後日談 『栄光』の残骸と、確率に見放された者たちの末路
「……あ、が……っ」
意識が浮上すると同時に、全身を焼かれるような激痛が脳髄を駆け巡った。
いや、焼かれているのではない。
凍っているのだ。
極限まで冷やされた神経が、熱さと痛さを誤認して信号を送っている。
勇者アレクは、朦朧とする視界の中で、自分の右手がどす黒く変色していることに気づいた。
感覚がない。指を動かそうとしても、ピクリとも反応しない。
まるで他人の腕のようだ。
「はっ、はぁっ……生きて、るのか……?」
喉から漏れたのは、枯れたヒューという音だけ。
ここはダンジョンの最奥、『氷雪山脈』のドラゴンの巣。
先ほどまで、俺たちはあの三つ首の怪物にブレスを浴びせられていたはずだ。
記憶がフラッシュバックする。
カイルの冷酷な目。
俺たちを見捨てて転移していく光。
そして、視界を覆い尽くした絶対零度の白。
(カイル……っ、あの野郎……!)
怒りで身を起こそうとしたが、激痛で悲鳴を上げて崩れ落ちた。
周囲を見渡すと、そこは地獄絵図だった。
かつて美しい白壁だった洞窟は、ブレスによって削り取られ、いびつな氷の回廊と化している。
その片隅に、ボロ雑巾のような塊が転がっていた。
「……マリア?」
アレクは這いつくばりながら、聖女だったものに近づく。
美しい金髪は凍りついてバリバリに折れ、自慢だった白磁の肌は凍傷で紫色に腫れ上がっている。
彼女はうわ言のように何かを呟きながら、ガタガタと震えていた。
「さむい……いや……私の顔、が……ドレスが……」
「おい、しっかりしろ! 回復魔法だ! 早く俺を治せ!」
アレクはマリアの肩を揺さぶる。
だが、マリアは虚ろな目でアレクを見返しただけだった。
「魔力が……ないの……。回路が、凍って……」
「役立たずがッ!」
アレクは彼女を突き飛ばした。
横を見ると、重戦士ガストンが仰向けに倒れている。
彼の左腕は肩から先がなく、断面は綺麗に凍結していた。出血していないのが唯一の救いか。
魔導師のリリアは岩陰で膝を抱え、ブツブツと意味不明な数式を唱えている。精神が崩壊したのかもしれない。
「なんでだ……なんで俺たちがこんな目に……」
アレクは折れた聖剣の柄を握りしめ、慟哭した。
俺たちは選ばれた勇者パーティだぞ。
王国の期待を一身に背負い、富も名声も全て手に入れていたはずだ。
それが、たった数時間。
カイルという「お荷物」を捨てただけで、全てが崩れ去った。
「違う……俺たちのせいじゃない……。全部あいつのせいだ……。あいつが呪いをかけやがったんだ……!」
そう思い込まなければ、精神が保てなかった。
自分たちの無能さを認めてしまえば、その瞬間に心が死んでしまう。
アレクは残った左手で地面を掻きむしり、立ち上がった。
「帰るぞ……! 生きて帰って、あいつを告発してやる……! 勇者殺害未遂の罪で、極刑にしてやる……!」
その執念だけが、彼を動かしていた。
だが、彼はまだ理解していなかった。
ここからの帰り道こそが、本当の地獄であることを。
カイルの【確率操作】という守護を失った彼らにとって、ダンジョンはただの「処刑場」でしかないということを。
◇
「ひっ、うわあああっ!?」
帰り道。
Sランクパーティだった頃なら鼻歌交じりで倒していたであろう『アイスウルフ』の群れに遭遇した時、アレクたちの連携は無惨なほど機能しなかった。
「ガストン! 前に出ろ! 盾だろ!」
「無理だっつってんだろ! 片腕がねえんだよ! バランスが取れねえ!」
ガストンが涙と鼻水を垂れ流しながら逃げ惑う。
隻腕となった重戦士に、以前のような鉄壁の防御などできるはずもない。
ウルフの一匹が彼の足に噛みつき、そのまま雪原に引きずり倒した。
「ギャアアアッ! 助けてくれ! アレク! マリア!」
「くっ、離せ! こっちに来るな!」
アレクはガストンを見捨て、反対方向へ走った。
助ける余裕などない。
武器は折れた聖剣だけ。防具は半壊。ポーションも食料もない。
かつてカイルが常に用意していた「緊急離脱用の煙玉」も、「魔物除けの香」も、今の彼らは持っていないのだ。
「いやあああ! 私の足が! 足がぁぁっ!」
背後でマリアの悲鳴が聞こえる。
ウルフに襲われたのか、それとも凍傷が悪化して動けなくなったのか。
アレクは振り返らなかった。
仲間? 絆?
