31品目 君下七厨の実力
三人の審査員が、一歩を踏み出す。
ちらと視線を向ければ、ゴゴの拳が固く握りしめられているのが見えた。一方のウルスラは微動だにせず、ただ静かに微笑んでいる。
二歩目。
石畳を踏む音だけが、試しの座に響く。燭台の炎がちりちりと揺れ、三つの長い影を壁に落としている。誰もが息を殺して、その行方を見守っていた。
三歩目。
老審査員が、ある料理の前で立ち止まった。残る二人も、同じ場所に並ぶ。
――ワイングラスの前に。
「以上をもって、ウルスラさまを勝者として認め、この食饌を終了するものとする!」
「なぁ!? こりゃいったい、どういうこっちゃ!!!?」
ゴゴが血相を変えて詰め寄ってきた。石畳を蹴る荒々しい足音が広間に反響し、隣の眼鏡の中年審査員が反射的に一歩退がる。
老審査員は動じることなく、静かに告げた。
「たしかに我らは、ウルスラさまの料理を言葉にできなかった……しかし、お主が負けた理由については、明確な表現が可能なのじゃ」
残る二人も厳粛な表情で頷くと、
「「スープとしての完成度」」
三人が声を揃えて、そう言った。
眼鏡の中年審査員が腕を組み、空になった器に視線を落としながら口を開く。
「たしかに見た目や具材の華やかさだけなら、キミの料理に分があるように思える。魚介の旨みも申し分ない。だが――あくまで、それは見た目だけの話だ」
魔女の審査員が、枯れ枝のような指先で空のグラスをそっと持ち上げた。グラスの内壁にはわずかに琥珀色の膜が残っており、燭台の灯りを受けてかすかに光っている。
「お主のブイヤベースは、具材の足し算で味が構成されておる。けれどこのコンソメは、すべての食材が掛け算となって成立しておったんじゃよ。目に見える食材はトリュフだけ――それなのに、お前のブイヤベース以上に、食材の深みが怒涛の勢いで押し寄せてきおる。それがどういうことか、料理人ならわかるじゃろ?」
老審査員が深く頷き、締めくくった。
「スープ単体としての味。その完成度の差は明白じゃった。我々はこれ以上のスープに、ついぞ出会ったことがない」
「く、く、くぅ……」
ゴゴの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。額に脂汗が浮かび、体が小刻みに震え始めた。広間の空気が、ぴんと張り詰める。やがて青白い紋章が彼の体に浮かび上がり、まるで焼き印のように輝く。
――盟約はここに成就せり。
「ぐぁぁああああああ――っっっ!!」
絶叫が石壁に幾重にも反響した。ゴゴが床に崩れ落ち、冷たい石畳の上をのたうちまわる。燭台が一つ、その衝撃で台座から落ち、けたたましい金属音を広間に響かせた。守衛たちが駆け寄ろうとするが、ゴゴの体から迸る盟約の光に気圧されて足が止まる。審査員たちも思わず席から腰を浮かせていた。
しかし、その喧騒の中を縫うように、ひとつだけ静かな足音が近づいてくる。
ウルスラだった。純白の調理服を一切乱すことなく、苦悶するゴゴのそばに立ち、冷たく見下ろす。燭台の灯りが彼女の金髪を縁取り、その表情には慈悲の欠片もない。
「盟約がなされたみたいですわね。では、約束どおり洗いざらい情報を吐いてもらいますわよ」
「ぐ、ぐぅ……」
ゴゴが歯を食いしばり、もがくように身を捩る。だが紋章は容赦なく明滅を繰り返し、そのたびにゴゴの口から苦悶の声が漏れた。
