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伝説のプロデューサーの孫娘は、今日もマイペースに裏方をこなす

第1章 底辺裏方の無自覚な神サポート

第1節 伝説のプロデューサーの孫娘は、今日もマイペースに裏方をこなす


「結果こそがすべてだ。才能なき者は去れ。ここは、本物だけが生き残る場所だ」


 星華芸術学園――日本屈指の舞台芸術名門校の門をくぐると、誰もがそんな無言の圧力を肌で感じるはずだ。

 校舎の廊下ですれ違う生徒たちの目には、野心と焦燥が常に燃え盛っている。演劇、ミュージカル、映像芸術。あらゆるエンターテインメントの頂点を目指す若き才能たちが集うこの学園は、徹底した『実力至上主義』によって支配されていた。


 そんな殺気すら漂う空間にあって、舞台制作科(裏方専攻)の一年生、日向陽和(ひなた ひより)の周りだけは、まるで春の陽だまりのように穏やかな空気が流れている。


「おはようございます。今日もいいお天気ですね」


 すれ違う同級生たちにふんわりと微笑みかける陽和だが、返ってくるのは冷ややかな視線か、あからさまな嘲笑のどちらかだ。


「……出たよ、伝説の孫娘」

「七光りにも程があるわよね。コネで入学したくせに、これといった才能もない落ちこぼれが」

「あのニコニコした顔、マジで苛つく。自分が場違いだって分かってないんじゃない?」


 ひそひそと交わされる陰口は、陽和の耳にもしっかりと届いていた。しかし、彼女の琥珀色の瞳が曇ることはない。陽和は気にした素振りも見せず、マイペースな足取りで校舎の奥へと向かっていく。


 陽和が「伝説の孫娘」と揶揄されるのには理由がある。

 彼女の祖父は、日向源蔵――日本の演劇界において知らない者はいない、伝説的な舞台プロデューサーである。彼の手がけた舞台は数々の賞を総なめにし、無名の新人を一夜にしてスターダムにのし上げてきた。

 しかし陽和自身は、祖父のコネを使って安全な道を歩むことを選ばなかった。

『陽和。私の威光が通じない厳しい場所で、お前の信じる“本物”を学んできなさい』

 そう言って背中を押してくれた祖父の言葉に従い、陽和はあえて実力至上主義で知られる星華芸術学園の門を叩いたのである。祖父の素性を隠すことはしなかったが、裏方志望である陽和は表立って目立つ特技を披露することもなく、結果として周囲からは「才能のないコネ入学者」という不名誉なレッテルを貼られていた。


 だが、陽和は裏方という仕事を心から愛していた。

 幼い頃から、祖父の舞台裏で息を潜めるようにして育った。きらびやかなスポットライトを浴びる俳優たちが、一歩舞台袖に下がった瞬間に見せる極度の緊張、恐怖、そして心の闇。陽和の祖父は、そんな演者たちの心を何よりも大切に守り抜くプロデューサーだった。

 そして、祖父の『演者の心を守る』という信念に深く共感し、劇団を根底から支えていたのが、陽和の両親だったのだ。


 母は東洋医学とハーブ・漢方に精通し、演者の内臓の疲れや精神的な負担を食の面からケアした。父は理学療法士として、演者の骨格や筋肉のクセを見抜き、怪我を未然に防ぐ完璧なボディケアを施した。彼らは「専属ケアトレーナー」として、祖父のカンパニーに『怪我人ゼロ・精神的離脱者ゼロ』という奇跡をもたらしたのだ。

 数年前、不慮の事故で両親を亡くしてしまった陽和にとって、裏方として演者を支えるこの仕事は、単なる将来の夢ではない。『大好きな家族との繋がり』そのものだった。


「……着きました」


 陽和が立ち止まったのは、校舎の一角にある『保健室』だ。

 そっと引き戸を開けると、案の定、診察用のベッドのカーテンが引かれ、中から規則正しい寝息が聞こえてくる。


「東雲(しののめ)先生、おはようございます。鍵、開けておきますね」


 陽和が声をかけると、カーテンの奥でもぞもぞと動く気配があり、「……ん、陽和ちゃんか……よろしくぅ……」と、気の抜けた養護教諭の声が返ってきた。東雲は優秀な医師資格を持っているものの、極度の面倒くさがりでサボり癖がある。陽和が毎朝こうして一番に保健室を開け、清掃や準備を済ませるのが日課となっていた。


