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優しい夜の女王様

掲載日:2026/06/09

 私は女の尻を叩くのが好きだ。うつ伏せに寝転がる女の、細いくびれの急斜面から、曲線を描く尻をリズムよく叩く。私は太鼓の達人になる。女は笑って「楽しいの?」と聞いてくる。その笑顔の優しさに触れて、私はさらに、夢中になって女の尻を叩く。そうするうちに夜は深まって、やがて、東から太陽が昇ってくる。


 夏の暮れだった。私はシャワーを浴びて汗を落とすと、夜の散歩に出かけた。夜でもまだ夏だから蒸し暑く、汗がにじんでくる。鬱陶しい前髪を掻き上げて額をさらすと、生ぬるい風が、そっと私の体を撫でた。火照った人肌のような風である。


 地球の性は、女だと思う。ギリシャ神話ではガイア。北欧神話では、世界の元になるのは男のユミルだが、そのユミルを育てたのは、雌牛のアウズフムラである。


 だから、地球の性は女だと思う。風が吹いて、その風が優しいなら、それは女に撫でられたのだ。また風が吹いて、その風が激しいなら、それは機嫌の悪い女に叩かれたのだ。そうしてもう風が吹いてこないときは、それは、女に焦らされているのだ。晩夏、私の頬を撫でる火照った人肌の風は、女の気まぐれな愛撫だった。


 私は女とか、自分の生とか、自分の生活とかに、もういい加減嫌気がさして、シャワーを浴びたばかりで飛び出してきたのだが、この気まぐれな女の、人肌の風はずるい。


 こいつにかかると、なんだか悪いことばかりじゃないような気がしてくる。蒸し暑い夜の汗ばんだ体に丁度いい風が吹くと、なんだか良い気持ちになってくる。そればかりか、またこの風に吹かれたい一心で、まあ人生も捨てたもんじゃない、よし一生懸命生きる気になってくる。


 しかしこの風は気まぐれだから、全然私の思い通りにはならない。私は一時の気の迷いと瞬間の誘惑を忘れ、よし死ぬ気になってくるのだが、そうするとまたこの風が、たまらない人肌の柔らかさでもって私を誘惑し、尻を振ってみせるので、私のほうではまたむらむらと生きる気力が湧いてくる。


 この風の性もやはり女だ。優しいんだか残酷なんだか、私にとっては、優しい夜の女王様である。


 少し歩くと公園に出た。開けた頭上の空に、星が点々と瞬いている。階段をあがって高台に、街の景色を一望すると、家々の窓の明かりが地上の星だった。この一つ一つに人生というものがあると考えると、それは、とんでもないことのように思われる。例えば、宇宙船地球号という言葉があるが、そんな妙な言葉で誤魔化してはいけない。地球に生きる人間は誰でも、地球船人間号なのだ。宇宙の広大さに比して、人間号の境遇が相対化されるかといえば、無論、そんな理屈は通らない。


 夜空の星も、地上の明かりも、手が届かないのに変わりない。昼間は騒がしいが、騒がしさに紛れて喧噪を打ち消すと、実はとても静かである。夜の静けさはなにも語らない。だから際限なく騒がしくなる。


 私は女の尻を思い出す。この夜のどこかに、私の女の尻があるはずだ。欺瞞が頭を狂わせると、すべてが女の尻に見えてくる。あの星も女の尻だ。あの明かりだって女の尻だ。あの高層ビルの小さな窓の明かり一つ一つ、全部私の女の尻だ。どれを選んでも私の女の尻だから、どこまでも満ち足りている。この世に幸福があるなら、これがそうだ。


 シャボン玉、ぱっと弾けると、焦燥が尻を蹴散らした。夜はこのように、昼間の騒がしさより断然騒がしくせわしない。


 居所がなく辺りを見渡すと、公園の暗い片隅に、小さなブランコが置いてあった。バイクを走らせて、時速六、七十キロメートルあたりで手を伸ばすと、胸の感触があるらしい。私は思い切りブランコを漕いだ。迎える風は素っ気なかった。


 仕方なく公園を出て、眩しい自販機でお茶を買った。水分は生きるのに必要だ。女の尻は別になくてもいいのに、事によると、私はお茶を投げ捨ててでも女の尻を求めるかもしれない。尻が二つに分かれているのは、人が一人で生きられない悲しみのためだというのは言い過ぎかもしれないが、両手で真ん中に寄せる女の尻は、やはりどこか満足げである。


