30品目 無垢なるコンソメ、星の記憶
「これぞワイ自慢の一品――『和風だしの味噌ブイヤベース』じゃい!!」
ゴゴが勢いよく蓋を取ると、土鍋から白い湯気が噴き上がった。
「むぅ、これは……」
老審査員が思わず目を見開く。隣では魔女の審査員が鼻をひくつかせ、眼鏡の中年審査員はレンズの奥で瞳を鋭く光らせていた。
薄茶色のスープの表面に、艶やかな油が虹色に光っている。中央には銀色に輝く魚の切り身が鎮座し、その周囲を貝類が花びらのように取り囲んでいた。
立ち上る湯気と共に、磯の香りと味噌の深い匂いが鼻腔をくすぐっていく。
「味噌仕立てのブイヤベースとは、なんと珍妙な……」
眼鏡の中年審査員が眉をひそめながら、ぽつりと呟いた。
「一般的に、ブイヤベースは使用して良い食材、使用してはならない食材が定められている。この料理にはそれらの配慮がいっさい欠けていて、伝統に対する敬意の欠片すら感じられない……と苦言を申し上げたいところだが――」
「この食欲を刺激する香り……ふぇっふぇっふぇっ! たまらんのぉ」
魔女の審査員が、陶然と瞼を閉じて深く息を吸い込んだ。思わず喉が鳴る。二人の審査員も同じらしく、ごくり、という音が小さく響いた。
「ま、まぁ、暖かいうちにいただくとしようか」
咳払いをして、銀のスプーンを手に取る。そして、口に運んだ瞬間――
(――っ!?)
全身がびくりと震えた。思わず目を閉じ、深く、深く息を吐く。この味は……
「むぅ……見事なものじゃのう」
静かな声だったが、その一言が場の空気を一変させる。
「西洋のブイヤベースに、昆布と……これは鯨節か? それらの出汁を合わせるとは、なんたる冒険心に溢れた一皿か。一見すると暴挙に見えるものの……魚介の旨味を、和の出汁が優しく包み込んでおる。味噌がまた絶妙じゃな。コクを与えながら、全体をまとめ上げておるわい」
魔女の審査員がスプーンを握ったまま、しばし放心したように宙を見つめていた。やがてゆるゆると首を振ると、
「いや、これはたまらんのぉ……貝類の処理が見事じゃわい。砂抜きはもちろん、火入れの加減がいい塩梅じゃて。固くなりがちな貝を、ぷりぷりの食感に仕上げておる」
眼鏡の中年審査員が、スプーンを口元に留めたまま動きを止める。認めたくないという感情と、認めざるを得ない現実の狭間で揺れているようだった。
「……白ワインのアルコールを飛ばす際に、一瞬強火にしたな? それがコクと香ばしさを生み出している。認めたくはないが……これは、このブイヤベースの味わいは本物だ」
しばらくの沈黙の後、魔女の審査員が不思議そうに小首を傾げた。
「のぅ、おかしいと思わんかえ? 食べるほど食欲が身体の奥底から湧き上がってくるような、この不思議な感覚――どうしてじゃろう?」
「うむ。それはコイツのせいじゃろうな」
老審査員は髭を撫でながら、箸で何かをつまみ上げた。くたくたに煮込まれた黄色い皮のようなものが、ふるふると揺れている。
「それは……柚子?」
眼鏡の中年審査員が、目を細めてぽつりと呟く。
「それよ。ブイヤベースには、一般的に香辛料としてサフランが入れられる。それによって風味とコクが豊かになるが……今日のような熱い日には、クドく感じることもあるじゃろうて」
「なるほどのぉ、サフラン代わりに柚子の皮を入れて、さっぱりした後味にしたというわけかえ。そりゃいくらでも食えると腹が勘違いしてしまうものよ」
魔女の審査員が得心したように何度も頷きながらスプーンを置く。三人は顔を見合わせ、小さく頷き合った。
「では、次はウルスラさまの料理を――」
ウルスラは余裕たっぷりの微笑みを浮かべたまま、優雅に歩み寄る。音もなく空のワイングラスを三人の前に並べると、鍋から掬った黄金色の液体を、ゆっくりと注いでいった。
次の瞬間、石造りの部屋全体の空気を塗り替えるように、かぐわしい香りが広がっていく。
「おおっ! これはっ……!!」
思わず声をあげた老審査員に向かって、ウルスラが恭しく一礼する。
「『無垢なるコンソメ、星の記憶』でございますわ。ワインを嗜むように、グラスに直接口をつけて、まずは一口だけお召し上がりくださいませ」
老審査員はグラスを手に取り、じっくりとスープを観察した。透明な黄金色の液体が、照明を受けてきらきらと輝いている。傾けると、とろみはほとんどなく、どこまでも澄みきっていた。
「コンソメは出汁を取る段階から含めると、丸二日かかることも珍しくはない。それをたった一時間で調理しきるとは……かくも全属性調理とは優れたものですなぁ」
眼鏡の中年審査員が感嘆の声を上げる。しかし、わずかに眉根が寄るのを抑えきれていない。隣の魔女の審査員も同様のようだ。
そう――確かに美しい。だが、見た目は普通のコンソメとさほど変わらない。器がワイングラスになっただけで、特別な何かがあるような雰囲気が、このスープからは感じられないのだ。
(いや、しかし……ウルスラさまがただのコンソメを出すとは考えられぬ……)
「では、いただきましょうか」
眼鏡の審査員が口をつけたのを見て、老審査員もグラスに唇を寄せた。澄み切った味わいが舌の上を滑っていき――
(こ、これは……!?)
