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序 1

 西日がゆるく、窓の形にいくつも回廊に差し込む。

 いつもは物々しい雰囲気を醸し出す奥方の執務室の前も、今日ばかりは心なしか柔和な顔を見せていた。扉に掘り込まれた中津森の主の印が、色づきかける光で小麦色に照っている。

 その扉からは、つい今しがた、戦場からの知らせを携えた早馬の伝令が出て行ったばかりだった。その顔が朗らかだった。中にいるはずの奥方の表情も、きっとそう違わないはずだ。


 伝令の足音ももう聞こえなくなった頃、もう一人、その扉から出て来る者がある。イーシュだ。

 イーシュは綺麗な礼をひとつして、静かに扉を閉めると、華美ではないドレスのような長い裾の法衣を翻して小さな歩を進める。向かうのは人々が憩う階下に繋がる大階段とは反対方向の、居住区の方角だった。


 並ぶ柱の間、長細い窓から差す陽にその白い姿が浮かび上がるところまで執務室を離れると、日陰に座り込んでいたらしい兵士が一人立ち上がってイーシュを見る。大柄だ。その影色の人が手を振る。

 兵に話しかけられることも多いイーシュは、その服装でいくらか従事する仕事を判別できる。

 だが首をかしげる。そこにいたのは片手用にしては大ぶりの剣と盾を携える、鎖帷子を着た兵士だった。館の警護の兵ではなさそうだ。身なりが違った。だが、こんなところに警護以外の兵士が居ることはまずないことだった。


 イーシュがその場に立ち尽くしたままなので、兵士のほうが、ゆっくりと、どこかぎこちない足取りでこちらに近づいてきた。

 兵士の盾が差し込む光の中に入ってきて、イーシュが「あっ」と小さく声を上げた。そこにはイーシュが西津森でよく見かけた家紋が刻み込まれていたからだった。


「……まさか……ベルン様……、ですか!?」


 歩きながら兵士が手を上げた。


「ああ。イーシュ。西津森以来だな」


 ベルンと呼ばれた兵士は落ち着いた渋みを滲ませ、微笑む。四十手前といった風貌だ。顔つきにしては白髪が少しばかり多いかもしれない。だが、その表情の前では気にならなかった。

 やけにゆっくりと動かした足は、小柄な西津森の民にしてはかなり大きな体をようやくイーシュのもとに辿り着かせた。

 懐かしそうにイーシュは顔を見上げ、ついで、不思議そうに足元を見下ろした。歩き方が少し妙だったからだ。

 ベルンが苦く笑った。


「ああ、足を負傷してしまってな。今まで西津森との境に近い村で養生していたんだ。今日、この中津森の館についたばかりだよ」


 そうやって笑う辺り、足は問題なく再起できそうなのだろう。それを聞き安心したように、イーシュの口元が弛んだ。


「それは……でも、嬉しいです……またあなたにお会いできるなんて……」

「俺もだ」


 にじませた笑顔の中にイーシュは涙を見せる。それはどんどん大きくなって、いつか全てを覆ってしまった。

 ベルンが困って肩をすくませる。


「おいおい、そんなに泣くなよ」

「だって……あなたが生きていたなんて……私はてっきり……」

「まあ、そう思うのも仕方ない状況だったな。俺だって驚いたさ。まさか、まだ同じように森を彷徨ってた兵士たちがいて、しかも助けられるなんてな」

「そう……だったのですか……。でも本当によかった……」


 イーシュは何度も涙を拭った。

 だが、はたと何かに気づいて、その表情を暗く沈んだものに変えた。


「私たちの方はあの後……」

 

 イーシュの言いたいことにベルンには心当たりがあるのだろう。察した。


「聞いているよ。あいつのことは」


 その返答は的を得たものだったらしく、イーシュの身動きを止める。ベルンは仕方なさそうに話し続けた。イーシュの笑顔を取り戻す為に。


「先刻、まずは奥方様にお会いして、俺が知る西津森の旦那様の最期を全てをお伝えしてきたところだ。……話の中で奥方様は、俺とあんたとは既知だとわかったんだろうな、察しのいいお方だよ。ここでのあんたのことを少し教えてくださったよ。後でそこの執務室に来るってこともな。だからここで待っていた」


