38品目 霧涌き谷の鍾乳洞
土曜日の早朝。
霧涌き谷は、その名に恥じない濃霧に包まれていた。
麓の町で借りた二頭の馬を駆り、山道を登ること小一時間。ようやく鍾乳洞の入り口が見えてきた。馬を近くの木に繋ぎ、シローは背負ったリュックの紐を締め直した。
足元は苔でぬめり、一歩ごとに水音がする。木々の間から滴る水滴が、まるで小雨のように降り注いでいた。薄暗い中に浮かび上がる鍾乳洞の入り口は、巨大な獣が口を開けているようで、不気味だ。緋ノ山の時とは違い、他の冒険者の姿は一人も見えない。
リュックの中には包丁などの調理器具一式のほかに、弁当や水筒、地面に敷くシートなどが入っている。子供の体には不釣り合いな荷物だが、重心の預け方ひとつで足取りは変わる。前世で覚えた身のこなしは、体が変わっても消えはしない。
周囲を見回した。フクチヨに聞いていなければ、こんな場所に食材が眠っているとは思いもしなかっただろう。
そんな静寂の中、
「むーっ! むーっっ!!」
くぐもったうめき声が響いた。
グーグーの肩に、人ひとり分はある麻袋が担がれている。もがくたびに、中からくぐもった声が漏れた。
道中からずっと、もう一頭の馬の背にはこの麻袋が括りつけられていた麻袋だ。最初こそ静かだったものの、山道に差しかかった頃にはうめき声が止まない。シローは気づいていたが、敢えて触れなかった。訊いたところで、ろくな答えが返ってくるはずもないのだから……
「よし、降ろすよー」
グーグーが「荷物」を地面に降ろし、縄をほどいた。麻袋を取り払うと——
「むーっ!」
高く結い上げた赤い髪に、丸眼鏡――こめかみに青筋を浮かべたマルガネータの顔が、そこにあった。
(ああ、やっぱりそうかよ……)
シローは頭を抱える横で、グーグーが器用にマルガネータを拘束していた縄を解いていく。
「——でぇ?」
マルガネータは懐から煙管を取り出し、煙草を詰め始めた。その指先が、怒りで小刻みに震えている。
「なぁんであたしが、こんなとこまで連れてこられなきゃならないのか、とくと説明してもらおうじゃないのさ」
「んーとねぇ。これからあの洞窟に挑戦するんだけどさ。アタシとシローくんの二人だと、ちょーっと苦戦しそうな予感がして。お宅の子分に聞いたら、マルガネータ、今日明日は休みだって話じゃん? だから一緒にどうかなーって思ってさ」
グーグーはけろりとしたものだ。
「それで、あたしを拉致したと」
「だって普通に声かけたら、絶対断るじゃん」
「当たり前さね」
「ほらぁ。だったら仕方なくない?」
マルガネータが煙管に火をつけ、ゆっくりと一服した。紫煙を吐き出し、先を促すように顎をしゃくる。
「それに、アタシにまで盟約かけたのはそっちが先だったでしょ。だったら、これでおあいこってことで良くない?」
グーグーが両手を広げて笑う。これで話は終わりだと言わんばかりに。
マルガネータは煙管をくわえたまま、じっとグーグーを見ていた。
「……言い残すことは、それだけかい?」
声に怒気はない。ないからこそ、背筋が冷える。
シローはため息をついて、その場を離れた。何か言ったところで火に油だ。巻き込まれる前に、洞窟の様子でも見ておくにしよう。
入り口に近づくにつれ、空気が変わった。霧の湿った冷たさとは違う、地の底から這い上がってくるような冷気。鍾乳洞の奥から、かすかに水の流れる音が聞こえてくる。
シローは目を凝らすようにして、中を覗き込んだ。
入り口から差し込むわずかな光が、最初の数歩分だけを照らしている。濡れた岩肌が黒く光り、天井からは鍾乳石が牙のように垂れ下がっていた。その先は、一切の闇――松明の明かりがどこまで届くのか、想像もつかない。
奥から湿った風が吹き上げてきて、シローの前髪を揺らした。生温く、泥と苔の混じった匂いがまとわりつく。
(こいつは……思った以上に深そうなトコだなぁ)
背後で、ぶるるっ、と馬の嘶きが聞こえた。振り返ると、木に繋いだ二頭の馬が落ち着かない様子で足踏みをしている。耳を伏せ、鼻を鳴らし、洞窟の方を見ようともしない。
『龍之大蛇に出くわしたら命はねぇからな』
フクチヨの言葉が頭をよぎる。グーグーが言っていたように、出くわさないように気を引き締めなければならないだろう。
二人の方に戻ると、グーグーが地面に転がって尻を押さえていた。涙目で「うぅ、なんでアタシばっかり……」と呻いている。
マルガネータは何事もなかったかのように煙管をふかしていた。グーグーに一発お見舞いして、気が済んだのだろう。紫煙を吐き出しながら、ちらりとシローを見る。
「——ったく。ここまで来ちまったもんは仕方ないさね。あたしも食材探索に付き合ってやるよ」
マルガネータがシローの隣に並び、鍾乳洞を眺めている。赤い髪が、霧の中でゆるやかに揺れていた。
「そのかわり、美味い酒と坊やの作る肴で手を打とうじゃないか。あたしも蛍エビは喰ったことがないからね」
「任せといてくれや。美味ぇモン食わせてやっからよ」
シローはにやりと笑った。
「ほぉ、大きく出たね」
マルガネータがうっすらと笑みを浮かべると、グーグーの方へ向き直る。
グーグーがようやく立ち上がり、鉾槍を構え直した。
「ったく、いつまでチンタラしてんだい。ちゃっちゃと行くよ」
煙管でグーグーの背を小突いた。
「えぇ……まだお尻イタイのに……」
「あたしを巻き込んどいて、舐めたこと言ってんじゃないよ。ちっとは坊やを見習ったらどうだい」
シローがリュックを背負い直すと、マルガネータが煙管をくわえたまま当然のように先頭を歩き出した。「はぁい……」と尻をさすりながら、グーグーがその後をついていく。
蛍エビ——いったい、どんな味がするのだろう。
その答えを求めて、三人は鍾乳洞の闇へと足を踏み入れた。
次回「揚げサンドイッチ」




