7-2
◇
神殿の程近く、背の低い小花咲く、なだらかに続く丘のひとつに、うつむくイーシュは佇んでいた。
橙と黒に塗り分けられた世界で、夕暮れの冷たい風が長い法衣の裾を揺らす。
そばを通りかかったらしい少年がその姿を見つけて、丘を登ってやってきた。武具ががしゃがしゃ鳴る音が近づき、いつものそっけない声が聞こえた。
「なにやってんだ? お前」
イーシュは顔を上げる。そばには、赤茶の髪をはねらせた見慣れた少年が夕焼けに染まりながら立っていた。琥珀の瞳も、普段よりずっと赤い。
「……ライオル」
イーシュは一瞬友人を確認しただけで、またうつむいてしまった。
そのやって来た人より、ずっと赤い目をしている。言葉も不自然に途切れた。目も合わせない。ライオルでなくても聞きたくなるというものだ。
「なんかあったのか?」
「……。言ってもいいですか?」
躊躇と遠慮と、そしてどこかやはり言いたそうな空気をイーシュはかもし出す。
ライオルは腕を組み、口を曲げた。
「なんだよ、言えよ。まどろっこしい」
言葉どおりが本心ではないのはイーシュでなければわかっただろう。
しかし、いつもならこんな時「すみません」と続く言葉も、苦笑いも無く、イーシュは話し始めた。
「……実は今朝、魂が来ていたんです」
「よくあることなんだろ?」
その手の話はイーシュたち神官といれば珍しくない。けれど、様子がいつもとは違っていた。
イーシュは深い息を吐いた。
「ええ……でも……あれは、たぶん……私の母だったんだと思うんです」
「な、なにい!?」
ライオルが飛び上がる。
あまりに返ってきた反応が激しかったので、ついイーシュの顔に少しだけ笑みが浮かんだ。
「たぶんですけどね」
「たぶんといいつつ、けっこう確信してんだろ?」
そう言われて、イーシュは苦笑を返した。図星だった。
「想いを聞き取ろうとしたんですが……できませんでした。というか、なにも語るべき想いを持っていなかったのかもしれません。本当に、ただ、私に最期に会いに来てくれた……私に愛を届けに来てくれた……そんな感じでした」
そんな感覚を理解できないライオルは、不思議そうに口をねじ曲げた。
「見た目はどんな感じの人だったんだよ?」
「私に似た色の髪で……本当に優しそうな女性でした。杓丈、それに白い衣を羽織っていました。……でも不思議と、それはもっと過去の姿のような気もしました。もしかしたら神職を経験した人だったのかもしれません」
「ふうん……まあ、お前の母親だから完全俗世の人間ではないとは思ってたけど……あれ? でもよ、神職の人間って子供作れたっけ?」
「いいえ。ですから、私の母なのだとしたら、職を退いたあと産んでくれたのだと思います」
「なるほどなあ……ありえなくもないか。女はけっこう結婚したりして辞めるって話だもんな。身内がうるさくするんだってな」
頷いていたライオルだったが、はっとした。そして気まずそうに動きを止めた。
きっと、気づいたのだ。イーシュがまだ沈んでいることに。
横で遠慮がちに覗きこんでくるライオルの視線に気づいて、イーシュは愛想笑いを浮かべる。
「……私、いつか両親に会えるものだと思っていました。そしていつか……抱きしめてもらえるものだと……。父のことはわかりませんが、母は……きっと、そうではなくなってしまったんですね……」
笑ったのは強がりだ。
証拠に、言ってしまったあとは、またイーシュはさきほどと同じように沈み込んでしまった。
なんて言葉をかけていいのかわからなかったのだろう。
何か言いたいらしいが、言えずに、隣のライオルはなんどもせわしなく頭をかいたり、体の重心を右に左に動かした。その末にやっと、もごもごとおそらく本題とは別のことを言う。
「あ、あー……あのよ。俺、実は館の旦那様の近衛兵になることが決まったんだ」
イーシュが少しだけ顔を上げた。
「え? それって……」
「まあ、出世だよな」
喜ばしいことだ。まだ影は残るが、イーシュも嬉しそうに微笑んだ。
「おめでとう。ライオル」
けれどライオルは複雑な顔で頭を掻いた。
「うん、まあ、ありがとな。……俺はずっと戦場に出てたいって言ったんだけどな。上級隊長がさ、将軍になりたいんなら、旦那様の覚えも良くしておいたほうがいいとかなんとかいい事言って……単に俺が邪魔だっただけのような気もするんだけど……。ことごとく隊長の作戦に逆らうから。しかも成果もあげるし。ま、機会見てまたすぐに戦場に戻ってやるつもりだけどな」
直属の隊長とは馬が合わないらしい。けれど、どこか、からっとして話すライオルの口ぶりからすると、それを心のどこかでお互い楽しんでいるような感もある。
イーシュは少なくともそう捉えた。
「ライオル、その時にはきっと、また階位が上がっているんでしょうね。……これは、将軍になる夢に一歩近づいたってことですね?」
