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8-2

 イーシュは走っていた。

 神殿前にいた馬車には乗らなかったのだ。


「神官長さま……お許し下さい……そして、ありがとうございます」


 日暮れの影に染まりながら奇妙に逃げ惑う人々の波を掻き分けて、イーシュは小山に建つ、西津森の主の館を目指した。







 意外にも、館の中はがらんとして静まり返っていた。

 ふもとの集落の混乱が嘘のようだ。

 イーシュの急ぐ靴音だけが、薄暗く広い、ひと気無い館に響く。

 幼い頃より、神事で何度も館を訪れる機会のあったイーシュは、最短の道で目的の場所に駆ける。辿り着き、平時なら護衛が守るはずの鉄の大扉をくぐった。この状況にあって、今は逆に誰も守るものの無い開け放たれたままの姿は、違和感が強い。

 そこは主の間だった。

 幾本もの太い柱に支えられた高い天井。装飾の施された美しい壁面。蝋燭も灯されず、薄暗い人影の無い広間は不気味ささえ漂う。

 その最奥、なぜかこの非常時に、森の主は青い布張りの椅子に鎮座したままだった。

 静かに目を閉じていたのだが、イーシュが駆け込んでくるのを認めて、跳ねるように立ち上がった。


「イ、イーシュか!?」


 西津森の主がイーシュの名を呼んだことは別段驚くことではなかった。

 なにせイーシュは、これまでで最も年若く御霊入れに任じられ、連続で三年もその大役を勤め上げた、森の歴史上かつてない人物だからだ。

 そんな類稀な巫女の名を、その森の主が記憶しないはずがない。初めて御霊入れを務めたあの夜でさえ、すでに、森の主はイーシュの自己紹介も無く、その名を知っていた。


 主は一段高くなった場所にある高御座から降りる。そして、高齢とは思えない素早い動きで駆けてきて広間の中ほどでイーシュと出会い、その真正面に立った。

 着用した衣服の金の縁取りが、窓から入る月星の僅かな明かりに輝く。


「なぜここにおる!? すぐに逃げるのじゃ。皇国は館を取り囲もうとしておる」

「旦那様はお逃げにならないのですか?」


 さきほどまでの様子とは違い、イーシュの声はやけに冷静になっていた。

 主は僅かに何かを感じたらしい。ひるむ。声が低くなる。


「……わしはここの主じゃ、逃がすべき命があるうちはここを離れん」


 イーシュは毅然としていた。これまでただ一度だけしか直接話したことの無い、偉大な森の主を目の前にしても。


「旦那様、皇国軍が攻め込もうという今、私がここに来た理由はお分かりのはずです」


 主は目をそらした。

 深い皺に黒い影が落ちる。


「……。いや、わからぬ」


 それを回りこんで、あまり背丈の変わらない主の、その目を見つめてイーシュは言った。


「お隠しにならないでください。そして旦那様の口からおっしゃってください。私はそれを聞く為に命を捨てる覚悟でここまできたのですから……」


 純白の法衣の裾は、どこでそうしたのか、少し汚れていた。いつも身奇麗で涼やかなイーシュの額には、髪が汗で張り付く。

 横目でそれを眺めていた主は、イーシュの言葉を聞き、ようやくそむけていた顔をまたまっすぐに向けた直した。


「……神官長に聞いたか……」


 もう言い逃れもごまかしもできないことを知ったらしい。

 主の眉間の皺がいっそう深くなり、灰がかった青色の瞳が、何かの感情を含んで揺らめいた。

 老いた硬い手が伸びる。

 それがイーシュを包むと、主はついに言った。


「イーシュ……我が末の娘……」


 震える声で、抱かれたイーシュが問う。どこまでも遠慮がちに。


「……もし……もしよろしければ、お呼びしてもよいでしょうか……? その……お父様、と……」

「むろんじゃ」

「……。……お父様」


 主の腕の中にようやく安堵して収まるイーシュは、この上ない穏やかな表情を浮かべていた。

 それはイーシュが幼い時からずっと夢見て、望んでいた時間だった。

 いつか、長じた後には来るだろうと信じて待っていた時間だった。

 主の、父と呼ばれる者としてはあまりに老い細った手が、一段としっかり、長らく離れていた娘の背中を包み込む。


「許してくれ、この手でお前を大きくしてやれなかったこと……。わしが語りきることはできぬだろうほどの寂しさと苦労を与えたこと……。お前は紛れもないわしの娘。本当ならば、『森の主のお嬢様』などと呼ばれ、何不自由なく暮らすことができただろうに……」