 窓を開け、爽やかな朝の空気を取り込んだ後、陽和は胸元にそっと手を伸ばした。

 彼女の左胸――ちょうど心臓の上にあたる位置には、手縫いの丈夫な革ポーチが斜めがけの紐でしっかりと固定されている。陽和はそのポーチの留め具を外し、中から二冊の古いノートを取り出した。


 それは、両親の形見とも言える品だ。

 一冊は、母の遺した『ハーブ・漢方レシピ帳』。

 もう一冊は、父の遺した『作業療法・骨格図解メモ』。

 何年もの間、何度も何度も読み返され、表紙は擦り切れ、ページは変色している。さらに、陽和自身が気づいたことや、現代の演者に合わせたアレンジを書き込んだ付箋がびっしりと貼り足されており、元の厚さの三倍ほどに膨れ上がっていた。


 陽和は二冊のノートを両手で包み込むように持ち、祈りを捧げるかのように、静かに額へと当てた。


(お父さん、お母さん。今日も一日、みんなが笑顔で舞台に立てるように、私に力を貸してください)


 心臓の鼓動が、革ポーチ越しにノートへと伝わっていく。

 深く深呼吸をした後、陽和はノートを大切に革ポーチの中へと戻し、パチンと留め具を閉めた。これで、準備は完了だ。


 陽和は給湯室へ向かい、お湯を沸かし始めた。

 極度の緊張とプレッシャーに包まれた学園の空気を和らげるため、陽和が毎朝淹れるのは特別なハーブティーだ。


「今日は……空気が少し乾燥していますね。それに、朝からピリピリしている生徒が多いみたいですから」


 陽和は独り言を呟きながら、棚から茶葉を取り出す。

 選んだのは、心身をリラックスさせるカモミールと、胃腸の働きを助けてリフレッシュ効果のあるペパーミント。そして、乾燥した喉を潤すための上質な蜂蜜だ。

 ただお湯を注ぐのではない。ハーブの有効成分を最も引き出しつつ、渋みを出さない絶妙な温度――八十五度から九十度の間で丁寧に抽出していく。そこに蜂蜜を溶かし込むと、ふわりと甘く爽やかな香りが保健室中に広がった。


「んんっ……いい匂い……」


 寝ぼけ眼を擦りながら、白衣を羽織った東雲がベッドから這い出してきた。

 陽和が「おはようございます、先生。胃の保護と乾燥対策のブレンドです」とマグカップを差し出すと、東雲はそれを受け取り、一口飲んで深く息を吐き出した。


「はぁ〜……生き返る。相変わらず、陽和ちゃんのお茶は神がかってるわね。五臓六腑に染み渡るわ」

「ふふっ、大げさですよ。ただのハーブティーです」


 陽和は謙遜して笑うが、この一杯の香りは、換気扇を通じて密かに学園の廊下へと漂い出し、登校してくる生徒たちのささくれ立った神経を無自覚に浄化し始めているのだった。


 ◇◇◇


 朝のホームルーム。

 陽和が所属する舞台制作科の一年クラスに、担任であり舞台演出を教える教師・黒田が足を踏み入れた。黒田の吊り上がった目は、生徒たちを値踏みするように鋭く光っている。


「来月の地区大会に向けた通し稽古が本格化する。演者たちは命を削って舞台に立つんだ。お前たち裏方も、一切の妥協は許さん。結果を出せない無能は、この学園には必要ない。いいな!」


 黒田の言葉に、生徒たちは息を呑んで頷く。

『結果至上主義』を体現する黒田は、学園内でも特に厳しい教師として恐れられていた。だが、彼にはもう一つ、誰にも言えない秘密があった。

 かつて若き日の黒田は、日向源蔵のカンパニーに所属していた。しかし、演者を消耗品のように扱う彼の傲慢な演出手法を、源蔵は「演者の心を殺す演出家に、舞台を創る資格はない」と一刀両断し、追放したのだ。

