないはずだ。

 空の星座が、抜け道を出たばかりの頃とはすっかり変わっていた。

 そろそろ、館の北方にある集落にさしかかる頃だった。


「……しっかし、あの北の橋にまで皇国兵が張ってたなんて……」


 ベルンと別れることになってしまった先ほどの橋のことだ。

 イーシュたちは道なき道を進んできたが、集落が少ないとはいえ森の北に続く道はある。北の橋はそのひとつで、館のお膝元と北の小さな集落とを結ぶ細い道の上、そのほぼ中間にある橋だ。

 館の襲撃とほぼ同時に、離れた橋にまで、こちらの地理に詳しくはないだろう皇国兵が達していたというのは用意が周到だ。館をお抑え、そこにいる森の主を捕らえられれば、この戦は皇国の勝利なのだから。

 館の周囲に到達するのも風のような速さでの進軍だったのだが、その上、包囲した上での攻撃だったとは。

 悲しそうに、イーシュが呟く。


「どうして皇国兵はこれほどまでに私たち、森の民を……土地を奪い、旦那様を捕らえるつもり以上の……なにか負の想いを感じます。まるで、森に住むもの全てを滅しようとするような……」


 広大な領土を持つ皇国にとっては、そばの森にひっそりと住む少数民族のことなど、存在すら取るに足らないはずなのに。

 そう思っていたのはイーシュだけではないはずだ。きっとライオルもその意見に反対はしないはずだ。けれど出てきた答えは兵士らしい単純明快なものだった。


「降りかかる火の粉は払う。それだけだ」


 そこで一旦、森が開けた。

 安堵するはずだった。動かし続けた足を止め、星空が広がっているのを見上げたりなどして。

 しかし、二人の眼前に現れたのは予期せぬものだった。

 ――たくさんの皇国兵が小高く盛り上がった坂の影から現れた。


「っ……」


 ライオルの息とも声ともつかないものが漏れる。

 出くわした。対する相手も驚愕の色に顔を染めている。

 その数、二十数人。ベルンが相手にした兵の倍ほどだ。

 刃にはすでに曇りがある。人の脂だ。付着しただろう血液は、どこかで拭いてきたのに違いない。

 北の橋に皇国兵がいたことでライオルは警戒して迂回していたのだろうが、まばらとはいえ、館の北に広がる森にもいくらかの集落がある。

 その刃の犠牲となったのはおそらく、そこの村人だ。


「もうこんなところにまで皇国兵……いや、軍が入り込んでいるのか? ……まさか本当に森の民をみんな殺しちまう気か……」


 ライオルも気を張っていたとはいえ、いくらかの油断があったのだろう。

 だが、それは責められない。皇国の進軍があまりに早すぎる。そして執拗すぎる。森の主を捕らえるだけでは気が済まないらしい。ベルンですらも、この展開には驚くはずだ。

 現れた皇国兵はすぐに二人を包囲したが、襲ってはこなかった。

 それどころか笑っている。

 言葉がわからないが、なにやら口々に仲間内で言い合う。嫌な雰囲気だ。


「……なんて言っているのでしょう……」


 答えを期待しないイーシュの問いに、意外にもライオルが応えた。


「森の蛮族がまだいた、って。誰が斬るか話しながら、ふざけあってる」


 ライオルが答えたということと、その内容に、イーシュは驚いて目をしばたたかせる。


「蛮族……?」

「あいつらはみんな、俺たちのことを森の蛮族って呼ぶのさ」


 皇国兵と刃を合わせるうちに、ライオルはいくらか南の言葉を理解していたらしい。それ以上の会話の内容も理解できたのだろう。そこらにつばを吐く。


「どっちが蛮族だよ。でか鼻のげじ眉がよぉ!」


 皇国兵がぴくりと動きを止めた。相手も森の言葉を少しはわかっているらしい。

 急にその場の空気が張り詰めたものに変わる。二人を囲む輪が一回り小さくなる。

 口をくちゃくちゃさせて何かを食んでいる下品な大男たちが、汚れた剣を片手に二人を見下ろし、せせら笑う。

 イーシュとライオルはお互いの距離をせばめ、近寄ってくる皇国兵を睨んだ。

 多分、二人ともの脳裏によぎった。

 終わりかもしれない。と。

 皇国兵が森に生える雑草を踏みつける、湿った音が鳴る。


「ライオル……」


 この状況で、イーシュはとても優しい声を出した。

 背後のライオルが、背中の動きをぴくりと止めた。

 それを待っていたように、イーシュがおもむろに言う。


「ありがとう。私、いつでもライオルに元気を分けてもらっていました……ずっと、私のそばにいてくれるなんて約束、本当は期待してなかったんですよ? だって、ライオルは私ではなく森を護る兵士ですから。でも……」


