40皿目 龍之大蛇(タツノウワバミ)―前編
――シュルル……ォォォオオ……
洞窟の奥から、低く重い唸りが響いてきた。舌を鳴らすような音から始まり、壁という壁を震わせる地響きへと変わっていく。空気そのものが振動し、足元の岩盤がびりびりと共鳴した。
マルガネータは不敵に笑う。
目の前にいるのは、まさに悪夢の具現化だ。全長二十メートルを超える巨体。胴回りは大樹のように太く、全身を覆う黒緑色の鱗は鎧のように硬そうだ。頭部には牛のような角が生え、真っ赤な瞳がぎらぎらと光っている。何より恐ろしいのは、口から漏れる紫色の霧だった。毒の瘴気が地面に触れると、じゅうじゅうと音を立てて岩を溶かしていく。
「でっけぇなぁ、オイ!」
シローが場違いに目を輝かせている。まるで珍しい食材でも見つけたような顔をしていた。
「シローくん、こいつはたぶん食べられないからね!? 手加減しない方向でよろしく!!」
「……なんでい、残念だな」
シローが小さな拳を握る。子供の体なのに、その構えには隙がない。
「だが、こっちを殺る気になってる相手には、それなりにケジメはつけねぇといけねえな」
二人がさっと前に出て、マルガネータを背中で守る陣形を取った。
(食わない獲物は殺さない——か)
グーグーの信条を思い出す。シローも同じ考えらしい。命に対する敬意を持ちながらも、やるときはやる。似た者同士だ。
「いくよっ!」
グーグーの気声が、洞窟に響いていった。
◆◇◆
グーグーが地面を蹴って、一気に跳躍する。銀色の髪が流星のように尾を引いた。
「『桜雷旋』っ!」
鉾槍の一閃が銀の糸となって空に煌めく。刃に沿って青白い電光が奔り、大蛇の胴に叩きつけられた。
金属音が洞窟全体に響き渡る。だが——槍の穂先は、鱗の上を火花を散らしながら滑っていくだけだった。まるで鋼鉄の装甲に刃を立てたような手応えで、傷一つついていない。
シャア、ルルル…………
鱗に走った火花を見下ろすように、大蛇が低く喉を鳴らす。
「うわ、硬!」
着地したグーグーに、大蛇の尻尾が襲いかかっていく。巨大な質量が、鞭のようにしなって横薙ぎに振られた。
「おっとぉ!」
グーグーが横っ飛びに回避する。尻尾が通過した場所の岩盤が粉々に砕け散り、石礫が霰のように四方へ吹き飛んだ。
入れ替わるように、シローが飛び出す。
「おうおう、こっち向けやデカブツがぁ!」
大蛇の腹に向かって一直線に走り込み、渾身の拳を叩き込む。どごん、と鈍い音が響いた——が、それだけだ。拳が鱗の上で止まっている。
「……マジかよ、びくともしねぇ」
さらに蹴り、肘、膝と続けざまに打ち込むが、どれも鱗に阻まれてまるで通らない。大蛇はシローを一瞥すらしなかった。羽虫が止まった程度にしか感じていないのだろう。
シュゥ……ッ
だが次の瞬間、大蛇の尾が唸りを上げてシローに迫った。子供の体をまともに捉えれば、それだけで肉塊に変わる一撃だ。
シローが沈み込むように腰を落とす。尾が頭上すれすれを通過し、風圧で黒髪が激しく煽られた。さらに続けざまに鎌首が突っ込んでくるのを、紙一重で横に躱す。角が地面を抉り、岩の破片がシローの頬を掠めていく。
(……凄いモンだね、あの坊やは)
マルガネータは目を見張った。身のこなしが尋常じゃない。あの巨体の攻撃を、まるで最初から軌道が見えているかのように、最小限の動きでスルリとかわしていく。子供の体格を活かした低い重心と、無駄のない体捌き。あれは場数を踏んだだけでは身につかない、一流の冒険者の動きと変わらなかった。
「『華弐閃』っっ!」
態勢を立て直したグーグーが鉾槍を振り上げた瞬間、電光を纏った二つの斬撃が地面に深い溝を刻みながら大蛇の胴に迫る。だが鱗の上で火花を散らしただけで、やはり傷は通らない。
——と、その隙にシローが大蛇の後方に回り込んでいた。グーグーの斬撃に気を取られた一瞬を突き、大蛇の脇腹に拳を叩き込む。
だが通じない。大蛇の意識がシローに向いた刹那、グーグーが反対側から槍を突き上げた。
シャア、ルルルッ………………!