そんなものは、余裕がある時にだけ交わされる綺麗事だ。
自分が生き残るかどうかの瀬戸際で、足手まといを抱える義理はない。
(俺は勇者だ……俺だけは生き残らなきゃならないんだ……!)
アレクは必死に足を動かす。
だが、ダンジョンの構造は無慈悲だ。
カイルがいた頃は、なぜかいつも「最短ルート」を選べていた。
分かれ道で迷っても、カイルが「こっちの風が暖かい気がする」と言えば、それが正解だった。
今はどうだ。
進めど進めど、同じような氷の壁。
行き止まり。トラップ。モンスターの巣窟。
1/2の選択肢を外す確率は50%のはずなのに、まるで100%の確率で「ハズレ」を引き続けているような感覚。
「はぁ、はぁ……喉が、渇いた……」
数時間の逃走の末、アレクは壁にもたれかかった。
喉が張り付き、呼吸をするたびに肺が痛む。
水が欲しい。
カイルがいれば、適温に調整された水筒を差し出してくれただろう。
腹が減った。
カイルがいれば、栄養価の高い携帯食料を管理していただろう。
「……あいつ、こんな重い荷物を持って、戦況も見ながら、全部やってたのか?」
ふと、そんな思考が過る。
アレクたちが剣を振るうだけで良かったのは、カイルがそれ以外の「生存に必要な全て」を肩代わりしていたからだ。
戦闘中の不自然なほどの幸運も、野営時の快適さも。
それらは「当たり前」じゃなかった。
「……うるさい、うるさい!」
アレクは頭を振って思考を打ち消した。
認めるな。認めるわけにはいかない。
あいつはただの荷物持ちだ。俺たちに寄生していただけのゴミだ。
「俺は……帰るんだ……!」
奇跡的に――あるいは、カイルが気まぐれに設定した「生きて地獄を味わう確率」が機能したのか――アレクは出口の光を目にした。
仲間たちはもういない。
ガストンはウルフの餌食になり、マリアとリリアは寒さと疲労で脱落し、雪の中に埋もれていった。
Sランクパーティ『栄光の剣』。
その最後の生き残りは、ボロボロの浮浪者のような姿で、這うようにしてダンジョンを抜け出した。
◇
王都へ辿り着いたのは、それから二日後のことだった。
通りがかる馬車に土下座をして乗せてもらい、なんとか城門をくぐったアレク。
その姿にかつての栄光はない。
凍傷で黒ずんだ顔、異臭を放つボロ布、折れた剣。
誰も彼を「英雄アレク」だとは認識しなかった。
「……ギルドだ。ギルドに行けば、治療も受けられる。金もあるはずだ」
アレクはふらつく足取りで冒険者ギルドへ向かった。
パーティの共有資産はギルドの口座にある。
それを使って最高級の治療を受ければ、腕も治るかもしれない。
そして、カイルを指名手配してやる。
ギルドの扉を開けると、いつもの喧騒が広がっていた。
冒険者たちが酒を飲み、依頼の話で盛り上がっている。
その活気が、今のアレクには眩しすぎて、吐き気を催した。
「お、おい! 受付! 俺だ、勇者アレクだ!」
カウンターにしがみつき、掠れた声で叫ぶ。
受付嬢が怪訝な顔で眉をひそめた。
「あの……どちら様でしょうか? 浮浪者の方の立ち入りはご遠慮いただいて……」
「ふざけるな! 俺だよ! 『栄光の剣』のアレクだ!」
アレクがギルドカードを叩きつける。
泥と血にまみれたカードだが、魔力認証で名前が表示されると、受付嬢は息を呑んだ。
「ほ、本当だ……。えっ、でも、その怪我……他の皆さんは?」
「……全滅した。俺だけが帰ってきた」
「ぜ、全滅!? Sランクパーティが!?」
ざわっ、とギルド内が静まり返る。
冒険者たちの視線がアレクに集中する。
そこに含まれているのは、称賛ではない。疑惑と、軽蔑と、憐憫だ。
「最強」を自称しておきながら、仲間を見捨てて一人だけ逃げ帰ってきた無様な元勇者。
「と、とりあえず治療を……ポーションをくれ! 金ならある!」
「あ、はい、確認します。……えっと、アレク様」
受付嬢が端末を操作し、困惑した顔で告げた。
「口座の残高ですが……ございません」