 イーシュには恐れは見えない。

 死はすでに覚悟の上だったからだ。館に向かうと決めた時から。

 それどころかどこか嬉しそうな眉を歪ませ、ライオルはそれを聞いていたが、イーシュのどこか嬉しそうな小さな笑い声が聞こえたのだろう、怒鳴り声を上げた。


「馬鹿言ってんじゃねぇよ。まだ終わってねえ!」


 突然、そう言い放ってライオルは鎧を脱ぎ始める。この敵前で。

 西津森独特の繊細で美しい装飾が施された甲冑が、惜しげもなく地に捨てられる。残されたのは軽い肩当や腰当のみとなる。


「ラ、ライオル!?」

「鎧なんて、この状況じゃ意味ねぇよ」


 皇国兵がいささかどよめいていた。が、面白い見世物になりそうだとでも感じたのだろう。驚き顔は嫌な薄ら笑いにすりかわる。そうして二人の様子を眺め始めた。

 ライオルもそれを確認する。


「おお、軽い、軽い」


 そう言ってその場で何度か飛び跳ねた。


「懐かしいな、一兵卒だったころを思い出すよ。こんな簡単な防具だけで皇国兵と斬り合ってさ。今考えると、危ねえよな。ほんと、よく死ななかったよな」


 鎧を脱いだライオルには、なにかどこか幼い頃の面影が湧いてきていた。いつも小汚くて意地っ張りで、でも人一倍元気ではつらつとしていたライオル。

 眉根を寄せ、ただ見守るイーシュを、ライオルは似合わない優しい瞳で、じっと見つめ返した。


「だから大丈夫だ。あの時死ななかったんだから、今だって平気だ」

「なに……言ってるんですか」


 イーシュは震えていた。ライオルがどうするつもりなのか、察しがついたからだ。

 ライオルは微笑んだ。まるでイーシュがいつもそうするように、澄み渡る何かを感じさせて。


「なあ、イーシュ。お前の舞、綺麗だったよ。……孤児院のみんなも言ってた。館のやつらもな」


 なぜかライオルは神殿の脇でいつもくだらない話をしていたときのように、どこかくつろいでいる。


「……ほんと、綺麗だった……」


 目を閉じ、満足げに深く息を吐く。

 イーシュは小さく首を幾度か横に振った。


「どうして……こんなときに、そんな話……」


 見ている皇国兵は言葉がわかったのか、ライオルの様子がただおかしかったのか、げらげら声をたてて笑っていた。

 背中合わせだったライオルが、急にぱっと振り返る。そしてイーシュの肩を掴んで、ぐいと向きを変えさせた。

 驚いた表情のイーシュの顔がライオルと向き合う。

 ライオルはイーシュの手を取り、ためらいを含みながら少し震え、その後、そっとイーシュと額を合わせた。そのまぶたを閉じた顔には儚い笑みが浮かんでいた。


「幸せになってくれよな。一生神に仕えるんでも、……誰かと結婚するんでもいいからさ」

「え?」


 途中軽く躊躇したライオルの小声が、確かにイーシュの耳に届く。聞き間違いではない。

 それでももう一度聞き直したいように、イーシュは頭半分ほど上のライオルの瞳を見上げる。

 幼い時からこれまで、ずっと近しくしてきた二人だけれど、こんな距離で相手を見るのはお互い初めてだった。イーシュは、ライオルのまつげが、思っていたよりも黒っぽくて長いことを今知った。

 ライオルのあまり肉厚ではない唇が動く。


「……そうだ。もし、好きな男ができて、そんで、もしも結婚したんなら、できたら子供を産んでくれよ。見に行ってやるからよ。……俺はいまだに半信半疑なんだが……魂は不滅なんだろ?」