「わかっています。そうできなかった事情があったのでしょうから」


 イーシュが言って、主は一瞬、ぴくりと体を強張らせた。


「……母のことも聞いたのか?」

「はい……でも、もっと前から母のことは知っていたんです。でも人から聞いたわけではありません」


 主の白い眉がひくひくと動く。だがもう、何を知っていてもおかしくはないという顔だ。

 寄せた頬を離して、紛れもない愛娘の横顔を見る。

 イーシュは目を閉じた。長いまつげがそれを飾る。


「……ある日、南の集落が落とされた日、暖かな魂が私の元を訪れていました。亜麻色の髪に碧の目をした優しげな女性でした……まるで精霊と見まごうような綺麗な人で……」


 森の主の顔は、心当たりがないという顔ではなかった。イーシュが語るのをただ静かに聞く。


「きっと死の直前の姿ではないと直感しましたが、……白い法衣を着ていました。そして杓丈も……。そしてさきほど、神官長様から母は高位の神官であったと聞きました」

「……」

「私が見た魂……あの人が母なのですね? 私を神殿に預けたのは、神職の、許されない身分の女性との子供だったからですね?」


 主はようやく口を開く。その声が重いのは、ずっと黙っていたからではない。


「そうだ……。すまぬ。彼女を愛した時、お前を身ごもることになったあの夜、彼女はまだ神に仕える身だった……。……戒律を破ることになるとわかっておった。しかし……親子以上も年の離れたワシに、彼女は手を差し伸べてくれたのじゃ……」


 主はまるで娘に寄りかかるように力無い。


「彼女はその後、自ら神職を離れ、森の奥にひとり隠居した。そうして密かにお前を産み落とし、神殿に預けた」


 淡々と、主は語る。感情を殺して。それが逆に内に秘めた想いの深さをイーシュに感じさせた。


「……それは神に仕える者の、戒律を破った自分への罰であり、けじめでもあっただろうが、きっと、わしに対する優しさでもあり、森を思ってのことだったのじゃろうとも思う。このことが知れれば由々しきこと……。わしは信頼を失い、地位を追われたじゃろう。だが、戦の続く今、森よりわしを失うことはできぬ、などと考えたのかもしれぬ、と」


 主の血を受け継ぐ正妻の息子たちは、続く戦のうちに、武将として勇敢に戦い、命を落としていた。

 もともと気の穏やかな者が多い、戦に向かない民族だ。その中で、体は動かずとも館から的確に戦の指揮を執る主は、民によく慕われ、信頼されていた。

 イーシュが生まれた十六年前から、それは変わらない。


「……わしが軽率であったのだ。想いに抗えず……、よもや一夜の契りで命を授かるとは考えもしなかった。そもそも、神に仕える者に心を奪われたとて、この手に触れてはいけなかったのじゃ。結果、お前と、お前の母を苦しめた」


 主は皺だらけの顔を小さくしぼめた。


「愚かすぎる、老いらくの恋とわろうてくれ……罵倒し、嘲り、わしを呪うてくれ……」


 主の語りは自責に満ちていた。その重さに、今はいつもの威厳は消えうせていた。ただの小さな老人と化してしまっていた。

 語りを聞き終えたイーシュは、諦めきったような静かな顔で、小さく首を横に何度か振り、深く息を吐いた。


「……人の心は簡単には動きません」

「……」


 その言葉を聞き、主は覚悟を決めたような渋い顔をする。やっと胸に抱けた愛する人の忘れ形見を、そっと自らその手から離した。

 が、イーシュは両の手でもって、その皺だらけの手を引きとめ、握る。その目をもう一度見つめる。奥の奥まで。


「それほどまでに愛しておられたのですね。お父様のその心を、誰も咎めることはできません。お母様だって、わかっていて、お父様を受け入れたのでしょうから」


 それはイーシュには知らない感情だった。

 しかし、愛以外は、留めきれない想いが人間にはあることはイーシュでも知っていた。

 神殿を訪れるのは、そんな、深い苦悩を抱えた人々ばかりだ。


「それに、言ってください。お父様は、母の隠居も出産も全て、あとから聞いたのだと。神官長様が私を母から引き取り戻ってきたその時に……お父様は、そこに何の関与もできなかったのだと」


