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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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紙飛行機が届くまで

作者: 夜乃氷空
掲載日:2026/07/06

誰かと過ごす時間は、特別なようでいて、すぐに日常になる。


当たり前に隣にいることが、当たり前じゃなくなる瞬間を、人はいつも後になって知る。


この物語は、そんな“失われる直前まで続いていた日々”の話です。

校門を抜けると、夕焼けが校舎のガラスをゆっくり染めていた。


オレンジでも赤でもない、少しだけ柔らかい色。


その中を、茜は走っていた。


悠陽(ゆうひ)ー!待ってってば!」


前を歩く少年が振り返る。


「お前、今日も遅いんだけど」


呆れた声なのに、足は止まっている。


そのことに茜は気づいていて、気づいていないふりをする。


「いいじゃん別に。間に合ってるし」


「間に合ってるの基準が雑すぎる」


そう言いながら、悠陽は自然に茜の歩幅に合わせる。


この“合わせる”という動作が、彼の癖だった。


(あかね)はそれを、少しだけ誇らしく思っている。


---


二人は、同じ高校の帰り道を一緒に歩く関係だった。


付き合っている、と言われればそうだし、違うと言えば違う。


でも周りから見れば、それはもう答えが出ている関係だった。


「今日さ、体育でさ」


茜が息を整えながら話す。


「バスケで転んでさ。普通に痛くてさ」


「普通にじゃなくて普通に転ぶな」


「うるさいなー」


そんな会話ばかりなのに、空気は不思議と静かだった。


沈黙が怖くない相手というのは、案外少ない。


---


信号待ち。


赤。


車が通り過ぎる音だけが響く。


茜はふと、横顔を見た。


悠陽はいつも、少しだけ遠くを見ている。


何かを考えているようで、何も考えていないようで。


その顔を見ると、茜はいつも同じことを思う。


(この人、どこか行っちゃいそう)


