序 2
◇
言ったとおり、本当にすぐ近くに部屋はあった。
入口に立っていた警護の兵がイーシュを見つけて鎧を鳴らして敬礼をする。ベルンが見て、身を僅かにのけぞらせた。
イーシュがなるべく身を小さくして言った。
「重人の住まう区画らしいので、ご遠慮申し上げたのですが……奥方様が、執務室に出入りするならここのほうが便利でしょう、と言ってくださって……」
見たところ女性専用の区画らしく、なにやらかぐわしい香りがどこかから漂ってくる。それでいて神官が住んでも差し支えない上品で清廉な空気に満ちている。だいぶん趣は違うだろうが、別の場所には男性専用の区画もありそうだ。
ベルンは笑った。
「そんな申し訳無さそうな顔しなくていいんじゃないのか? あんた十分、重人だぜ? 自覚しろよ」
ベルンの言うことはもっともだ。精霊祭の巫女、御霊入れとなれば重人に違いない。
謙遜、というかまるでわかっていない様子のイーシュは「そうでしょうか……」と予想通りの答えを返して奥へと進んだ。
間もなく開けた扉の向こうには、こざっぱりとした空間が広がっていた。無駄な物が無く、よく整頓されている。
年頃の娘の部屋としては寂しすぎてはいたが、高位の神職の者の部屋としてはふさわしい。あまりにふさわし過ぎて、中に入るのが遠慮されるほどだった。
そこに、気づかないほど薄く、金柑色がかかっている。午後の暖かかった日差しはすでに熱を失い、落日の様相を帯びて始めていた。
そしてなにやら、いつのまにか、窓の外から届く館の階下の物音が騒がしくなっていた。何かの準備が進められているらしい。
それに構うこともなく、しばらく席を外していたイーシュが戻って来て、琥珀色の冷たいお茶をカップに注ぎ促すと、落ち着かない様子でしばらく部屋や窓の外を眺めていたベルンはやっと椅子に座った。
「ベルン様、まずはやはり、これをあなたにはお見せしなくてはなりませんね」
お茶の後にイーシュが差し出そうとしている物は、もちろん甘い茶菓子なんてものではない。
イーシュは白い薄布を重ねて丁寧に造られた法衣の羽織の紐を解いて、前を開ける。そうして腰帯に下げた、これまた白い布で包まれた棒状の物を手に取る。
その長さは少女の指先から肘ほど。
体から外されて、イーシュの手の中で転がされながら布から取り出されたのは、さきほど廊下で話題に上がっていた小剣だった。この中津森では見かけないが、この二人にはよく見慣れた西津森風のより繊細な文様が、その鞘の上で鈍く輝く。
イーシュは厳かに呟いた。
「……ライオルの剣です」
当たり前にそれをベルンに差し出す。さながら、王から聖剣でも受け取るように、ベルンは両手でうやうやしく受け取った。
「……ああ、これだ……」
武器を扱い慣れたベルンの手が、なめらかに鞘から剣を引き抜いた。
刀身がきらりと光る。使われてはいないのだろうに、なぜかよく手入れがなされていた。
そして小剣とはいえ、柄や鞘には見る者のため息を誘う植物をモチーフとした美しい細工が施されている。腕の立つ匠の仕事だ。そんな剣の刀身は言うまでもない。
ベルンは引き込まれたようにしばし見つめた。
「いつ見ても見事な品だ。しかし、懐かしいな……。ライオルがこれを西の旦那様から頂いたという話を聞いたのが、まるで昨日のことのように鮮やかでもあるというのに……おかしな話だ」
そこにはさきほどの哀しみはもう微塵もなかった。口元を軽く引き上げた、晴れの顔で言う。
「なあ、イーシュ。俺にライオルの最期のことを教えてくれないか?」
言われて、体をびくっと震わせたイーシュが目を見開き固まった。ベルンは続ける。
「辛い記憶だと言うのはわかってる。未だその傷が生々しいと言うことも……」
イーシュはしばらく、まるで時間が止まってしまったように微動だにしなかった。
さきほどベルンは哀しい顔をして見せたが、イーシュにもそれは同じだったらしい。むしろ、もっと深いくらいなのかもしれない。
「……いや、すまん。話せないというのなら、待つことにするよ」
ベルンが立ち上がろうとした。