 それは事実だった。イーシュがついさきほど、神官長から聞いてきたばかりの話だった。

 しかし主は強く首を振る。


「いいや……お前には苦労を強いた。どんな事情があろうとも、少なくともお前はわしを責める権利がある」


 主は身を引いた。

 だがその握った手をイーシュは離さない。そして潤んだ緑青の綺麗な瞳を惜しげもなく、全て父である主に向ける。


「いいえ。イーシュは……お父様に感謝しているんです。もちろんお母様にもです」

「憎まれこそすれ……感謝……?」


 イーシュはゆっくりと頷いた。


「神殿に預けたのは、私の見えないものを見、感じる私の力を憂慮したからのこと……制御を学ばねばなりませんでした。母は高位の神官だったのですから、私のことは見てわかったのでしょう。もしかしたらお腹の中にいる時からわかっていたのかもしれません。

 それに同時に、手元から離し、身元を分からなくすることで、不義の子として世間から追われるだろうことからも守ってくださろうとしたのだと思います。だって、母は高位の神官を務めるほどの力ある方だった……ならば私に神殿にいるのと同じ指導をすることはできたはずですから。……神官長様もそうおっしゃっていました」


 主は答えない。

 だが、イーシュや神官長が言ったことは主だって考えたのに違いない。これまで何度も。だがそれはいい訳だと、甘えだと、そのたびに棄却されてきたのだろう。

 証拠に、その顔が迷いで歪んでいた。その考えを受け入れてよいかどうかと。自責が邪魔をしていた。

 イーシュはその主を後押すように、きつくその手を握り直した。


「それに、お父様のその暖かなまなかい……。幼い時分、見習いとして館に出入りしていた際、私はそれをなんて優しいのだろうと思っていました。……今、気づきました。私に向けられていたのですね……離れても、私をずっと見守っていてくださっていたのですね?」


 雷に打たれたように主の体が硬直する。


「隠していたつもりだったが……」


 軽くうつむいた主の顔を覗こうと、イーシュは屈み込む。


「それに私は神官長様から、『旦那様の遠縁の娘』と自分のことを伺っておりました。……神官長様が独断でそんなことを言うはずがありません。……お父様なのでしょう? そう伝えよと命じられたのは。娘とは言えずとも、そういうことにしておけば、きっと皆が私に良くしてくださるだろうから……」

「そうじゃ……何もできぬが、その肩書きがお前を守ってくれると思い……しかしそれだけではお前に償うには足りぬ……」


 ようやく主はイーシュの言うことを認めた。そう言うと、膝をつき、娘の前に頭を垂れる。

 慌ててイーシュはもっと深くかがんだ。


「謝らないで……お立ちになってください」


 主の固い顔の皮膚は動かない。

 イーシュは囁くような心地よい優しい声で言う。


「……お父様とお母様が愛し合ったことは、許されないことなのかもしれませんが、私はそのお陰でこの世に生まれ出ることができました。確かに寂しさはありましたが、それを上まって余りある喜びも知りました。それに森の大切な巫女、御霊入れになることもできました。生きて、色々なものを感じ見ることができました。……本当に、私は感謝しているんです」


 イーシュの言葉に反応して、主の頬が幾度か痙攣した。そうして何度目かに、涙の粒がそこを下った。

 手を解いて、イーシュは小さく丸まった父の背を抱く。


「お父様は素晴らしいお方です。だからお母様も……。いつか私も、母のように、お役目を捨ててもいいと思える男性にお会いしてみたいものです」

「イーシュ……」


 心細ささえ感じるほど広い主の間の中ほどで、二人は抱き合ったまま沈黙していた。

 それを引き裂くものがある。

 突然の轟音が響いたのだ。

 何か頑丈なものが破壊される音だ。

 次いで大勢の雄たけびが上がったのが聞こえた。


「いかん。館の城門が崩されておるに違いない!」


 主は鋭い眼光を取り戻し、老いた体とは思えない素早さで立ち上がった。


「こんなことをしている時間は無い。イーシュは早く逃げるのじゃ。山の裏側に抜け出る隠された道がある。お前は死んではならん。娘としてだけではない。巫女として、それほどの力があるのならば余計にじゃ」