でもそのたびに、彼はちゃんとここにいる。


だから何も言わない。


---


「ねえ悠陽」


「ん?」


「今日さ、帰りにコンビニ寄らない?」


「またアイス?」


「当たり前じゃん」


「財布の中身、当たり前に心配してるんだけど俺」


「未来の悠陽がなんとかするでしょ」


「未来の俺、過労死しそうだな」


そんなくだらないやりとりに、茜は笑う。


笑うと、少しだけ安心する。


この時間が続く気がするから。


---


橋の上。


風が少し強くなる。


川の流れは速くも遅くもなく、ただ淡々としていた。


茜は手すりにもたれながら言う。


「ねえ、もしさ」


「またそれ系?」


「違う違う。真面目なやつ」


悠陽が少しだけ視線を上げる。


茜は続ける。


「もし、どっちかが先にいなくなったらどうする?」


「事故る前提やめろ」


「違うってば、例えばだよ」


悠陽は少しだけ黙る。


風が一回だけ強く吹いて、髪が揺れた。


「……普通に、生きるだろ」


「冷た」


「冷たくない。生きるしかないだろ」


その言葉は正しい。


正しいからこそ、少しだけ痛い。


茜は笑ってごまかす。


「そっかー。じゃあさ、私がいなくなってもちゃんと生きてね」


「お前がいなくなる前提で話すな」


「だってさ」


言いかけて、やめる。


その“だって”の続きは、言葉にならなかった。


---


その日の帰り道は、いつもより少し長かった。


コンビニでアイスを買って。


外で立ったまま食べて。


くだらない話をして。


それだけの時間が、妙に長く感じた。


---


夜。


茜は自分の部屋の窓を開ける。


風が入ってくる。


遠くで電車の音がした。


スマホには、悠陽からの短いメッセージ。


「明日、遅刻すんなよ」


たったそれだけ。


それだけなのに、少しだけ嬉しい。


茜は画面を見ながら、小さく笑う。


「するわけないじゃん」


返事は送らない。


明日、直接言えばいいから。




翌日。


空は、昨日と同じように何でもない顔をしていた。


雲は薄く、光はやわらかい。


学校帰りの道も、いつも通りだった。


笑い声が少し遠くでしている。


風が横から抜けていく。


それだけの、普通の夕方。


---


茜は少し後ろを歩いていた。


「悠陽ー、今日さー」


前を行く背中に向かって、声を投げる。


「数学の小テストやばかったんだけど」


「知るか。お前がやばいだけだろ」


いつもの返し。


いつもの距離。


それが、今日も続いていた。


---


交差点。


信号が変わる。


人が動き出す。


茜も、悠陽も、流れの中に混ざる。


並ぶほど近くもなく、離れるほど遠くもない距離。


---


その瞬間だった。


何かが変わったわけじゃない。


音が変わったわけでもない。


ただ、悠陽が一歩先へ踏み出した、その一瞬。


---


「悠陽ッ!」


茜の声が、少しだけ強くなる。


次の瞬間、茜は走っていた。


理由なんて考える前に、体が動いていた。


---


悠陽は振り返る。


「おい、何——」


そこまでしか言えなかった。


---


茜は悠陽の腕を掴む。


そのまま、強く、前へ押す。


「危ないッ!」


言葉というより、叫びだった。


---


悠陽の体は、歩道側へと転がるように押し出される。


視界の端で、世界が大きく揺れる。


「……?」

---


茜はその場に立っていた。


さっきまで自分が立っていた場所。


そのまま、時間が止まったみたいに見えた。


---


次の瞬間。


金属が擦れるような音と、何かがぶつかる音。


---


悠陽は歩道の上で、息を止めたまま茜を見ていた。


体が動かない。


声も出ない。


ただ目だけが、追いかけている。


---


茜は一瞬だけ、こっちを見た。


いつもの顔だった。


少しだけ困ったような、でも笑っている顔。


「よかった」


そんな口の動きだけが見えた気がした。


---


そして、茜の体が——見えなくなった。


ゆっくりでもなく、速くでもなく。


ただ、そこにあったものが、そこから離れていくように。


---


音が戻ってくる。


ざわめき。


サイレンの音。


誰かの声。


遠くで止まる気配。


---


でも悠陽には、それが全部遠かった。


---


「……茜?茜っ!」


初めてちゃんと名前で呼んだ。


---


返事は、ない。


---


そこから先の世界は、少しだけ形を失ったみたいに見えた。


人の声も、車の音も、全部が薄い膜の向こう側にある。


---


悠陽は、ただ座っていた。


本当なら二人がいる場所に。


今は、一人だけ残っていた。


---


そして初めて気づく。


さっきまで隣にいた温度が、もうどこにもないということに。




痛みは、遅れて来た。


