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4-1

 西津森の主が住まう館の建つ小山の中腹に、祭壇が組まれていた。

 火の粉を巻き上げながら、赤々と松明が燃える。

 森の民の民族的神事、新年を祝う精霊祭が始まったのだ。

 七日の祭りの間、人々は森の生き物に扮し、人ならぬものに姿を変え、森と精霊と近しくなり、踊り、酒を飲み、馳走に喜び、愛を語る。

 その無礼講も、今日の本祭の神事の間だけは陰を潜めた。

 神事を穢すものには厳しい処罰が下されるからだ。

 森の民にとっては、それほどに大切な行事だ。

 溢れかえるほどに集った人の数を感じさせないほど、祭祀場は静まり返っている。神聖な空気に、張り詰めた緊張感すら漂う。


 祭壇の脇、その奥に控えたイーシュは、背もたれをゆるく倒した形の椅子にもたれていた。

 厚いとはいえ、たったの垂れ布一枚で外の人々からは遮ぎられていた。しかしここには外以上に神聖で厳粛な空気が漂う。

 その横たわる少女の前に、西津森の神官長が立つ。


「イーシュ、よくぞ厳しい修行を乗り越え、最年少にして、ここまで辿り着いた」


 森の民には珍しい黒髪を、後ろに綺麗に流した初老にさしかかる男だった。神官長という地位に着くにはまだ若い。


「半年前、今日の日の為の巫女選びでの精霊舞、皆息をのんだぞ。見習いとして神官修行を始めて今年で六年目……、巫女修行としては三年目、か……」


 神官の教育課程は、通常、三年間の基礎修行、そののちに五年間の本修行期間が設けられている。

 本修行が始まるとともに、それぞれの目指す道や才能、適性に特化した修行を加えていくこともできる。一口に神官といっても、その中には魔払いや薬神官と呼ばれる専門職があり、いくつかの選択の幅がある。

 イーシュはむろん、巫女を選んだ。

 通常の修行過程を踏み、神官とは別に、巫女として三年の修行を積んで、この場にいる。

 まだ神官としては見習いと言われる期間中ではあるが、巫女としてはもう一人前だ。

 イーシュだけではない。

 三年巫女修行し、一定以上の技量を持つ者がそう認められる。そして、御霊入れの選考に参加することが許される。

 他の専門職に比べ一人前と認められる年齢が圧倒的に若いが、それは巫女の任期が十代までと短いのが理由だ。


「舞、神や精霊と深く繋がる行、神事の補佐の熟知……、巫女修行の三本柱だが、お前はどれも難なく会得してしまったな。特に巫女として最も重要視される『神や精霊と深く繋がる行』……幼い頃から、意識せずに精霊と語らい合っていたお前には他の者ほど難しいことではなかったようだな」


 巫女を目指すものは、そこに特化するため、治癒や薬作り、魔払いなどには全く手を出さない。

 神官長は目を細めた。


「……薬草を教えた次の日にはそれを摘んで来てくれた、幼い日のお前が懐かしいな」


 赤子のイーシュを神殿に引き取ってきたのは、他でもない神官長だという。

 格別の思い入れをイーシュに見せる。


「お前は生まれたときから神殿に住んでいたからな、修行を始めるのが人より二、三年早かった。年少組と言われる巫女たちの中でも一番、年若いのだが……誰の文句もつけようがない。私はお前の舞に自信があるのだが、お前自身はどうだ?」


 そう問いかけておいて、神官長は自嘲した。


「ふふ……とは言っても、聞こえてはいても今は答えられぬか……」

 

 裸に幾枚かの不規則な形の薄いヴェールを纏っただけの幼い肢体を椅子に横たえ、緑青色の瞳を、不思議に霞ませる。

 今のイーシュは、この世ならぬ遥かのものを見つめていた。

 すでに高い光から、普段はイーシュでも姿も垣間見られないような崇高な神に近い精霊をその身におろしている。

 その夢見るように変わらない表情は、緊張や、羞恥心、恐れといった人間らしい感情は全て消え去っていることを教えた。

 ただ今は恍惚と、精霊の深い愛に身をゆだねているだけ。

 それは男女の交わりにも似ていたが、及びもつかないほどの境地だ。

 イーシュは今は、生きる者の中で、もっとも精霊に近い存在になっている

 いつもの愛らしい可憐さは身を潜め、脆く儚い美しさを放つ。


 垂れ布を挟んだ外から、この神事独特の、重く長い鐘の音が届いた。


「時間か」


 神官長が一歩下がり、合図する。

 すると脇に控えた神官が進み出てきて、長い杓丈の端をイーシュの手に這わせて握らせた。

 それを引いて、間接的にイーシュに舞台にあがる時を示すと、夢でも見ているようなイーシュが起き上がり、ひたひたと素足を静かに鳴らしながら、誘導されるまま垂れ幕の隙間を通って、向こうに進み出る。