「しかし、お父様は……」


 イーシュが言ってからはっとして青ざめる。


「こんな状況でこんな場所におられるなんて……もしや……」

「そのもしやじゃ。わしは森の主じゃ。戦の戦力にはならぬとて、ここから逃げだすことはない」


 なにかまだ言いたそうなイーシュを振り切り、主は背後を振り返った。


「近衛兵。そこにおるな?」


 主が奥の高御座のある暗がりに声を掛けると、そのそば、青い厚地の垂れ布の向こうから二つの人影がすっと即座に現れ出た。


「はっ」


 上等の近衛兵の濃い青装束に身を包んだべルンとライオルだった。

 揃って白い手袋をはめ、黒い剣帯を肩からかける。そして、近衛兵隊長のベルンの胸にはいくつもの金の勲章が輝く。

 いつもは粗雑なライオルも、今はきりりとした精悍な眼差しを主にまっすぐ向けていた。紛れも無く、疑いも無く、あるべき近衛兵の一人としての姿で。

 主は誇らしげに二人を見つめた。そして申し訳なさげに言う。


「今、この館にわずかだが残るは、森と命運を共にすると誓った有志の兵たち……お前たちもそのうちの誉れ高い勇敢なる兵たちだ。……だが、今はどうかわしのめい……いや、わがままを受けて欲しい」


 ベルンが胸の前で腕を畳み、うやうやしく頭を深く下げた。どうやら主が何を言うのかわかっているらしい。隣のライオルも、一瞬躊躇はしたが、同じように頭を下げた。

 それを見て、眉間の皺をいっそう険しくした主は、しかしおもむろに言う。


「お前たち、イーシュをつれて抜け道からこの森を出るのじゃ」 


 無言ながらも、顔を引きつらせたのはライオルだった。ベルンはやはりわかっていたのだろう。涼しい顔を崩さない。

 驚いて飛び上がったのはイーシュだけだった。


「お、お父様!?」


 兵の二人は話を聞いていて、主の心情も理解したのだろう。

 主は死を覚悟して志願し残った兵ではなく、逃げろと言ったイーシュに向かって諭す。


「おそらく、森の主であるわしを逃さぬため、すでに回りは皇国兵が取り囲んでいるじゃろう。わしを晒せばいい見せ物になるからのう。できれば生きて捕らえたいと思っているはずじゃ」


 そうだろう。将軍を務めた主の息子たちも、皇国の都に連れて行かれて斬首されたと聞く。


「だから、わしはここで存分に存在を誇示するつもりじゃ。お前が逃げ切れるよう、それに、まだ集落にも逃げ遅れた森の民がいるかもしれぬ」

「身を挺して皇国の気を引くおつもりですか……?」


 主は答えなかった。ただ不敵に微笑む。それは死を覚悟しきった者の笑みにも、あるいは死ぬはずがないと信じる者の笑みにも見えた。

 震えるイーシュを前に、主は二人の近衛兵に命じる。


「しかし気を抜く出ないぞ。皇国兵はどこまで入り込んでいるかわからん。だが、必ずイーシュを生きて森から連れ出すのじゃ」


 ベルンは深く頷くと、胸を腕の前で綺麗に折りたたみ主に向かって最敬礼をした。

 しかしライオルの目が惑う。

 いくら命とはいえ、主を置いていっていいものかと。イーシュを逃がす為とはいえ、結果的にそれはライオルたちがここから逃げ出すのと同じだ。

 その弟子を察して、そして主の思惑を察して、ベルンが言葉を継ぐ。


「二人ともイーシュの護衛ですね? これよりは旦那様の、ではなく」

「さよう」


 主は頷いた。

 ベルンは多少おどけた笑みを浮かべて、ライオルを振り返る。死線を幾度もくぐった者の余裕か。


「だそうだ。旦那様の勅令により、主が変わった」

「けど……」


 ベルンは言葉でライオルを納得させようとはしなかった。

 どん、とライオルが重心を崩すほどの勢いで背を叩く。茶化したような澄まし顔を見せながら。

 それでようやくライオルは答えた。


「ああ……わかったよ」


 ベルンに頷いて返したライオルは、次に主の前に進み出て、跪いた。精悍に、神妙に。


「旦那様。ひとつよろしいでしょうか」

「うむ。どうした、ライオル」


 ライオルはうやうやしく腰元から小剣を取り出し、主によく見えるよう高く掲げた。美しい繊細な装飾がなされた小剣。それはあの剣だ。


「ようやく合点がいきました……あの精霊祭の夜、小隊の副隊長だったとはいえ、無名の兵士に等しかった俺に、この剣を下賜してくださったわけを……」


 イーシュとベルンが小剣を見つめる。主も懐かしそうに、かつての自分の所有物に目を細めた。

 頭を垂れたままのライオルが言う。


「俺ならイーシュを守ってくれると思ったんですね? ご自分が父親だと名乗り出ることができないから……守ってやることができないから……。イーシュのために、この剣を俺にお与えになったんですね」

