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暗い森を三つの影が行く。
さすがは森に慣れた森の民、突き出した枝葉を上手にかわし、避けて駆けていく。
幼い頃から山道に慣れたイーシュは女の足ながら、兵士である男二人にそつなくついていく。ベルンが感心して響かないよう口の中で小さく口笛を吹いた。
館のあるお山のふもとの抜け道から出て、北の岬へは長い道のりだ。
まずは深い森を越え、谷をひとつ、そして再び森を越えなければならない。ここまででも夜通しの道だ。
領土は森の少ない北側にはあまり広がっていなかった。あいまいなのだが、西津森の領土は文字通り、森まで。その先は統治もされないさびれた荒地が続く。
そこからの道は森の民はあまり知らない。運良くどこかで馬でも仕入れられれば一週間ほどで岬に辿り着くという旅人たちの話くらいは伝え聞くが。
抜け道を出てからずいぶん経っていた。時折木々の間からのぞける空の星の位置が時刻を知らせる。真夜中だ。皇国兵にはまだ出くわしていなかった。
「……おかしいと思わないか?」
そう言ったのはベルンだった。続くイーシュの後ろでライオルも頷く。
またベルンが言った。その眉間には深い皺が刻まれている。
「こいつは……もしかしたら……」
だがベルンはそこで口を閉ざした。
それでも、ライオルどころかイーシュにすら、その言わんことが朧に理解できていた。
その予感は的中した。
しばらく森を行くと大きな吊り橋が見えてきた。
森を切り裂く谷だ。
深さはそれほどでもないが、降りられるというほどでもない。降りたとしても何の道具もなければ再び登ることはできないだろう。そんな垂直の斜面の底には、細いが流れの速い川が行く。
西津森の領土はまだもう少し北にも広がっているが、その谷が行く手を阻んでいた。橋が森と森をつなぐ。
木々と葉陰に身を潜ませながらベルンが言った。
「やはりな……見ろ。皇国兵が谷の橋を包囲している」
同じように身を潜ませるイーシュとライオルの目にもその様子は映っていた。
吊り橋の手前に、十数人の雑兵がうろついている。皆揃って体つきがしっかりとしていて大きく、毛深い。アンデルア人の特徴だ。
ベルンは顎を揉む。
「旦那様を狙ってのことだろうが……先回りされたな。いや、もしかしたら館に突入する前からここで張ってたのかもな」
「ちっ……なんてねちっこいやつらだよ!!」
小声でできるかぎり乱暴にライオルは言って、舌打ちをした。そして皇国兵を睨みつける。
「くそ……裏の裏をかいて中津森の方角に逃げた方が良かったのか……?」
ベルンが制御するように、そっとライオルの前に手を広げた。
「落ち着けライオル。ここ以上の包囲が張ってあるに決まってる」
「ああ、……そうだよな……わりぃ」
「お前らしくないぞ」
そう言ってベルンは差し出していた手で、ライオルの肩を優しく何度か叩いた。
その間、ライオルがイーシュを見つめる。
取り乱すのはそれだけイーシュのことに責を感じているからだろう。思い入れというのもあるだろうが、森の主に託されたというのがさらにそれを大きくしたに違いない。
ライオルはまた皇国兵に目を戻すと、いまいましいという様子で、そこらにつばを吐いく。成長してからは見られなくなっていた幼いときの癖だ。
それを見て、こんなときだがイーシュは少しほほえましく笑ってしまっていた。
その間にも皇国兵は変わらず吊り橋前を持て余したようにうろつく。
イーシュが言った。
「迂回しますか?」
「いや……ここまで皇国兵が入り込んでいるのだから、時間が経てばますます危険だ……」
答えたベルンはそうして考え込んでしまった。
兵士の数を数え直し、いくらかして呟く。
「十五人程度なら……いけるか……?」
「ベルン様、なに考えてるんだよ」