最初は何も感じなかった。


ただ、世界が少し傾いたような気がしただけだった。


---


茜は地面に手をついた。


冷たい。


それだけが、やけに鮮明だった。


---


「……悠陽」


呼んだ声は、自分のものじゃないみたいに弱かった。


---


視線の先に、彼がいる。


動いている。


生きている。


それだけで十分だった。


---


誰かの声がする。


遠くで、近くで、いくつも重なっている。


「動かないで!」「待って!」


でも、その全部が意味を持たなかった。


---


茜はゆっくりと体を起こす。


痛みが、ようやく形を持ち始める。


それでも立とうとした。


---


「ダメだ!」


誰かの腕が止めようとする。


でも茜は、その手を振り払った。


強くじゃない。


ただ、必死に。


---


「お願い……少しだけ」


声が震える。


自分でも驚くほど弱い声だった。


---


カバンが落ちているのが見えた。


その中に、折りかけの紙がある。


---


あれはずっと前から書いていた手紙だった。


渡すタイミングなんて、決めていなかった。


でも、今日じゃないと思っていた。


---


茜は紙を取り出す。


手が震えている。


文字が少しにじむ。


---


書いていた途中の言葉の続き。


ペンを握る。


---


「悠陽、ごめんなさい。」


書いた瞬間、呼吸が浅くなる。


---


次の行。


指先が止まる。


少しだけ考える。


---


何を謝るのかなんて、全部だった。


でも全部は書けない。


---


だから、続ける。


---


「ちゃんと、生きてね。」


---


そこまで書いたとき、視界が揺れる。


誰かがまた止めようとする。


でも、茜はもう一度だけ首を振った。


---


まだ終わってない。


---


最後の一行。


一番書きたかったのに、ずっと書けなかった言葉。


---


「だいすき」


---


書いた瞬間、手から力が抜ける。


---


茜は紙を見つめる。


それを折る。


ゆっくり。


丁寧に。


---


紙飛行機になる形。


不器用で、少し歪んでいる。


でも、それでいいと思った。


---


「届いて……」


誰にも聞こえない声で言う。


---


そして、最後の力でそれを放つ。


---


紙飛行機は、ゆっくりと空気を切る。


ほんの少しだけ、まっすぐに。


---


茜はそれを見上げる。


視界が白くなっていく。


最後まで、笑顔でいなきゃ。


---


でも、ちゃんと見ていた。


悠陽のいる方向を。


---


「ちゃんと、生きてね」


もう一度だけ、心の中で繰り返す。


---


そして、世界が静かになる。


---


紙飛行機だけが、悠陽のもとに、飛んでいった。



空は、何事もなかったみたいに明るかった。


さっきまでの出来事だけが、そこにぽっかり穴を開けている。


その穴の真ん中に、紙飛行機が落ちていた。


---


誰かが拾った。


それは、ただの紙だった。


けれど、そこに書かれているものが“ただの紙じゃない”と気づくのに時間はいらなかった。


「……これ、渡さないと」


誰かの声。


そして、それは悠陽の手に届いた。


---


悠陽は、それを受け取る。


指先が少しだけ震えていた。


---


紙を開く。


---


そこには、きれいな字が並んでいた。


いつもの茜の字より、少しだけ丁寧で、少しだけ不器用な文字。


---

悠陽へ

こんなふうに手紙を書くの、ちょっと変な感じだね。

直接言えばいいのにって思うけど、たぶん今はちゃんと言葉にした方がいい気がしました。

だって残るじゃん?笑

悠陽と一緒にいる時間ってね、すごーく楽しいの。

毎日が当たり前みたいで、当たり前じゃなかった。

バスケで転んだ日も、コンビニでアイス食べた日も、 なんでもない帰り道も、全部ちゃんと覚えてる。

消えないでほしいって、ずっと思ってた。

悠陽ってさ、たぶん優しいよね。

でも優しすぎて、自分のこと後回しにするところある。

それ、ちょっと心配。

たぶん私、わがままだよね? でも許してほしいです。

アイス代いつも半分出させてごめん。

今思うと、ちゃんとありがとうって言えてなかった気がする。 ありがとう。

でも一緒に食べたの、全部楽しかった。

かわいい悠陽の彼女の茜より


---


そこまでで、一度文字が途切れている。


紙の余白。


少しだけインクが揺れている。


---


悠陽は息を止めたまま読んでいた。


目が動くたびに、言葉が刺さる。


---


そして、その下。


そこだけ、明らかに違う筆圧。


急いで書かれた文字。


---


悠陽、ごめんなさい。

ちゃんと、生きてね。

だいすき


---


その三行を読んだ瞬間。


紙が、少しだけ揺れた。