(盟約に逆らおうとしているのか? なんと愚かなことを……)
老審査員が顔をしかめて敗者を見下ろす。だが、しかし――
「く、くっ、くっくっく……」
苦痛に顔を歪めながらも、ゴゴは笑い始めた。喉の奥から搾り出すような、不気味な笑い声が石造りの広間にじわりと染み渡っていく。何がおかしいのか――老審査員の背筋に、嫌な予感が走る。
「いやあ、さすがは特級厨士さまやな。この借りモンの身体じゃあ、全っ然勝負にならんかったわ、コリャ」
「……なんですって?」
ウルスラの眉がぴくりと動いた。
次の瞬間、ゴゴの体から黒い何かが染み出してきた。最初は皮膚の下を這う血管のように、次いで傷口から溢れる膿のように、まるで影が実体化したかのごときどろりとした黒い塊が、じわじわと床に広がっていく。
石畳に触れた黒い液体は、焼けた鉄に落ちた水滴のように音を立てて蒸発し、不快な臭気が広間を満たした。
後に残されたのは、ゴゴの抜け殻だった。いや、抜け殻ですらない。盟約の刻印だけが体の表面に刻まれた、男の抜け殻だ。瞳孔の開ききった目が天井を見つめたまま、ぴくりとも動かない。
「こ、これは一体……なにが起こっているんだっ!?」
眼鏡の中年審査員が椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、驚愕の声を上げた。
「警備兵っ!」
鋭い号令と同時に、重い扉が勢いよく開け放たれる。武装した兵士たちが、室内に雪崩れ込んできた。槍を構え、剣を抜いた屈強な男たちが、足早に黒い影を包囲していく。彼らの鎧が燭台の光を弾き、広間に無数の光点が散った。
同時に、やたらと筋肉質なカイゼル髭の執事が、いつの間にかウルスラの前に立っている。気配など微塵も感じなかったが――主を背に庇うその構えは、給仕人のものではない。歴戦の戦士を思わせる風格があった。
「あーあ、いったんこの作戦は終いやな。ボスに怒られてまうけど、しゃあない……今日は退散するとしよか」
黒い影から、緊張感のかけらもない声が響く。武装した兵士に囲まれていることなど、まるで意に介していない。
「逃げられると思っているのか!」
兵士の一人が叫んだ。仲間たちと呼吸を合わせ、一斉に槍を突き出す。石畳を蹴る複数の足音が重なり、穂先が黒い影めがけて殺到する。
その穂先が影に届こうとした、まさにその瞬間――
「ぎゃああああ!」
絶叫を上げて倒れたのは、兵士たちの方だった。槍を握ったまま全身を痙攣させ、白目を剥いて石畳に崩れ落ちる。金属の擦れる音と肉体が床を打つ鈍い音が連鎖し、広間に異様な静寂が訪れた。まるで見えない雷に打たれたかのような、あまりにも一方的な光景だった。
「ザコが……あんまイキがんなよクソボケがぁ」
影の声色が、一瞬だけ先ほどまでの軽薄さを脱ぎ捨てた。底冷えするような殺意が、広間の空気を塗り替える。
老審査員と魔女の審査員が、揃って息を呑んだ。
「盟約がかかっておらぬのか……?」
「いんやぁ。かかっとるよ。身代わりになってそこに倒れとる、名前もよう知らん哀れな男のほうに、やけどな」
黒い影が、意識を失い横たわる、ゴゴと呼ばれていた男をひょいと指し示す。
(まさか……他人の身体を乗っ取っておったというのか? そして盟約の代償をその身体に押しつけ、己だけ逃れおった、じゃと……?)