 イーシュが「ああ」と、少しだけ笑みをこぼす。ようやく、ここで同郷の古い知人が待っていたことが納得できた、という顔だ。ベルンは続けた。


「それから、ここに辿り着いた時のことも聞いた。女一人でここまで来たんだってな」


 何の自衛手段も持たなさそうな華奢な少女が、一人で森を越え、館の門を叩くとはあまりないことだ。神官ならましてだ。たいていは連れ立つか、誰かに付き添われてやってくるものだ。

 ベルンはそのことを言いたかったようだが、イーシュは別のことを思ったらしい。目を伏せた。


「……すみません、私だけが生き残って……」


 ベルンは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに首を横に振った。


「いや、今は戦争中だ。誰が生きて誰が死ぬかなんて、それこそ誰にも決められないさ。……あんたのせいじゃない。責めるな。あんたが生き残っただけでもよかったと俺は思っているよ」


 ベルンはそう言ってぽんぽんとイーシュを叩いた。その仕草は本当にとても自然だった。館の男たちがイーシュに見せる緊張感の欠片もない。それに、その言葉が本当に心からのものであるという明らかな証明にもなった。

 だがその後、ベルンは口ごもる。


「それに……中津森に来る決断を下していたなんて思いもしなかったよ。俺はてっきり……」


 ベルンの言葉を待ってしばらく黙ったイーシュだったが、続かないのを知り、どこか申し訳ないような、そんな微笑を浮かべた。


「ええ。私にもまだ何かできることがあるのではないかと思い……」


 捻じ曲げた濃い眉を上げ、唇を噛み、ベルンは何度か小さく頷いた。


「そうか……。英断だ。あんたは戦いから逃れることもできたのに」

「いいえ、それはあなたも同じです。……私はここに居るとはいえ、実際にできることはただ祈るのみ。私こそ、この中津森に集った西津森の皆を誇りに思っています」

「いいや。兵士はな……駄目な奴は駄目なんだよ。もう、囚われちまうからな。戦うことしか見えなくなるのさ」


 ベルンは光の中、どこか儚い笑みを浮かべた。おそらくは憎しみ、それに囚われるということだろう。

 けれどイーシュにはその意味が分からなかったようだ。僅かに首を傾げた。

 ベルンはしかし、説明もせずに、すぐに硬い皮膚についた口を動かす。


「だが……あの時は驚いたな。まさかあんたが西津森の旦那様……」


 そこに硬い靴音が鳴り響いた。長いマントを翻す槍を持った軽装の兵、館の警護の者だ。日常の動作という様子で、イーシュを見ると会釈をして通り過ぎた。

 その警護の兵の後姿を見送り、角を曲がって消えていったところで、イーシュが不安そうにベルンを見上げた。さっきの話題はあまり歓迎しないという意思表示だろう。

 ベルンが髪の生え際を掻く。


「すまん。こんな人目のあるところで言うことじゃなかったな。もちろん、他言するつもりはないから安心してくれ。あんたの意思を尊重する。それに旦那様も歓迎はしないだろう。俺だって仕えたお方の面目を傷つけたくはない。だから、奥方様にも言っていない。……まあ、そのことを知ればここに逃れ落ちた西の森の民は喜ぶかもしれないがな」

「喜ぶでしょうか? 私にはそうは思えません……あなたは私が失われてしまった森の象徴になるとでも?」


 少しはそうベルンは考えたのだろう。


「奥方様の隣に立ってるあんたが『そう』だと知ったら、兵士の士気もより上がるかも、なんてな。つい思ってしまったんだ。いや、すまん。悪いな。無駄なことを考えさせてしまったようだ」


 イーシュはベルンの言うようなことはありえない、と辛い顔を乗せた首を何度も横に揺らす。

 ふっと、ベルンは笑いを漏らした。


「あんたには神職がお似合いだよ。戦なんて血なまぐさいことには、およそ向いてない。……それに、あんたの舞を見られなくなるのは俺もごめんだからな」


 イーシュは巫女だ。それも森で一番の。

 森の民の新年の祭りで伝統的に行われる精霊舞、その舞い手をもう四度も担うほどの。

 それとなく褒められて謙遜顔のイーシュは、その細い白い指を何度も落ち着きなく絡め直した。

 ふとベルンが何かを思い出したらしい。イーシュの顔を見た。


「ところで……そういや、ライオルの小剣はあんたが持ってるのか?」


 その言葉に、イーシュの雰囲気が変わった。どことなく、険しいようなものを浮かべる。

 ベルンは言い訳でもするように、ゆっくりと言葉を繋ぐ。いつも柔和な娘のこの表情は、幾多の戦場を渡って来た勇敢な戦士をもひるますらしい。


「いや、聞いたんだ。館の中をここまで案内してくれた兵士に。ああ、そんな兵に会ったのは偶然だ。……西津森の者だっていうのは俺の身なりを見たら分かるからな、あんたの話になって、知り合いだと言ったら教えてくれたのさ。……神職にあるあんたが肌身離さず持っている剣がある……なんてな。だから、もしかしてと思ってさ」