---


悠陽は立っていた。


でも、立っている感覚がなかった。


---


さっきまでの全部が、ようやく意味を持ち始める。


けれど、もう遅いということだけは分かっていた。


---


紙を握る力が抜けない。


それだけが、現実だった。


---


「……茜」


声にならない声が落ちる。


---


返事は、ない。


---


風が吹く。


紙の端が少しだけ揺れる。


---


その紙の隅に、小さく描かれていた。


二人が並んで笑っている絵。


いつもの茜の絵柄。


いつ見てもうまい。


---


悠陽は、それを見てしまう。


見てしまったまま、動けなくなる。


---


そして、ようやく理解する。


これは“別れの手紙”じゃない。


---


ただの、好きだったという記録だった。


---


その場で、時間が止まる。


誰も動かない。


---


空だけが、少しずつ色を変えていく。



その後、茜は病院に運び込まれたが、まもなくして、宇宙に旅立ってしまったそうだ。



朝の教室は、いつもより少し静かだった。


静かというより、“音の置き場所を探している”みたいな空気だった。


誰も大きな声を出さない。


笑い声も、少しだけ遅れて生まれる。


---


悠陽は、いつも通り教室に入った。


いつも通りのはずだった。


でも、どこかがずっとズレている。


---


茜の席は、そのままだった。


机の上はきれいに片付けられている。


---


紙飛行機。


いや、正確にはもう紙飛行機ではない。


丁寧に畳まれた、少し皺の残った手紙。


---


これ以上何処かに行ってほしくなくて、昨日のあの瞬間から、ずっとポケットに仕舞ってある。


---


授業が始まる。


黒板の文字はいつも通り動いていく。


先生の声も、いつも通りだ。


---


ただ一つだけ違うのは、


その空気の中に、もう一人分の“反応”がないことだった。


---


笑うときに、少しだけ遅れて笑う声。


ふざけるときに、必ず一言かぶせてくる声。


その全部が、今日はない。


---


昼休み。


誰かが茜の話をしようとして、やめた。


その瞬間が一番静かだった。


---


「……悠陽、大丈夫か?」


友達の声。


---


大丈夫って何だろう。


そう思ったけど、口には出さなかった。


---


「普通だよ」


そう答えた。


本当に普通に言った。


---


でも、その“普通”が一番遠かった。


---


放課後。


誰もいなくなった教室に、夕日が入ってくる。


机の影が長く伸びる。


---


悠陽は、ようやく立ち上がった。


そして、茜の机の前に行く。


---


そこでポケットから出した手紙を、もう一度開く。


何度も読んだはずなのに、まだ読めていない気がした。


---


そこに書かれている文字は、


昨日と同じなのに、昨日より重かった。


---


「ちゃんと、生きてね」


---


その一文だけが、ずっと残る。


---


悠陽は机に手を置く。


冷たい。


---


「……生きるって、なんだよ」


誰にも聞こえない声だった。


---


そのとき、風が入ってきた。


窓が少しだけ揺れる。


---


手紙の端が、かすかに動く。


---


そこに、まだ残っているものがあった。


小さな落書き。


二人が並んでいる絵。


笑っている。


---


悠陽はそれを見て、ようやく息を吐いた。


---


泣き方が分からなかった。


怒り方も分からなかった。


ただ、そこに立っているしかなかった。


---


教室の時計が進む音だけが、やけに大きい。


---


その日から、日常は戻った。


学校は続く。


授業も続く。


笑い声も少しずつ戻っていく。


---


でも、悠陽だけは戻れなかった。


---


アイスを買いそうになってやめる日があった。


橋の上で立ち止まる日があった。


信号待ちで、後ろを振り返る日があった。


---


どれも、意味はない。


でも全部、意味があった。


---


春は、何事もなかったように過ぎていく。


---


そして悠陽は思う。


---


あの日の紙飛行機だけが、


今もまだ、どこかで飛び続けている気がしていた。

大切な人との時間は、きっといつも静かに積み重なっていきます。


それが永遠じゃないことを知るのは、いつだって終わったあと。

でも、終わったあとだと、もう遅い。


もしこの物語を読んで、少しでも胸の奥が揺れたなら、

それはきっと、誰かとの時間をちゃんと覚えている証拠だと思います。


そして願わくば、今日という一日が、あとで思い返したときに“失いたくなかった時間”になってくれたら嬉しいです。

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