老審査員は言葉を失った。盟約とは、己の身命を賭して結ぶ絶対の誓約。その代償を、他者の肉体に背負わせるなど――あってはならぬ冒涜だ。魔女の審査員も信じられぬとでも言うように、何度も瞬きを繰り返している。
「……あ、そうや。ここで特級厨士を一人でも殺っとけば、今回の件、チャラになったりせぇへんかな?」
黒い影がゆらりと向きを変え、ウルスラの方を向いた。冗談めかした口調とは裏腹に、影の輪郭がわずかに膨張したように見えた。
老審査員の顔が蒼白に変わる。食饌の場でそのようなことが起これば前代未聞だ。なんとかして助けを――
「ウルスラちゃんを傷つけるつもりかい? いやいや、それこそボクがいる限り無理だから」
苦笑するような、しかし有無を言わせぬ声が、入り口の方から響いてきた。
濃緑の外套をまとった長身の男が、崩れた扉の枠に片手をかけて立っていた。金色の長髪が、背後から流れ込む外の風に優雅に揺れている。糸のように細い目に穏やかな笑みを浮かべてはいるが、彼が一歩を踏み入れた瞬間、広間の空気がざわりと震えた。倒れた兵士たちの鎧がかちゃりと鳴り、燭台の炎が一斉に大きく揺れる。
「ヲゥカ殿っ!」
審査員たちが歓喜の声を上げた。
「はぁ、はぁ……どうにかこうにか、間に合ったようっスねぇ……」
ヲゥカの後ろから、カロッシスが膝に手をつきながら現れた。息は荒く、額には汗が滲んでいる。彼女がここまでの道案内を務めてくれたのだろう。
ヲゥカがゆっくりと広間の中央へ歩を進める。その声は穏やかだったが、一歩ごとに場の空気が鎮まっていくのを老審査員は肌で感じていた。
「死幇の話を聞いたからさ。ウルスラちゃんとは別で、ボクも祭りのほうの監視に協力していたんだけど――」
その足が、不意に止まった。翡翠色の瞳が、周囲に倒れている兵士たちへ向けられる。白目を剥き、泡を吹き、四肢を不自然な角度に曲げたまま動かない男たちの様を、ヲゥカは無言で見下ろしていた。
先ほどまでの穏やかな笑みは、もうどこにもない。その奥から立ち上る底知れない気迫に、老審査員は思わず息を呑んだ。
「キミ、やり過ぎだから。覚悟しなよ?」
「――こりゃ、アカンっっっ!!!!」
ヲゥカが組んだ手の印を見て、黒い影が弾かれたように飛び退る。
「『守護する盲目の縛り手よ』!」
ヲゥカの魔法が発動した瞬間、凄まじい轟音が広間を揺るがした。何が起きたのか理解する間もなく、足元の石畳が砕け、無数の樹木の根が噴き出してくる。石の破片が四方に飛び散り、燭台がなぎ倒された。老審査員は咄嗟に頭を庇い、食卓の陰に身を伏せる。
顔を上げたときには、影が天井すれすれに跳び上がるのが辛うじて見えただけだった。
「特級厨士を二人も相手にできると思うほど、自惚れとらんわっ! 撤収じゃ、撤収っ!!」
影が弾かれたように出入り口へ走った。ヲゥカが外套を翻して、その後を石畳を蹴る音すら聞こえぬほどの速さで追跡する。二人の姿は瞬く間に扉の向こうへと消えていった。
「くっ! このような事態が起ころうとは、なんということだ……!」
眼鏡の中年審査員が扉の外へ走り出し、廊下に向かって大声で指示を飛ばし始める。かろうじて意識のある兵士たちが、よろめきながらも仲間の介抱に動き、別の一隊が意識を失ったゴゴの抜け殻を取り囲んで拘束を進めていた。
つい先ほどまで食饌の厳かな空気に満ちていた試しの座は、見る影もなく荒れ果てていた。砕けた石畳、なぎ倒された燭台、床を這う樹木の根。その中で老審査員がゆっくりとウルスラに歩み寄る。
「ウルスラさま、お怪我は……?」
「いえ、ワタクシは別に。それよりも――」
ウルスラは踵を返し、まだ湯気の立ち上るゴゴのブイヤベースを指差した。戦闘の混乱の中でも倒れなかった土鍋が、ことの顛末など知らぬとばかりに静かに佇んでいる。蓋の隙間からは、香ばしい魚介の匂いがかすかに漂っていた。
「こちらの魚介類は、あの方が持ち込んだモノ、という認識でよろしくて?」
「え? ええ、はい。それはそうですが……」
老審査員は、はっとした。エルカドは今、空前の海鮮不足に陥っている。にもかかわらず、あの男はこれだけの魚介を、どのようにして調達してみせたのだろう?
「この食材の出どころを調べよ! きゃつめが潜伏していた場所がわかるかもしれんっ!!」
「はっ!」
駆けつけたギルドの職員が、土鍋を慎重に、しかし急いた足取りで抱え上げ、広間を後にしていった。
その背中を見送りながら、老審査員は重い息を吐いた。傍らでは魔女の審査員が、床に残った黒い染みを険しい目で見下ろしている。
「死幇め。今度はなにを企んでいるのじゃ――」
砕けた石畳と樹木の根が散乱する試しの座に、不穏な沈黙だけが、いつまでも居座り続けていた。
キリがいいところで告知です。
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第三章【新装開店編】開幕! 次回「店の名は八百善」