 その強いコンプレックスと逆恨みから、黒田は源蔵の孫である陽和を激しく憎悪していた。


 黒田の冷ややかな視線が、教室の隅に座る陽和を射抜く。


「日向。お前は今日、第三倉庫の備品整理と、第一から第五までの全稽古場の雑巾がけをしておけ。あぁ、それと、小道具の修繕も追加だ」

「えっ、先生……それはいくらなんでも一人では……」


 同級生の一人が思わず声を上げるが、黒田は鼻で笑った。


「伝説のプロデューサーの孫娘なのだから、これくらい誰にでもできる『雑用』など、簡単にこなせるだろう? それとも、甘やかされて育ったお姫様には無理だったか?」


 あからさまな嫌がらせだった。物理的に一日で終わるはずのない業務量だ。

 しかし、陽和は席から立ち上がると、黒田に向かって深く、そして美しいお辞儀をした。


「ありがとうございます、黒田先生」

「……あ?」

「稽古場の清掃は、演者の皆様が安全に動ける動線を学ぶ絶好の機会です。備品整理も小道具の構造を理解するために必要不可欠な作業。私にこんなにも成長のチャンスを与えてくださり、心から感謝いたします」


 陽和の顔には、微塵の不満も、嫌味もない。心からの感謝に満ちた、花がほころぶような純粋な笑顔だった。

 予想外の反応に、黒田は顔をしかめ、舌打ちをして教室を出て行った。


 ホームルームが終わると、今度は同級生たちが陽和の席に群がってきた。

 中心にいるのは、俳優科のトップ女優候補である星野瑠璃の取り巻き、赤城と青山だ。彼女たちは舞台制作科に所属しながらも、常に演者側に媚びへつらい、裏方の仕事を「下働き」として見下している。


「ちょっと日向さん。あんた暇でしょ?」


 赤城がドンッと陽和の机に大量のタッパーと空のペットボトルを置いた。


「瑠璃様たちが飲む特製シロップの仕込み、あんたに任せるわ。私と青山さんは、瑠璃様の衣装の打ち合わせで忙しいの。あんたみたいな『雑用係』にぴったりのお仕事でしょ?」

「そうそう。どうせコネ入学のあんたには、こういう誰にでもできることしかできないんだから。あ、レモンは均等に薄く切ってよね。ちょっとでも苦味が出たらあんたのせいだから」


 青山も意地悪く笑いながら同調する。

 自分たちの仕事を押し付けているだけだが、陽和は嫌な顔一つせず、タッパーを両手で抱え込んだ。


「特製シロップの仕込みですね。承知いたしました。お二人は衣装の打ち合わせ、頑張ってくださいね」

「な、なによその余裕ぶった態度……! 言っとくけど、昼休みまでに終わらせなさいよ!」


 陽和のあまりにも素直な反応に毒気を抜かれたのか、赤城と青山は顔を見合わせ、逃げるように教室を出て行った。


 一人残された陽和は、左胸の革ポーチの上からポンポンと軽く手を当てる。

(お母さん、特製シロップの仕込みですって。演者の方々の喉を守るための、大切な『命綱』ですね)


 誰にでもできる雑用――周囲はそう言って彼女を嘲笑う。

 だが、陽和にとって「誰にでもできる仕事」など、この舞台裏には一つも存在しない。一杯の飲み物が、床の一ミリの段差が、演者の心と体をどれほど左右するかを、彼女は両親の背中を通して痛いほど知っているのだ。


「さあ、急いで給湯室に行きましょう。最高のシロップを仕込まなくては」


 陽和はタッパーを抱え、軽やかな足取りで教室を後にした。

 周囲の悪意も、理不尽な重労働も、彼女にとってはすべて「大好きな裏方のお仕事」でしかない。

 底辺裏方として見下される無自覚なナイチンゲールは、今日もマイペースに、学園の歯車を密かに回し続けていた。

この作品はライバー名(故)みちこさんに捧げます。

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