しかし抑えるように、イーシュの方が先に立ち上がった。手ぶりで、ベルンを抑える。
「……話せないのなら、もとよりその剣を見せたりはしません」
まるですでに泣いた後のように、イーシュは潤んだ微笑を見せる。ベルンは申し訳無さそうに、また深く椅子に腰を落とした。
イーシュはその前を横切って、窓辺に歩み寄る。
西津森の故郷の森でも思い出しているのだろうか。窓から遠く見える木々は、森を知らない者にはどこも同じに見えるだろうが、森の民ならば全く違う景色に見えるだろうに。
ベルンはまだ光色の刃を眺めていた。そんなイーシュを見ていられなかったのだろう。
イーシュはやっと、また先ほどの椅子に戻り、腰をおろした。話し始めるのに、少しばかり、心の準備が必要だったのだろう。
前に言った言葉の続きを聞かせる。
「……それに、あなたはライオルの剣の師匠であり、短い間でしたが、ともに同じ主の護衛を務めた方……。年齢を超えた、彼の唯一無二の親友とも言える方……。なにより、私たちに行く道を拓いてくださったお方……。私には話す義務があります」
「義務なんて難しく考えなくていいんだ。話してくれるんなら、ぜひにも聞きたいだけだ」
イーシュはどこか自嘲するような微笑を見せた。そして、幾度か瞬きをしたベルンの、その戦に慣れた者が発する光を宿す、黒い瞳を見つめた。
「今となってはただ一人となった、私の素性を知るあなたに……ライオルの最期だけではなく、少し昔の事からお話ししても構いませんか?」
「それは……どういう?」
イーシュがはにかんだ。
「……ただの思い出話です。なにも難しい話でも、意味のある話でもありません。よかったら、私の気持ちの整理にお付き合いいただければ、と思っただけです」
いつも神の前に穏やかで柔らかい笑みを浮かべ、神事の際には精霊をその身におろし、その精霊のように、この世のものではない瞳に変わるイーシュ。
けれど、今、そう笑みを浮かべる様は、普段よりもずっと少女らしかった。
しかしその貴重な表情も、わずかで慌てたものに変わる。
「あっ……ご迷惑でしたら無理には……」
その言葉をベルンは即座に遮る。
「いや。構わない。……じゃないな。ぜひ聞かせてくれ」
面食らうイーシュに、照れ気味にベルンが笑い、撫でつけられないほど短い自分の髪を無理にそうした。
「旦那様から例のあのことを聞いてから、俺もあんたの生い立ちに実は興味があってね。いつか機会があったら、子供の時のことを聞かせてもらえたら……なんて考えていたんだ。いや、すまん。詮索好きな性格なもんでな」
「いいえ……助かります」
微笑を浮かべかけたイーシュが、ふと、何かに気づいたのか窓の外の揺れる葉陰に眼をやる。
ベルンも同じ場所を見た。が、何もそこにはめぼしいものはない。
「そこになんかいるのか? ……もしかしてあんたら神官が言う精霊ってやつか?」
「いえ……なにか気配がしたような気がしたのですが……。いなくなってしまいました。でも、きっと精霊でしょう。いつもそこらをふわふわと舞い遊んでいますから」
「あんたから精霊の話は過去にも聞いたが……やっぱりなんだかよくわからんな。俺にはまだ亡霊の方が存在を信じられる」
見えないものを当たり前に見る目の前の少女は、くすくすと笑った。
イーシュ含め神官にとって精霊は隣人のような存在。それを否定されていると言うのに。こんな周囲の反応には慣れきっているようだ。
兵士はようやく刃を鞘に収め、ライオルの小剣をイーシュに返す。受け取ったイーシュはそれを両手で愛しげに包み込んだ。まるで、その剣のかつての主そのものであるように。
「あなたもご存知の通り、私とライオルは幼い頃から共に育ちました。私は神官の見習いとして神殿で、ライオルはその神殿に併設された孤児院で……」
そう言って最初にイーシュの口から語られたのは、西津森の短い冬が過ぎ、薄緑色の草木が芽吹き、そうしてやってくる盛夏の大祭のことだった。
イーシュの意識は十年も昔の西津森に還り、自らの半生と共に、ライオルという一人の幼なじみの少年との記憶をなぞり始めた――。