 そこは祭壇の上だった。

 眼下には人々の頭がひしめく。

 精霊祭の巫女が現れたことで一瞬上がった感嘆の声も、厳格な神事の空気感の前には、すぐに消えうせる。

 祭壇下の瞳の全ては、イーシュ一人に注がれていた。


 その視線と静寂の圧迫感。

 しかしイーシュは臆するどころか、壇下を見ることすらもなく、中央に進み出る。そうして当たり前に、真夏の夜の涼やかな月明かりの下、舞の初めの形を取った。

 完璧な停止。そして幼いが完璧な容姿。

 まるで神の遊ぶ人形のようだった。

 人々の目がすっかり奪われている中、その四肢がゆっくり伸ばされる。

 月明かりに照らされた神秘的な白い肌。薄い亜麻色の髪は今はもっと白く見えた。今は松明ひとつとなった祭壇の上で、薄布をひらめかせながら、まるで幻のように舞う。

 イーシュの意識はあっても、意志はここには無くなっていた。

 全てを精霊に任せて、入れ物になったイーシュは、操り人形のように月の光に遊ぶ。深く、溶け合って。

 その時間は、けして短くはなかった。

 イーシュが舞台袖に下がったあと、魅了された人々は夢に時間を感じないような、そんな不思議な時差に当惑することだろう。


 壇上に現れた時と同じように、舞台袖で杓丈を手に這わされたイーシュは、その導きでさきほどの舞台裏に再び戻ってくる。

 そこには出て行ったときと同じように神官長が立っていた。違うのは、その顔が感無量の喜びに打ち震えていることだった。

 何人かの神官が見守る中、イーシュは杓丈を通して初めと同じに椅子に横たえられる。すると目に見えてイーシュの息が一瞬、深くなった。

 精霊を可視する神官たちには、その時、イーシュの体から精霊が出て行ったのがはっきりと確認できていた。

 月の光色に輝いていたイーシュの魂が、元の柔らかく光を放つ優しい薄紅と薄青をゆるく混ぜた色に戻る。顔つきも元の子供らしい様相に戻っていった。

 イーシュがまぶたを開くのを待って、高揚を抑えきれない様子の神官長が口を開いた


「よくやった、イーシュ。見事だった。まるで月の光の精霊のようだったぞ」


 イーシュはなぜか、その言葉に切ない顔をする。


「……ありがとうございます……。でも……すみません……今は笑えないんです……。ごめんなさい……」


 イーシュはそのまま口元を押さえてしゃがみこんでしまった。肩を震わせ、しきりに泣きじゃくる。

 神官長は落ち着いていた。


「謝ることは無い。それはお前がそれほど高い精霊と、深い愛と限りなくひとつに融合していた印でもある。……精霊を降ろしている間はその愛に包まれ、この上ない至福を味わうが、それが解けると、この世の哀しみを再び知る。いかにこの世が寂しく、孤独で、冷えた世界なのかを……再び、知る」

「はい……」


 イーシュの頬には涙すら伝っていた。


「だが、お前が降ろした精霊が、その分身たちが、今年も森の民の間を何度も行きかうだろう。その深い愛を、人々は気づかぬかもしれないが、この森の民全てにそっと与えるだろう」


 イーシュは疲労から椅子に横たわったまま、その一言一言を聞く。


「お前に哀しみを見て、精霊も哀しむのだ。自分たちの愛が、人の世では稀なものだと気づくのだ。そうしてより一層愛を施すのだ。御霊入れとは舞うだけではない。哀しむものだ。だが、それは深い愛を知った上での哀しみだ。魂の源流を感じた故の哀しみだ。その哀しみすらも愛なのだ。だからお前のその涙すら愛なのだ。泣くがいい。この世は世知辛いものだ」

「はい……」


 神官長は控えの神官から毛布を受け取り、イーシュにかけると、幕を引き間仕切りを立てると、神官たちを引き連れ、その場を去った。

 その去り際、小さく言葉を残した。


「イーシュ、お前の舞を見た皆の顔を見ておくがいい」


 誰もその空間にいなくなると、まだよく動かない体を無理に動かし、イーシュはそっと幕の間から外を覗き見た。

 精霊舞が終わってしばらく経つというのに、人々がまだ感嘆に打ち震えている。


「それがそのままお前の舞への評価だ」


 間仕切りの向こう、もう姿は見えないが、遠ざかる神官長の優しい声が聞こえた。

 その人々の中央に座した西津森の主が、なぜか涙にくれていたのがイーシュには印象的だった。

 目が離せないでいると、そのうちに、精霊が嬉しそうに主の周りを飛び交った。





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