8品目 大猪豚との死闘
――ヴォォ、ヴォォオオォォオオッッ!!
猛る大猪豚が牙を振り回し、木々をなぎ倒しながら突進してくる。地響きが森全体を揺らし、折れた枝が四方に飛び散った。
「ほい、ほいっとぉ!」
シローは身軽に跳躍し、頭上に垂れ下がったツタを掴んで宙に飛び上がる。下を猛然と通り過ぎていく大猪豚を眺めながら、
「――さぁて、どうやって絞めてやろうかねえ」
太く突きでた枝の上で、シローは目を細めて獲物を睨みつけた。
彼には料理人として譲れない信条がある。グーグーと出会った日に口にした『料理人のいざこざは料理をもって解決する』もその一つ。そしてもう一つは――
「殺るからには美味く食ってやるからよぅ……勘弁しろよな」
そう言って地面に降り立ったシローは、おもむろに腰に佩いた小剣を引き抜いた。眼前にかざした刃がきらりと光り、大猪豚が濁った目をそむける。
ゴ、フゥ……ッ……
大猪豚は首を振りながら、シローの周りをゆっくりと歩む。さながら品定めするような態度に、シローは眉間にしわを寄せた。
「おうおう……手前ェ、小せえと思ってワシのことを舐めてんじゃねえだろうな? さっさと全力でかかってこんかい、このトンチキがぁ」
ふてぶてしい挑発に応えたのか、大猪豚の荒い鼻息が白い湯気となって立ち昇る。
グォォォオオオオオオォン!!
雄叫びとともに、大猪豚が棹立ちになった。その巨体が太陽を遮り、シローを影で覆い隠す。
(――っ、来るか!?)
次の瞬間、弾丸のような速さで大猪豚の突進が始まった。
シローは素早く横に転がると、「しぃっ!」と地面を蹴って大猪豚の懐に潜りこむ。狙うは後ろ脚の付け根――急所の一つだ。
「せいっっっ!!」
気合一声、小剣を振るうも、刃は厚い皮膚に阻まれ音高く弾かれる。
「通らんか!」
舌打ちとともに後方へ飛び上がって距離を取る。向かい合いながら、シローは冷静に大猪豚の攻撃パターンを推測した。
(ヤロウの攻撃は突進主体。噛みつき踏みつけ……しゃくり上げなんかも警戒しとかねぇといけねぇな)
かつて猟師から手ほどきを受けた記憶を反芻する。普通の猪なら眉間、こめかみ、心臓が急所とか言っていたが――
(いやぁ、このサイズじゃ話が違ェだろ)
命のやり取りのさなか、シローは思わず苦笑を浮かべる。
……ブフゥゥーッ! フゥーッ!
大猪豚にしてみれば、小さな獲物が自分を相手に弛緩した雰囲気を見せたことが気に入らなかったのだろう。苛立ちを露わに、前脚で地面を強く掻くと、
ギュルッ、ギギィィィッ!
歯ぎしりのような音を響かせて、その巨体をぶわりと宙に舞い上げた。
「――――なんだぁ?」
見慣れない動きに、シローが一瞬躊躇する。
その隙を突いて――
ビィィィィィキャャャァァアアアアァアアッッッ!!!!!!
森全体が震えるような咆哮が、けたたましく鳴り響いた。
「――っ痛ぅ!」
音波が物理的な衝撃波となってシローを襲う。小さな体が木っ端のように吹き飛ばされ、地面を何度も転がった。
全身に鈍痛が走る。だが受け身は間に合った。派手に転んだわりには大したダメージはない。それよりも――あの力はなんだ? アイツはどうやってワシを攻撃した?
ようやく転がり終えたシローが、膝をついて立ち上がる。
「……あークソ、やれやれだぜ。こんな格好で帰ったら、嬢ちゃんに心配をかけちまうじゃねえか」
身体をはたきながら、あちこち破れた服を見てイヤそうに顔をしかめた。
魔法。地球にはなかった力。それを使うのは人間だけとは限らない――そんな当たり前のことを、シローはすっかり失念していたのだ。
「いやー、半端だったのはワシだったみてぇだな。失敬失敬」
軽快な言葉づかいとは裏腹に、シローの表情から少しずつ感情が抜け落ちていく。体の節々が痛むものの、それがかえって頭を冷静にさせていた。この感覚は久しぶりだ。戦時中に経験した、極限状態で研ぎ澄まされる、あの独特の集中力――
「――っし! んじゃあ、今度はこっちからいくぜっっっ!!!!」
膝を叩いたシローが、躊躇なく駆けだした。
ヴォガァァッ! ヴォガァァァッ!
たび重なる大猪豚の踏みつけを紙一重で躱しながら、シローは相手の懐に再び潜り込むと、「ほれ、どしたァ!?」と相手の動きに併せて、次の攻撃を誘導するようにちょこまかと動き続ける。
一度、二度、三度……
大猪豚の息が荒くなり始めたその時――
「あっ」
足がもつれたシローの手から、小剣が滑り落ちた。
ブゥゥゥモォォオオォォッ!!
その機を見逃さず、大猪豚が勝利を確信したように牙を剥いて突っ込んでくる。
「――ひっかかったな?」
シローの口元が、にんまりと歪む。
刹那の死地、シローと大猪豚が共有する刻の流れが、ぬらりと重く、遅くなったような錯覚の中――
「おいっしょぉっっっ!」
開かれた巨大な口腔に、シローが躊躇なく頭ごと腕を突っ込んだ。ぬめる舌先を掴み、喉の奥へと押し込むと、
ギュルッ? ギギィィィッ!
嘔吐いた大猪豚が反射的に顔を上げる。
(ここだっ!)
シローの眼に暗い光が灯った。
口から腕を引き抜いたシローは、大猪豚の下顎へ滑り込むように潜り込むと、太い体毛を両手でしっかりと掴み、全身のバネを使って跳ね上げる。
自分の体重、そしてイノブタ自身の突進してきていた勢い、地面の傾斜。その全てを巧みに利用して――
「う、ぎぎぎぎぎぃ……クソ重てぇ――――がぁぁああああああっっ!! いくぞコラぁぁあああああああっっっっっっ!!!!!!!!」
巨体を垂直に持ち上げ、そのまま大地へと叩きつけた。
「――『雷堕落し』っっっ!!!!」
雷鳴のような轟音が、森中に響く。
地面がめくりあがるように陥没し、土煙が盛大に舞い上がった。やがて煙が晴れると、首が不自然な角度に曲がった大猪豚が、だらりと舌をはみ出しながら、重い地響きの音を立てて横たわる。
「おうおう、うまくいったみてぇだな」
土煙の中からシローがひょっこりと姿を現す。服はボロボロ、額に張りついた黒髪を払いながら、その表情は晴れやかだった。
「久しぶりの大技だったが、ワシもまだまだイケんじゃねえか」
大猪豚の死骸に近づき、その巨体を見回す。さっきまでの殺気は消え、今は純粋に食材を見る料理人の目つきに戻っていた。
「さあて、コイツをどうやって捌いてやろうかねぇ。早ぇとこ血抜きだけはしねぇといけねえが……あー、どんなメシが合うだろうなぁ、コイツの肉は…………あの背中にあるキクラゲみてぇな薄骨も食えねえかな……」
まるで食材を物色するような気軽さで、シローは大猪豚を観察し始めたのだった。
次回「驚愕のウルスラ」