ライオルが訝しがる。もう薄々何を言うかわかっているという顔だ。
ベルンの答えはおそらくライオルの予想を裏切らなかった。
「俺があいつらを食い止めるから、お前ら先に行け」
「な、なに言って……! 駄目だ!!」
「そうです! いけません!!」
ライオルに続いてイーシュも驚いて声を立てる。
その二人に対して、ベルンはいたって冷静だった。
「俺に下された命はあんたを無事に森から脱出させることだ。……それに心配するな。たかだかあの程度の下級兵士、この俺ならなんとかなるだろう」
ベルンは余裕の笑みを浮かべる。だが実際はそれほどでもないに違いない。ベルンの額には冷や汗が浮かんでいた。奇襲をかけたとしても、必ず囲まれるに違いないだろうから。
しかし、それでも言う。
「馬でも奪って、きっとあとから追いついてみせる。大丈夫だ。もし追いつけないと思ったら岬には行かずに中津森に逃げるから、心配しないでお前たちは逃げろよ? 決して俺を待つなよ?」
ベルンは念を押した。
俺が死のうと生きようと、躊躇せずに進め。
言葉は違うことを言っていたが、きっとベルンはそう言いたかったのに違いない。だがそう言えば、二人が、特にイーシュが納得しないと思ったのに違いない。
ベルンがそんな回りくどい言い方をしたので、イーシュは逆に全て察してしまった。
「ベルン様……」
だがそこで呑む。
続く言葉を言ってしまえばベルンの気遣いが台無しだ。イーシュはうなだれることでかろうじて耐えた。
妙な沈黙が訪れた。
森の葉がさわさわと綺麗な音を立てて揺れるのが不思議に感じられるような。
ライオルはもう、ベルンの決断に逆らう気はないようだ。静かに歯を食いしばる。
ベルンがその肩を叩く。
「きっと橋を越えればなんとかなる……皇国兵もまさか谷を越えてまで張ってはいないだろう。まあ、しかしあいつらの考えることはわからん。足は緩めるな」
「ベルン様……」
ライオルが何か言いたそうにベルンを見上げた。その顔が、堪えたように歪む。
だが口から出たのは表情とは程遠い言葉だった。
「い、いや。今までの礼なんて言わねえからな! またきっとどっかで……噂話くらいは聞くんだろうからな! 手紙でも送るよ!!」
ライオルたちが目指すのは、ほとんど交流の無い北の海の向こう。噂話どころか手紙を届けることなどできそうにもなかったが、そうとしか言えなかったのだろう。
幼いときからベルンに剣の指導を受けてきたライオル。その恩は計り知れない。イーシュの次に長く深く付き合った人間でもある。
多分、もしも、本当にこれまでの礼を言ってしまったら、泣いてしまうかもしれなかったのだろう。
強がってそっぽを向いたライオルの横顔が、そんなことを語った。
ベルンは弟子の代わりに、何も言えずにいるそばのイーシュに目配せして頷いた。
「ああ、そうだな。届くといいな。その時はきっちりこれまでの礼を書いて送ってくれよ?」
そして鼻で笑った。
作戦は決行された。
ベルンが先に橋の兵士たちの前に踊り出て、戦闘を開始する。
突然のことに、皇国兵はひるみ、ひとり、続けざまにまたひとり、即座に急所をやられて倒れこんだ。
「行くぞ!」
その隙に、潜んでいたライオルとイーシュは駆け出した。
ベルンが意図的に空けた皇国兵の隙間を縫って、橋板の上を目指す。
皇国兵は突然現れたベルン以外の者がいるとは思っていなかったのだろう。包囲はしてはいたが、さきほどまで、手持ち無沙汰に隊列も組まず、各所に配置されているという風でもなく、ただうろついていた。油断しきっていたのかもしれない。
ライオルが剣を抜くことも無く、ほどなく目的は達成された。橋を渡りきり、またその先の森に駆け込む。
二人はそのあとのベルンの姿を知らない。
ただ遠く背中越しに、道を別った人のものだろう剣がこすれあう音が届いた。