 女はやはり悪魔だろうか。私は別に男の尻を叩きたいとは思わないのに、女の尻を見ると、叩きたくてたまらなくなってくる。柔らかい弾力と、包み込む反発が、私を無邪気にさせる。私がおもむろに女の尻太鼓を始めると、女は、あの優しい笑顔で振り向いてくる。しかし別のときには、女は、猛烈に怒って私を非難する。


 それもこれも、女のほうでは、私の弱みをしっかり握っているからだ。私が彼女の尻を好むのを知っているから、断然優位な立場にあるのを自覚して、彼女は夜の女王様になる。機嫌がいいときには聖母のような笑顔。逆の場合は言うまでもない。そうして私が縮こまっていると、気まぐれに、あの火照った人肌の風が吹いてくる。


 汗だ。どこにこれほどの体液が隠れていたのか。私は洪水をかき分けて、奥へ、優しい夜の女王様。だがもう沢山だ。どれだけ汗を流しても、結局、なんにもならないじゃないか。君は左の尻で、私は右の尻なのだ。違うと君が言うのは嘘だ。しかし、私はその嘘を手放さずにおこう。


 二十分も歩くと時刻は九時過ぎになっていた。街の光は胸襟を閉じ、ファム・ファタールは街のミラーのどこにもいなかった。代わりに、私を取り巻く一切がファム・ファタールの皮をかぶっていた。私は誰にも会わず、その気配だけを感じて、絶えず神経を尖らせていた。一方でミーアキャットは仲間のために立って見張りをする。もう一方では女が私のために見張りをするが、私は、その女に対してこそ神経を尖らせている。


 手作りのチョコレートの固さと嫌な甘さ。受け取った嬉しさは、たしかに君のおかげに違いないが、食べるのは私がもてなしている。

 散らかった部屋。片付いたのは、たしかに君のおかげに違いないが、君も満足したはずだ。

 生活力に乏しい男。世話を焼くのはたしかに君の美点だが、しかし、私が自立したら、君は不機嫌になるだろう。

 ファム・ファタール。運命と破滅の匂いが漂っている。君は生活と家庭の匂いと、叩ける尻と優しい笑顔を持っている。


 その一方で私はといえば、女の尻を叩く手と、もういい加減駄目になりそうな頭を持っている。家でも外でも、わけもわからず緊張して、いつも女の尻のことを考えている。一つの尻が欲しい。尻を叩くことも、叩かせることも、いじらしい受容に違いないじゃないか。馬鹿野郎、文句を言うなら、明日電車に乗って、手当たり次第に尻を揉んでやる。やると言ったらやる。やらないと言ったらやらない。花弁を一枚ずつむしって確かめよう。


 道ばたに雑草が生えている。アスファルトの隙間から顔を出して、とても健気に見えた。引き抜いて、一枚二枚、好き嫌いを繰り返した。街灯の光を照り返す真っ黒いアスファルトに落ちた花弁がとても綺麗だった。


 じんわり鼻の奥が熱くなってきて、むしった雑草を放り出すと、めっきり死ぬ気になってきた。私の足下に、さっき踏んづけた花弁がひらりと舞った。つまんで拾い上げ、ちょっと見た後で、試しに宙に放ってみると、そのままどこかへ飛んでいった。生ぬるい風が吹いた。私はむらむらと生きる気になった。


 時計を見ると、時刻は九時四十分。そろそろ家に帰っていい頃である。私は空になったペットボトルを握りしめ、夜空を見上げながら、ゆっくり家路を辿りはじめた。


 All Apologies.僕が悪かった。全部受け止めて抱きしめてくれ。


 神は、アダムとイブを創造したらしい。アダムとアダム、イブとイブではいけなかった。それならそれで、私が女の尻を叩き、女が愛おしむ笑みを浮かべるのも、神の御心に沿わないことはないだろう。天国は、真ん中に寄せた女の尻にある。その尻を伝う涙が隣人愛だ。私はそれのために死ぬことを辞さない。


 優しい夜の女王様。広い世界のたった一つの窓辺から。笑うのも、怒るのも、別にどちらでも構わない。


 Anno Domini.すべてが乾き、終わるまで。


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