三人が三人とも、狼狽したような表情を浮かべた。確かに美味い。だが正直なところ、先ほどのブイヤベースの衝撃と比べると、物足りなさが否めなかった。隣を窺えば、二人の審査員も言葉を探すように口を閉ざしている。
その様子を見て、ゴゴがにやにやと薄ら笑いを浮かべていた。
「い、いや、もう一口だけ……」
眼鏡の中年審査員が二口目を飲もうとした瞬間――
「お待ちくださいませ」
ウルスラの凛とした声が、試しの座に響き渡る。
「この料理の名前は『無垢なるコンソメ、星の記憶』――まだそのスープには、星が舞い降りておりませんわ」
突然、グラスの上に小さな旋風が起こった。風魔法だろうか、なにか茶色い薄片がひらりひらりとスープの上へ舞い落ちていく。
「これは……」
「トリュフかえ?」
魔女の審査員が驚いたようにグラスを覗き込む。黒トリュフの薄片が、スープの表面に浮かび、ゆらゆらと沈んでいった。
「さあ、これでそのスープは完成を迎えましたわ……どうぞ、ご賞味あれ」
ウルスラの声に、絶対の自信が滲んでいる。眼鏡の中年審査員が怪訝そうに眉を寄せていた。トリュフを一枚浮かべただけで、先ほどの凡庸な味わいが変わるとでもいうのか、とその表情が語っている。
老審査員も半信半疑のまま、グラスへ口をつけた。
「なぁっ……!?」
「ほぉぉ……!」
「な、なんということだ………………!!」
一口で、世界が変わった。旨味が幾重にも押し寄せ、遠い記憶の底に沈み込んでいくような酩酊感に囚われ――気づけば、グラスの中は既にカラになっている。
隣の二人も、グラスはとうにカラだった。魔女の審査員は両手でグラスを包み込んだまま、一滴でも残っていないかとその縁に唇を押しつけている。眼鏡の中年審査員は、レンズの奥で目を見開いたまま微動だにしない。
「……もしもーし? なんやねん、アンタら。なんか反応しいや」
ゴゴが苛立ったように調理台をバンバンと叩く。
「これは、奇跡か――?」
ゴゴの声に引き戻されるように、老審査員は思わず呟いた。
「驚いた……なんじゃ、この力強くも濃厚な、えもいえぬ美味は…………」
言葉を失い、ただ茫然と、中身のないグラスを見つめることしかできない。
「まったく……さっきまでの物足りなさが嘘のようじゃのぉ。舌の上で、旨味の層が幾重にも重なって、溶けて、また広がって……こんなもの、口にしたことがないわい」
うっとりと語る魔女の審査員の言葉に、眼鏡の審査員が相槌を打つ。
「鼻腔に抜ける香りが、いつまでも消えない。飲み干したはずなのに、まだ口の中で味が育ち続けているみたいだ……悔しいが、私の語彙では、とてもこの味は表現できない……」
三人とゴゴの視線が、一斉にウルスラへ向けられた。彼女はいたずらっぽく微笑むと、おもむろに口を開く。
「コンソメスープの理想的な温度は、60℃から70℃と言われております。ワイングラスで給仕したのは、すぐ冷めるから――そう、アツアツの状態から適温まで、ほんの一口ぶんの時間で一気にスープの温度が下がるのです」
ウルスラは身を乗り出し、情熱的に語り続けた。そして黒い塊を手に取って見せる。
「黒トリュフは加熱すると香りがより引き立つのはご存じのとおり。その温度は60から70℃――コンソメスープの理想的な温度と同じです。この二つの結合が、ワタクシの料理を新たなベクトルへと進化させたのですわ」
ゴゴが半信半疑といった眼差しで審査員たちを睥睨し、鼻を鳴らした。
「そりゃけったいなこっちゃ。お上品すぎてワイには味の想像もできひんわ」
ぎらついた目で審査員たちを睨みつける。
「おう、爺さま方……試食が終わったなら判定や。とっととこんな茶番、終わらせようやないかい」
「むぅ、そうじゃな……」
頷き合い、三人の審査員が立ち上がった。
「では、より優れていたと思う料理の皿の前に、進み出よ」
老審査員が厳かに告げると、隣の二人がゆっくりと歩み出す。その表情からは、何も読み取ることができない。
ゴゴの目が鋭く光った。和帽子の下から覗く視線は、獲物を狙う獣のように鋭い。一方、ウルスラは涼しい顔で微笑んだまま、まるで結果が見えているかのような余裕を見せている。
静寂が場を支配する。誰も息をするのすら憚られるような、張り詰めた空気が石造りの部屋を満たしていた。
裏社会の料理人が、特級厨士を喰らうのか。それとも君下七厨の誇りが、闇を退けるのか――答えは、もう胸の内に決まっていた。
審査員たちが、一歩を踏み出した先は――
次回「君下七厨の実力」