「うん、まあ、そうだ。たぶん」
喜ぶイーシュがライオルを見つめていると、背を押され急かされたように、ライオルが詰まりながら言った。汗が同時に大量に噴き出している。
「……つ、つまり俺が言いたいのはさ、あれだ! これからは館勤めになるから、ここら辺にずっといることになるから、……い、いつでもなんかあったら話聞くぜ、ってこと! 今まで戦場に出てて、離れてた分もな!」
イーシュがきょとんとしている。
「どうしたんですか?」
ライオルはその問いには答えなかった。代わりに別のことを言う。
「……お、俺はイーシュのそばにいてやるから、安心しろ。淋しいことなんてないからな。ずっとだぞ」
「ずっと?」
「そうだ。ずっとだ」
それでようやく、イーシュは納得いった顔をした。
「……ライオル、心配してくれているんですね。母が……行ってしまったから」
ライオルの顔が急激に真っ赤に染まっていく。そういうことだったらしい。
「ありがとうございます……」
死者をいつまでも無駄に引きずる事は、何も生まない。自分も、相手も想いで縛る事になる。
神官を目指すイーシュは何度もそういう人々を目の当たりにしてきた。
小さく自嘲する。「わが身となると、駄目ですね」と。
それに、いつもはそんなことを言わないライオルがそう言って心配してくれたことも大いに助けになった。
そうして、ずっとうつむき加減だった顔を上げた。
「ライオルも夢へとまた一歩近づいたのですから、私も頑張らないといけませんね」
全て消え去ることはないにしても、イーシュの顔から暗くて重いものが少し外れていた。折りよく吹いてきた夕闇の風に、ごく薄い亜麻色の長い髪をなびかせる。
ようやくいつもの微笑みの片鱗を見て、安心したように、ライオルの強張っていた顔もようやく弛んだ。
「頑張るって、お前はもう夢を叶えたじゃねえかよ。それに次の精霊祭もお前が御霊入れになるだろうって噂も聞いたぜ?」
「ただの噂ですよ」
イーシュが困ったように笑う。けれど頬がほんのり赤い。
「でもそうなら嬉しいですね。後悔はありませんが、もし、もう一度舞わせていただけるのなら、今度はもっと深く、高い精霊と繋がれると思います。それに舞の方も……」
「十分、良かったと思うけどなあ。旦那様だってあんなに褒めてくださったしよ」
「ええ……でも、それでも、私にとっては私の舞は、まだ自分の理想の姿とは程遠いんです。それに……いつか遠くなく、齢により巫女を退いても、目指す道は終わりません」
ライオルの顔が変わった。初耳だったらしい。
「目指す道? お前、御霊入れ以外に夢があったのか?」
「はい。今までは御霊入れになることばかり考えていましたが、夢叶った今、もっと将来の方向を定めようと……それで……前から朧には考えてはいたんですが、私はもっと修行を積んで、より高位の神官を目指そうと決めました。来年、その試験も受ける予定です。いつか巫女を退いたあとは、今まで舞いに費やしていた時間を、治癒の勉強に使いたいと考えています。そして、生涯、西津森で人々の安寧に尽くして生きていければ……と思っているんです」
幼い頃から大人の真似をして薬草を積んでいたイーシュらしいといえば、らしい決断だ。
だが、ライオルは驚いている。
「えっ……? 巫女ってたいてい十代のうちに辞めて結婚したりするもんだろ?」
「人によりますよ。そうしなければいけないわけではありません」
「それは知ってるけど……先代の御霊入れも、その先代だって、御霊入れを務めたあと、何年かであっさり神職すら離れちまったから……てっきり俺、お前もそうするもんだと……」
多くは身内がそうさせるらしい。嫁入り先が準備されるのか、そういう巫女たちはすぐに結婚した。
そんなことをライオルに語り終えると、イーシュはゆっくりと微笑んだ。
言葉で言うよりその表情が、決意は固いのだと余計にライオルに感じさせたらしい。戸惑っている。
念押しなのか、ライオルは渋い表情でイーシュに問う。
「……じゃあ、イーシュは一生結婚しないつもりなのか?」
「ええ」
「ま、まじか? だれか気になる男とかいねえのかよ」
「いませんよ。というか……それ以前に、わたしが誰か男性とお付き合いすることなんてありませんよ」
そう言ってイーシュは本当におかしそうに笑った。そして、「なぜ?」というライオルの強力な無言の視線に応える。
「だって、神様や精霊を信じているなんて言ったら、普通は笑われると館の兵士の方々に聞きました。まして私みたいに、見えたり話ができるなんて言ったら……そんな人とお付き合いしたい方なんていませんよ」
「ば、ばっか! いるって!」
だが、イーシュは心底ありえないというように笑っている。
ライオルは鼻息を荒くして、即座に反論する。