「は……?」
「正確には、違約金と借金の相殺でマイナスになっています」
「な、何言ってんだ!? 俺たちは億単位の金を稼いでたはずだろ!」
アレクは食って掛かるが、受付嬢は冷ややかに説明した。
「先日、パーティメンバーのカイル様が脱退手続きをされた際に、彼個人の資産と、これまでの未払い報酬の精算が行われました。カイル様は『自分への報酬は一切支払われていなかったため、過去に遡って正当な分配額を請求する』との契約魔法を行使されまして……」
「なっ……!」
「さらに、カイル様が管理されていた装備品のメンテナンス費用、ポーション代、消耗品費……これら全てカイル様の私費で立て替えられていたことが判明しました。それらの請求が一度に来ましたので、パーティ口座は凍結、さらに装備の破損による依頼失敗の違約金も加算されまして……」
目の前が真っ暗になった。
カイルのやつ、金まで管理していたのか。
いや、違う。俺たちが「雑用係に金なんてやる必要ねえ」と言って、全ての経費をあいつに押し付けていたのだ。
それが、法的な手続きと契約魔法によって、完璧な形で跳ね返ってきた。
「じゃあ、俺は……一文無しなのか?」
「はい。さらに多額の負債がございます。治療を受けるなら、まずはその返済計画を……」
「うわあああああああっ!!」
アレクは叫び声を上げ、ギルドを飛び出した。
もう聞きたくない。現実を見たくない。
金もない。名誉もない。体も動かない。
あるのは借金と、仲間を見捨てたという汚名だけ。
通りをふらふらと歩く。
人々が彼を避けて通る。
「おい、あれ見ろよ」「アレクじゃね?」「嘘だろ、あんな乞食みたいなのが?」「仲間を見捨てて逃げたって噂だぜ」「最低だな」
ひそひそ話が、鋭利なナイフのように心を抉る。
その時、広場の方から歓声が上がった。
号外を配る少年の声が響く。
「号外ーっ! 号外だよー! 新星パーティ『フォルトゥナ』、大金星!」
「たった二人でドラゴンを討伐! 伝説の『竜帝の心臓』に加え、神話級の魔導書も発見!」
「救国の英雄カイル様と、美しき剣姫セルエラ様! ギルド史上最速のSランク昇格決定ー!」
アレクは立ち止まり、震える手で舞ってきた号外を拾い上げた。
そこには、魔法写真で鮮明に写された二人の姿があった。
純白のコートを纏い、自信に満ちた笑みを浮かべるカイル。
その隣で、幸せそうに微笑む銀髪の美少女。
あまりにも眩しかった。
俺が欲しかったもの。俺が持っていたはずのもの。
それが全て、あいつの手の中にあった。
「……あ、あぁ……」
アレクの目から、涙が溢れ出した。
怒りではない。悔しさですらない。
ただただ、喪失感だけが胸を埋め尽くす。
俺が捨てたのは、「ゴミ」じゃなかった。
俺たちの栄光そのものだったのだ。
あいつがいなければ、俺はただの、剣を振り回すだけの傲慢なガキでしかなかった。
それを認めたくなくて、あいつを追放し、結果として自分自身を地獄へ突き落とした。
「戻りたい……あの頃に……」
昨日の朝。
宿屋でカイルが淹れてくれたコーヒーを飲み、「今日はドラゴン狩りだ!」と笑っていたあの時間に。
カイルに「お前は後ろで見てろ」と偉そうに言っていた、あの瞬間に。
もし、あそこで「いつもありがとう」と一言でも言えていたら。
もし、報酬をまともに分けていたら。
俺は今頃、この号外の隣に写って、世界中から称賛されていたはずなのに。
「うっ、うぐっ……あぁぁぁぁぁっ!!」
路地裏のゴミ捨て場で、元勇者は膝を抱えて泣き崩れた。
凍傷で壊死した右手が、ズキズキと痛む。
この痛みは一生消えないだろう。
身体の傷も、心の傷も。
降り出した雪が、アレクの背中に冷たく積もっていく。
かつては「氷雪の覇者」と呼ばれた男が、今はただの雪に凍えている。
誰も彼を助けない。
誰も彼に手を差し伸べない。
彼の「幸運値」は、カイルに見放されたあの瞬間から、永遠にゼロのままなのだから。