 森では刃は神聖な物のひとつだった。儀式で使用されることも珍しくない。だが、肌身離さず、というのは聞かない。

 そんな剣のことを知っているなんて、きっとイーシュのことを知りたがっている信奉者だったのに違いない。


 そんな含みをもたせて妙ににやついたベルンだったが、イーシュは申し訳無さそうに眉をひそめ、腰帯の辺りを羽織の上から押さえた。


「はい。確かに、これはライオルの物でした……いけませんでしたでしょうか?」


 そこにそれはあるのだろう。言いずらかったのか、イーシュの声は、強張った顔と同じように硬かった。

 ベルンはそんなイーシュをほぐそうとでもしたようだ。柔らかい微笑を、無骨で傷跡のついたがさがさの肌の顔に浮かべた。


「いや、それでいい。あいつにゃ身寄りなんてないからな。形見として欲しがる奴はいない」

「いえ……でもあなたは……?」


 ベルンは首を振る。


「あんたに持ってもらうことが故人……ライオルの喜びだよ」


 そう言って、ベルンは微笑を湛えながらも頭を僅かに垂れて動きを止めた。ライオルという人物を語るベルンの口調は、どこかに慈しみを滲ませている。そして今は哀みも滲ませている。

 イーシュが申し訳無さそうに見つめる。


「すまん……。聞いてる、なんてさっきは強がったが、今、聞いたばかりなんだ。……あんたが一人で中津森に辿り着いた……つまり、それってのはライオルが……」


 この世にはいないということだ。

 ベルンはその言葉を言わなかった。代わりに眉間に深く皺を刻み、歯を食いしばった。

 イーシュが何か言いかけるのを、またベルンが慌てて塞ぐ。


「いや、とっくに覚悟はしてたんだ。大丈夫だ。村で養生してる間、俺でさえこんなだったんだ。あんたとライオルはきっともう……って思ってたくらいだ。だから、今年の精霊祭の噂が村に届いた時は、きっとあんたのことだと思って、生きてるって知って、本当に嬉しかったんだぜ? こっちでも精霊祭の巫女に選ばれるなんて、さすがだな」

「ご存知だったんですか?」

「ああ、奥方様に聞く前からな。色々、少しは噂は届いてる」


 そこでようやくわずかにベルンは微笑んだ。それはどこか諦め顔にも似ていた。


「だから……、本当に、薄々そうじゃないかって思ってはいたんだよ……。すまんな……いい年したおっさんのくせにな」


 ベルンの横顔は、それ以上言うなというように微笑で止まった。簡単に壊れてしまいそうに、それは薄かった。


 差し込んでいた陽がさらに傾いだらしく、さきほどより蔦の葉の影がより一層厚くなっていた。身動きを止めた二人の足元で、それだけが揺れた。

 その揺れが収まるとようやく、イーシュが顔をあげた。


「……今日はこれでお勤めはおしまいなんです。もしよろしければ私の部屋でお茶でもいかがですか? 近くなんです」

「巫女のあんたの部屋に? 俺が? いいのか?」


 その申し出はこの場の空気を変えるのに十分なほどの威力があった。既知の二人とはいえ、それはさすがになかったことらしい。


「ええ、別に構いませんよ?」


 しかし、可憐に長い髪を揺らめかして見せながらイーシュは不思議そうに微笑む。それでより一層ベルンを遠慮させるのだとは知らずに。

 痒くもないはずの頭をベルンは掻いた。


「じゃあ、もっと身奇麗にしてきた方がよかったな。こんなボロの鎧じゃなくさ。こっちの将軍……エイク将軍みたいなぴっかぴかのすげえ甲冑とかさ。今度そういうのに新調しようかな?」


 イーシュは笑う。


「あなたには動きにくいでしょう? それにその鎧はいつもあなたを守ってくれた鎧です。私は好きですよ?」


 イーシュは一層ベルンを照れさせると、部屋への案内のため歩を進めた。

 



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