苛立ったように大蛇が鎌首を振る。その動きを見越したかのように、シローはもう次の死角に滑り込んでいた。
二人は視線は合わせていない。声も掛け合わない。なのに、グーグーが右に動けばシローは左へ、シローが下がればグーグーが前に出る。まるで鏡合わせのように、二人の動きが噛み合っていた。
(こいつら、いつの間にあんなに息が合うようになったんだい……)
マルガネータは舌を巻いた。二人の間に言葉はない。あるのは信頼だけだ。相方がどう動くか、何を考えているか、体で理解し合っている。出会ってまだそう長くもないはずなのに、まるで何年も組んできた相棒のような連携だ。
だが——マルガネータにとっては、たまったものじゃなかった。
(っ、そこ動くんじゃないよ!)
火球を撃とうとした瞬間、シローが射線上を横切る。慌てて狙いを変えれば、今度はグーグーが飛び込んでくる。二人の動きが速すぎて、援護射撃のタイミングがまるで掴めない。
(併せるほうの苦労も考えろってんだい……っ!)
歯噛みしながらも、マルガネータは煙管を構え続けた。撃てる隙は必ず来る。それまで焦るな。あたしの仕事は、ここぞという瞬間に一発ぶち込むことだ。
しかし、大蛇も黙ってはいなかった。
鎌首が地面すれすれを薙ぐ。グーグーが跳躍して躱し、着地と同時に槍を振るうが、続けざまに振り回された尾がグーグーの胴を正面から捉えた。
シュゥゥ……ッ!
「がっ——!」
吹き飛ばされたグーグーが洞窟の壁に叩きつけられた。衝撃で岩が蜘蛛の巣状にひび割れ、胸当てにもばきりと亀裂が走る。
「嬢ちゃんっ!」
シローが叫ぶ。だが振り返る暇もなく、大蛇の顎がシローに襲いかかる。紙一重で横に跳んだが、角の先端がシローの脇腹を掠めていった。小さな体がきりもみに回転しながら地面を転がり、岩の突起にぶつかってようやく止まる。
(ありゃマズい!)
マルガネータが駆け寄ろうとした瞬間、グーグーが壁から身を剥がすようにして立ち上がった。亀裂の入った胸当てを一瞥して、ふうっと息を吐く。
「っ、たぁ……お気に入りだったのになぁ、これ……」
文句を言いながらも、鉾槍はしっかり握ったままだ。目の光も消えていない。
(頑丈なワンコロだよ、まったく……)
反対側では、シローが片膝をついて立ち上がっていた。口の端から血が一筋伝っている。ぐいっと袖で顔を拭うと、ぺっと地面に唾を吐いた。
「……やれやれ、手加減ってもんを知らねぇヤツだな」
軽口を叩いているが、服はあちこち破れ、むき出しの腕にも擦り傷がいくつもできている。それでも目は死んでいなかった。むしろ、獰猛な光が増している。
(この坊やも坊やで……呆れるほどタフじゃないか)
二人とも、まだ折れていない。だが、攻撃が通じないという事実は変わらなかった。グーグーの槍もシローの拳も、あの鱗を貫けない。焦りが、じわりとマルガネータの胸を焼く。ならば——
「あたしの番だね」
マルガネータは深く息を吸い込み、魔力を練り上げる。煙管の先に五つの火球が生まれた。それぞれがバスケットボールほどの大きさで、内部で炎が渦巻いている。
「喰らいな!」
煙管を振るうと、火球が次々と発射された。弧を描いて飛翔し、大蛇の体に着弾する。爆発が連続し、洞窟全体が揺れる。熱風が吹き荒れ、煙が立ち込めた。
だが——煙が晴れると、大蛇はほぼ無傷だった。鱗に焦げ跡すらついていない。
「ちっ、これでもダメかい!」
マルガネータは舌打ちして、さらに煙管を構え直した。今度は火球ではなく、煙管の先に漆黒の煙を凝縮させていく。単発がダメなら、煙を直接送り込んで内側から焼く。あの開きっぱなしの大口から——
「もういっちょ!」
煙が意思を持つかのように大蛇に向かって飛翔した。狙いは口だ。だが、煙が大蛇に到達する直前だった。
ゴ、オォォォォ……ッ!
大蛇が大きく顎を開く。喉の奥から紫色の瘴気が一気に噴き出し、毒霧の壁がマルガネータの煙を正面から飲み込んだ。漆黒の煙は瘴気に触れた途端、水に落とした墨のようにじわりと滲み、散り散りになって消えていく。
「——はぁ?」
マルガネータは目を見開いた。魔法がかき消されたのだ。あの紫の霧はただの毒じゃない。魔力そのものを侵食し、食い散らかす性質があるようだ。
「ちっ! 厄介だねぇ……!!」
舌打ちした瞬間、大蛇の怒りの矛先がこちらに向いた。巨大な尻尾が空気を切り裂く音と共に振り下ろされる。
(避けきれない——!)
