32品目 店の名は八百善(やおぜん)
星照祭が終わって一週間。
当時の熱狂は嘘のように消え去り、エルカドの街は普段通りの喧騒を取り戻していた。グーグーたちが暮らす北門エリアの路地裏では朝から酒瓶が転がり、移民たちの荒っぽい笑い声に混じって油と煙草の匂いが漂っている。祭りの余韻など、最初からなかったかのようだ。
安息日の日曜午前。まだ人通りもまばらなこの時間、その路地裏の一角でトンカチを振るう音が響いていた。
「シローくん、これでどーお? 真っすぐになってる?」
グーグーが脚立の上から振り返る。シャツにズボンという作業着姿で、額にうっすら汗が浮いている。銀髪が朝日を弾いて、白に近い光を散らす。
「んー、まだちょい斜めってんな。もう少し右側を下げて……」
下から見上げているのは、甚兵衛によく似た異世界の装いのシローだ。朝の風に黒髪をなびかせ、眩しそうに眼を細めている。
「こんな感じー?」
脚立の上で、グーグーの尻尾がゆらゆらと揺れる。どこにそんな力があるのかと思わせる白い細腕で、大きな看板の位置を器用に調整していく。
「おう、バッチリだぜ」
看板には大きく『八百膳』の文字。筆で勢いよく書かれた字面の端っこに、ちょこんと肉球マークが添えられているのは、グーグーがこっそり描き足したご愛敬である。
「あらよっと」
グーグーは脚立から飛び降り、シローの横へと歩み寄る。二人はしばらく、完成した看板を感慨深げに見上げていた。
「しっかしよ、ワシが生前やってた店の名前なんか使わなくってもよかったんじゃねぇか……?」
シローが首をかしげながら看板を見上げる。
「いーじゃん! アタシは気に入ったんだしさ。それに――」
グーグーは後ろからシローを抱きかかえる。小さな体がすっぽりと腕の中に収まった。
「もしかしたら、シローくんみたいに転生してきた人がいたら、ウチのお店の名前をみて来てくれるかもしれないっしょ!?」
ふひっと笑うグーグーに、シローも「……そういうモンかねぇ」と苦笑する。
(明日の月曜日から、いよいよ開店だ)
看板を見上げたまま、グーグーは小さく息をつく。
店の名前、メニュー、値段、営業時間――この一週間で決めたことは山ほどある。けれどその全部の出発点は、祭りの翌日にシローが投げかけたたった一つの問いかけだった。
『面倒なことを聞くようで悪いんだがよ……この店は、誰に食わせる店なんだ?』
星照祭が終わった翌日のこと。メニュー案を広げたグーグーに、シローが開口一番そう切り出した。
『えっ……お客さんだけど?』
『いや、まあ、そりゃそうなんだがよぉ』
シローは苦笑しつつも、言葉を続ける。
『金持ちか、労働者か、冒険者か。客層が決まらなきゃ、値段も味も量も決まんねぇからよ。大事なことだから、ちゃんと考えようぜ』
ぐうの音も出ない。料理を出せばなんとかなる――そんな甘さを、たった一言で見抜かれたのだ。
そこから二人は、エルカド中の飯屋という飯屋を食べ歩くことになる。
三軒目に入った北門通りの大衆食堂で、グーグーは隣の席の石工に思い切って声をかけた。
『ねーねー、おっちゃんここよく来んの?』
『ああ? ……まあな。安いし早ぇから助かってんだ。味は――まあ、見てくれのとおりだがな』
男はそう言って、冷めたスープを黙々とすすった。木の匙がカチカチと器にぶつかる音だけが、しばらく二人の間に落ちている。
安い。早い。けれど、味には目をつぶる。――この街の労働者たちは、そうやって毎日の食事を済ませているのだ。
グーグーはその横顔をちらりと見てから、テーブルの向かいに座るシローへ視線を移す。シローは何も言わず、小さく頷いただけだった。
メニューを見比べ、客層を観察し、ときには隣の客に話しかけて――脚が棒になる頃、ようやく一つの答えが見えてくる。
『北門エリアで働く労働者たちに、安くて旨いものを手早く出すお店』――それが、八百膳のコンセプトとして定まったのだ。
客層が決まれば、あとは芋づる式だった。
労働者は平日に来る。だから営業日は平日のみ。食べる時間が限られている。だから昼と夜の二部制。二人だけで店を回すなら手数は減らすしかない。だからメニューは四種類、調理手順はルーティン化。酒で長居されると回転が落ちるため、ビールは一杯限定に――
どの判断にも理由があり、その理由はすべて「誰に食わせるか」から導き出されている。シローはそれを、たった一言で教えてくれたのだ。
――ふと我に返ると、朝日が高くなっていた。
看板の『八百膳』の文字が、金色の光を帯びている。何度も悩んで、何度もやり直したあの一週間が、この一枚の看板に結実しているのだ。
(なんだか、冒険の始まりみたいに胸のドキドキが止まんない……!)
グーグーの尻尾が、ぶんっと元気よく跳ね上がった。
◆◇◆
そして迎えた月曜日。
シローは紺の前掛けを腰に巻き、グーグーは真新しいエプロンの紐をきゅっと結ぶ。まだ糊の効いた生地が、指先にかすかにごわつく。
開店準備のために一足先に外へ出た瞬間――グーグーの足が止まった。
「てっ……てーへんだ、てーへんだよシローくんっ!」
転がり込むように店内に引き返し、シローの腕を掴んで外へ引っ張り出す。
――角の向こうまで、人、人、人。
店の前にずらりと伸びた行列を見て、グーグーは自分の目を疑った。
腕まくりした大柄な人間の男たち、もふもふの毛皮にエプロンを巻いた獣人の女、背丈ほどあるハンマーを地面に立てたドワーフ――北門エリアの朝にふさわしい、労働者たちの列だ。あちこちで雑談や欠伸が飛び交い、星照祭の記事が載った新聞を隣と覗き込んでいる者もいる。
グーグーの姿に気づいた先頭のあたりから、おお、と小さな歓声が上がる。それが波のように後ろへ伝わっていく。
「……おいおいおいおい、いくらなんでも予想外すぎんだろ、こりゃあ」
シローの頬がひくりと引きつり、小さな体がわずかに後ずさる。一方のグーグーは興奮で耳をぴんと立て、尻尾がスカートの中で暴れるのも構わず身を乗り出していた。
「ねっ? スゴイよね!? 星照祭の優勝効果ばっちりじゃないっ!?」
けれど、歓声の熱気に晒されるほど、胸の奥では別の感情がせり上がってくる。
(こんなにたくさんの人が……本当に、アタシたちだけで回せるの?)
「……こりゃあ、そうとう気合いれねぇとマズいかもしんねぇぞ、嬢ちゃん」
シローが腕を組み、行列を端から端まで見渡してから、ふっと息を吐く。目は笑っていなかったが、口元にはかすかに笑みが浮かんでいる。
グーグーは拳を握りしめた。じわりと、掌に汗がにじむ。
そのとき、先頭にいた大柄な男がぬっと一歩前に出た。
「楽しみにしてたんだ、頼むぜ店員さんよ!」
「はっ、はいっ! お待たせしましたっ!」
グーグーはぺこりと頭を下げてから、隣のシローを見た。シローは腕を組んだまま、小さく顎を引いてみせる。
言葉はいらなかった。
グーグーは深く息を吸い、店先に暖簾を掛ける。
「いらっしゃいませっ! 定食屋『八百膳』へようこそっ!!」
次回「笑顔の定食」