「……そうじゃ。すまん」


 認めて、主はうなだれる。だがライオルは清々しく笑っていた。


「いいえ。そうならますます嬉しいんです。……だって俺は、イーシュの父親に騎士として……少なくとも、イーシュを守る騎士として認められたってことですから」

「……」


 自らの護衛を見るのとはまた違う目で、主は目の前の若者を見つめる。

 ライオルは力強い声で言った。


「その期待を俺は裏切りません」


 それはこれからイーシュを無事に森から連れ出すという確かな誓約でもあった。


「……感謝する。本当に感謝するぞ」


 即座に隠したが、見間違いではなく、主の瞳に揺らめくものが現れていた。


 前触れなく、遠くの方で怒号が上がる。

 皇国が門を突破したのだろう。


「いかん……!」


 門を突破されれば手薄な館だ。すぐにこの主の間まで武装した皇国兵が鼻息を荒くしてなだれこんでくるだろう。

 主が口頭で抜け道の案内をする。

 早口で説明し終えた後、後ろを向いてしまった主の表情はわからなかったが、その肩は小刻みに震えていた。

 その背を見つめるイーシュの袖を、吹っ切れたライオルが引く。


「イーシュ。行くぞ」

「でも……」

「旦那様はああ言っている。それにお前を思って、こんな俺に剣まで下されているんだ。従うんだ」

「でも……お父様を置いてはいけません」


 これだけ話した後、まだイーシュは未練がましく父親とわかった老人を見つめる。

 ライオルの口調はこれまで聞いたことが無いほど厳しくなった。


「馬鹿野郎! 分からないのか!? 旦那様の深い愛が!」


 その勢いは男でもひるむものだった。

 が、イーシュは果敢に向き合う。普段の柔和な様子からは想像もできない。


「愛はわかっています!」

「なら言われたとおりに逃げろ! お前がここにいくらいたって、森の主である旦那さまの決意は変わらねえんだよ!」


 その言葉に刺されたように、イーシュの身動きが止まる。

 ライオルは舌打ちをした。

 静かに、ベルンがイーシュの細い肩を叩いた。


「旦那様はまもなく自害なされる」

「なっ……」

「皇国兵がここに辿り着くのは時間の問題……もはや避けられぬ。皇国が卑劣にも一度は受け入れた降伏文書を破棄した時からこうなることは決まっていた。ならば主たるもの、森の誇りを見せ付けるのみ。それに……ご高齢の旦那様には、もう逃げおおせる体力もないのだよ」


 イーシュは背を向けたままの主に一歩駆け寄る。

 その肩にかけたのは金の糸で西津森の紋が縫いこまれた肩掛けだ。そのことを、イーシュは今知った。

 死に装束に、と主は正装を選んでいた。


「お、お父様……」


 そのいでたちに、イーシュはたじろき、それ以上進むことができなくなってしまった。

 背中を見せた主が語りかける。


「……最期に、お前をこの手で抱き締めることができて、わしにはもう心残りはない。イーシュ。逃げおおせて幸せになれ。それがわしの、命以上の望みじゃ」


 正妻ではない女性との間に設けた娘を、主はいたく大切にしているようだった。苦労をかけた分、もしかしたら、正式な娘へ向ける以上の愛情を持って。主がかもし出す空気にはそんなことを思わすものがあった。

 告げ終えた主は奥の高御座に向かっていった。そしてそこに座し、いつもの西津森の主らしい、威厳に満ちた低い声で命じる。


「さあ行け。言ったな? 抜け道はわしの椅子の後ろじゃぞ」


 イーシュはすくんだように動かない。その目は主と通じ合わせたまま。

 また怒号があがった。さっきよりも、一段と近い。


「さあ」


 急いたベルンがイーシュの背を押す。ライオルもその腕を掴んで引いた。

 イーシュを無理やりに連れ出すように、脱出を命ぜられた一行は高御座の横をすり抜ける。

 通り過ぎざまに見えた主の老いても精悍な横顔は、この上ない至福に満たされていた。






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