身構えた瞬間、小さな影が前に飛び出した。
「——『風柳』」
シローの小さな掌が、大蛇の尻尾に触れる。あの巨大な質量の攻撃が、まるで水流が岩を避けるように、するりと軌道を変えた。尻尾は狙いを外れて横の壁に激突し、岩壁が砕けて破片が雨のように降り注ぐ。だがマルガネータには傷一つない。
「やるじゃん、シローくん!」
グーグーが感嘆の声を上げた。だが代償は大きかった。質量差がありすぎる。シローの小さな体も、反動で吹き飛ばされていく。
「坊やっ!」
マルガネータは咄嗟に煙管を振った。紫色の煙が意思を持ったように動き出し、空中でシローを包み込む。まるで見えないクッションのように、優しく受け止めた。
「助かったぜ、姐さん」
シローが着地しながら笑う。額に汗が浮いていたが、目はまったく怯えていない。
大蛇が鎌首を振り回し、洞窟の壁や天井を手当たり次第にぶち壊していく。岩の破片が飛び交う中、グーグーが槍で弾き、シローが身を屈めてかわした。だがグーグーの動きにも疲労の色が見え始めていた。
「嬢ちゃんっ、後ろ!」
シローの叫びにグーグーが振り返った時には遅かった。大蛇の尾がぐるりとグーグーの胴に巻きつき、締め上げる。
グ、シュゥゥ……ッ!
大蛇が勝ち誇ったように噴気音を漏らす。
「あ、ぅぅっ……!」
グーグーの顔が苦悶に歪む。鉾槍を握ったまま腕ごと締め付けられ、骨がみしみしと軋む音が聞こえてきた。
「嬢ちゃんっ!」
シローが大蛇の尾に跳びつき、鱗の隙間に指をねじ込んで力任せにこじ開けようとする。だが二十メートルの巨体が生む締め付けに、子供の腕力で太刀打ちできるはずもない。
「――マルガネの姐さん!」
シローが叫んだ。マルガネータは迷わず煙管を構え、大蛇の尾に向かって火球を放つ。至近距離からの爆発。さすがに大蛇も嫌がったのか、ぐるりと巻いていた尾を緩めた。
その隙にグーグーが槍の柄を支点にして体をねじり、尾の拘束から抜け出す。地面に転がり落ちたグーグーは、荒い息をつきながらも即座に立ち上がる。
「っ、あっぶな……ありがと二人とも…………」
脇腹を押さえている。肋骨にヒビが入っていてもおかしくない衝撃だったはずだ。立ってはいるものの、満足に戦えるかどうか怪しいものだ。
——状況は刻一刻と悪化していく。
大蛇が吐き出した瘴気が、洞窟内に広がり始めている。紫色の霧が天井を這い、壁を伝い、じわじわと足元にまで忍び寄ってきた。触れた岩肌がじゅうじゅうと泡を吹き、ぼろぼろと崩れ落ちていく。閉鎖空間に、腐った卵と硫黄を煮詰めたような悪臭が充満し始めていた。
大蛇はゆっくりと鎌首をもたげ、赤い瞳で三人を見下ろしている。その目には、明らかな知性が感じられた。力で押し潰すのではなく、毒で嬲り殺す――獲物が弱りきるのを、ただ、じっと待っているように見えた。
……シ、ィ、ィ……シュゥゥ……
絶え間なく漏れ出す呼気が、洞窟の空気をねっとりと汚染していく。
「くっそ、あいつぅ……こっちが弱るのを待ってるみたい」
グーグーが歯噛みした。三人は高台の岩に退避しているが、それも時間の問題だった。紫の霧が足首を舐め、膝に届き、じわじわと水位を上げる洪水のように這い上がってくる。足場の岩もすでに表面がざらざらと砂のように崩れ始めていて、長くは保ちそうにない。
その時、シローがゆっくりと立ち上がった。紫の霧の向こうに目を据えて、口元だけをにやりと歪ませている。
「こんな時にアレだけどよぉ――姐さん。ワシにいっちょう賭けてみる気はねぇかい?」
マルガネータは息を呑む。あれは、やけっぱちになった人間の目じゃない。勝ち筋を見つけて、そこに自分の運命をぶっこむような瞳——一流の博徒の目を、少年に見たからだ。
次回「龍之大蛇―後編」