「てか、じゃあなんで、あいつら館の兵士がわざわざ接点のないお前に話しかけてくるんだと思うんだよ? あいつら、ちらちら上司の目を気にしながらよお!」
「ライオル、知り合いですか?」
その問いには首を振る。では隠れて見ていたのだろうか。耳まで赤くなるところを見ると、きっとそうなのだろう。
照れ隠しか、ライオルは腕を振り回した。
「……っ、そんなこたあどうだっていい! どうなんだよ、そこんとこ!」
「……ええと……考えてみればそうですね……どうしてでしょう? 御霊入れだからでしょうか?」
「お前あほかっ!」
ライオルはそう言い放つと、困っているイーシュを放って、腕を組み、そっぽを向いてしまった。口を尖らかす。
「もういいや。じゃあ逆にお前はどうなんだよ。男に相手にされないなんて思ってるみたいだけど、もし相手にされるんだとしたらどうするよ?」
目だけをこちらに向けたライオルの視線は、何かを期待しているようだった。
けれど残念なことに、イーシュはそれに深い意味を見出せなかった。そばで揺れる、ささやかな白い小花に目を落とす。
「私は神官として生きていこうと思っています。それが前提ですが……でも正直、よくわからないんです。男の人って」
そうして、今さら遅いのだが、真顔でライオルを覗き込んだ。
「ライオル。どうしても必要でしょうか? 異性の伴侶って。結婚って」
「……ど、どうしても……って言われると、そうでもない、としか言えねえけどよ……」
しどろもどろでライオルが言う。
「なんか、こう………そういう気持ちになるんだよ。俺は読まねえけど、本とか教本とかでも出てくるだろ? その……男女の……愛ってや、つ……」
元々、愛など真剣に語る性格ではない。
自分で言ってライオルは激しく照れていた。
その素振りが、余計に愛とかいう言葉を似合わなくさせるのだとも気づかずに。
イーシュは首を傾げた。
「………そういうものでしょうか? とりあえず今の私にはよくわからないんですが………。でも、そう言うってことは、ライオルは誰か気になる人がいるんですね」
「い、いるぜ? 当たり前だ」
ライオルは胸を張る。
「その人に想いが届くといいですね」
「………。ほんとな」
虚勢すら、しぼんだ風船のように消えうせた。
ライオルの目は助けを求めるような、少し泣きそうな形に歪む。
「お前もきっとそのうちわかるよ。そんな男に会うよ。………もしかしたら、案外近くにいて、もう会ってたりなんかするかもしれないし」
「そうですね。そうなら面白いですね」
もはやライオルには、すぐに発せられるような言葉は無くなったらしい。
丘に生えた雑草が徒党を組む風の輪郭に沿って、並んで揺れる。その波がイーシュとライオルを洗い流して森の向こうに消えていった。
ようやくライオルは言葉を見つけた。
「でも……も、もし、お前がそういう気持ちに目覚めたら、まず俺に言え。どんなことがあっても、それがどんな相手でもだ」
妙に偉そうな様子でそう言う。
イーシュは訳が分からないという顔でライオルを見つめた。
「え? は、はい…。でも、どうしてですか?」
「そりゃあ………あれだ。お前は世間知らずだからだ。……俺が吟味してやる」
「そうですね。私は神様や精霊以外のことはなにも知りませんから、ライオルに頼ることにします」
何も、というのは言いすぎだが、たしかに知っているとはいえない。
なにか思い出して、イーシュが「ふふっ」と笑う。
「ライオルは私よりお兄さんですからね。言うことは聞かなくてはいけません」
幼い時、出会って間もない頃に、ライオルが言った言葉をイーシュはよく憶えていた。自分の方が三つ年上だと分かると、『俺の方がえらいんだぞ。だから俺の言うことはよく聞け』と要求をしてきたことを。
その時は素直に頷いたイーシュも、今はそれがいかに無茶な要求なのかわかっている。
ただ懐かしげに瞳を細めた。
いつもならこんな時、記憶と同じような偉そうな顔で、「そうだろう、そうだろう」と何度も深く頷くだろうライオルは沈黙していた。
そればかりか、どことなく憂いを漂わす。ライオルがそんな顔をするなんて、滅多に無い。
「なあ、イーシュ。忘れるなよ? 俺、ずっとイーシュのそばにいるからな」
もう一度、ライオルはさきほどの言葉を持ち出してきた。
意味ありげに。
その瞳はすがるようにイーシュに向けられている。
「……? ええ、心配してくれてありがとうございます」
イーシュは不思議そうに見つめ返して、しばらくのち、何事も無かったように微笑んだ。
ライオルはそれを見て、僅かに哀しそうに顔を歪めた。ようだった。
赤茶の髪が風に乱されて顔を覆い、一瞬、ライオルの表情を見えなくさせる。
けれど、次に顕わになった時には、いつもの図々しさ垣間見える笑みを浮かべていた。
茜色の丘は長いこと、黒く伸びた二人の影を映していた。