「ライオル……そんな……結婚するなんてことはあり得ませんよ」

「お前の子供なら、男でも女でも可愛いだろうな。……俺は、お前のそんな人生も祝福するよ」


 イーシュを無視してそう言い終えて、満足したようにライオルはにやりと笑うと、合わせていた額を離し、大事そうに握っていたイーシュの手を本人の胸元に返した。

 イーシュは人形にでもなったように、されるがままにその形で固まる。


 皇国兵の包囲の輪が、またひとつ小さくなった。

 話は、いや見世物は終わったと感じたのだろうか。剣を鞘から出したり入れたりするのを繰り返す。

 そろそろ向こうもただ話し合っているのを眺めるのに飽きたらしい。男女二人で逃げてきたものだから、なにかもっと別のものを期待していたのかもしれない。

 中の幾人かが、俺の獲物だとばかりに舌なめずりをしながらにじり寄り始めた。

 それを合図にライオルは、イーシュの耳元に小声で囁いた。


「……さあ、無駄話はここまでだ。ここは俺が食い止める。風穴あけてやるから、お前はなんとか隙間から逃げろ」


 この絶望的な状況でまだ望みを捨てるなと言う。

 そしてそれは、ライオルが犠牲になって成し遂げると言う。

 あまりに簡単に言ったので、イーシュの目は疑うように見開いて止まった。

 そうして幾度か瞬きを繰り返し、ライオルが発言を撤回しないのを知ると、今度は唇を開いた。

 それをライオルが即座に目で制する。声を出すなと無言で諭す。「できない」。そうイーシュの唇が動きかけたからだ。そうしたのは、皇国兵にもいくらか森の言葉が通じているらしいからだろう。

 ライオルはイーシュの耳元で、小さな早口を聞かせる。


「イーシュ。逃げ切れるともかぎらねえぞ? さっきは橋だったから、敵の行く手を封じることもできただろう。たぶんベルン様はそうしたんだ。けど、ここは平地だ。俺が全てを食い止められるわけじゃない。……死ぬ気で走れよ?」


 ライオルの琥珀の瞳はいつにも増して強い。心に宿っている強さの表れだ。

 言葉出ず、イーシュは青ざめる。


「さ、行け。それを合図に俺も動く」


 イーシュを察したが故だろう。このままライオルが先に行動を起こしても、もし風穴を開けることができたとしても、イーシュの様子では機敏にそこをすり抜けられる心意気が見えない。

 証拠に、イーシュは小刻みに震え、ただライオルを見つめたまま惑っている。


「で、でも……」

「早く行け。お前みたいな上等な女が捕まったら、死ぬまで慰み者にされんぞ。蛮族とか言いながらあいつら……」

 

 ライオルは汚らしいものでも見るかのように囲む人の輪の一角を睨んだ。その先の皇国兵が、寒気がするような嫌なにやり顔を見せている。


「でも……!」


 それでも食い下がったイーシュの言葉にかぶせるように、ライオルが畳み掛ける。


「これ以上は言わせんな! 俺は旦那様からお前を頼まれてるんだ。俺は兵士だ。わかるか!?」


 敬愛する主の命を遂行することは、森の兵士にとってこの上ない喜びであり、責務だ。兵士ではないイーシュにもわかっている。

 それでもイーシュの足は動かない。

 痺れを切らしたライオルが叫んだ。


「邪魔なんだよ!! さっさと行けぇ!! 無駄死にさせる気か!?」


 ライオルにだって、きっとわかっていた。イーシュがなかなか逃げ出さないのは、自分への想いがあるからだと。ライオルには悲しいことだが、それは恋慕ではなく――幼馴染の、よき友人として、だと。


 突き放すように叫んだ後は、ライオルはイーシュの背中を強く押して、皇国兵の前に突き飛ばした。

 皇国兵たちはどよめいた。

 ライオルがイーシュを盾に逃げようとしたように見えたのだろう。

 だが、その一瞬の隙に、ライオルは駆け出しイーシュを追い抜き、壁のように並んでいた三人の皇国兵の首元を剣で薙いで掻っ切った。その体が鮮やかな鮮血を噴出しながら地に崩れ落ちる。ライオルの持った剣は薙ぐのに有利な片刃の剣だった。

 それでようやくライオルの覚悟を受け止めたイーシュは、ライオルが次の敵兵に身構えるよりも早く倒れた敵兵を飛び越えた。

 裾を短く切った法衣は、どんな動きの邪魔にもならなかった。

 剣戟の高い音が鳴る。

 泣きながら森を逃げるイーシュの耳には、ライオルが敵兵に切りかかっていく雄たけびがしばらくの間、聞こえていた。









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