文化祭での腕相撲
1.
琴錦大学附属の中高一貫共学校に通う高校3年生・小林由紀子は、クラスの有志による文化祭委員に加わっていた。
別段深い理由があったわけではない。
密かに想いを寄せる同じクラスのテニス部員、滝沢明が文化祭委員だったからだ。
由紀子は彼に気持ちを伝えたことはないが、よくテニス部の練習を見に行っていた。
その逞しい腕や脚を見るたびに胸が高鳴り、眠れぬ夜を過ごしたこともある。
いつかは彼に愛の告白をするつもりでいたが、その勇気はまだなかった。
この学校の文化祭は評判が良く、琴錦大学附属というブランドもあって来場者が多い。
附属校でありながら、琴錦大への推薦はもちろん、他大学への推薦枠も充実しており、受験指導にも定評がある。
文化祭は九月の土日に開催され、同時に学校説明会も行われる。
学校にとっては、翌年度の受験生を集める絶好の機会なのだ。
2日間も文化祭を開くのは、説明会を重視しているからである。
主に生徒会委員が担当し、教師から綿密な指導を受けていた。
琴錦大附属というと、低く見られがちだが、他大学への進学者も多く、学校説明会は極めて重要である。
文化祭では、文化系のクラブ活動だけでなく、クラス単位の催し物が盛んなのはそのためだ。
由紀子もクラスの催しに参加していた。
滝沢はテニス部員でありながら、クラスの催しにも加わっていた。
運動部員は通常、クラスの催しには関わらず、土日は休養に充てるものだ。
それにもかかわらず、滝沢は積極的に参加したので、リーダーに選ばれていた。
20人ほどの有志が集まり、まずは催しの内容を決める話し合いが始まった。
滝沢は「いろんなゲームをお客さんに体験してもらい、得点の合計で賞品を出す」という案を強く主張した。
賞品は家庭から持ち寄ったガラクタ、ハンカチでもタオルでもボールペンでも構わない。
賞品についてはすぐに話がまとまった。
次にゲームの内容を話し合っていると、滝沢がなぜか「腕相撲」を提案した。
「腕相撲なんて、高校生の方が普通は強いんじゃない?」と由紀子が訊いた。
「そうだね。特に俺みたいに鍛えてるとね。でも、対戦相手はお客さんに選ばせたらいい。男子に勝ったら点数を多くするとかして」
「でも、怪我させないかしら?」
「大丈夫。みんなも加減してやれよ。怪我をさせるな」
滝沢は他の男子にそういうと、なぜか由紀子を見つめた。
「じゃあ小林さんは、腕相撲の担当でいい?」
憧れの滝沢に指名され、断れるはずがなかった。
帰宅部の彼女にとって、文化祭こそ唯一の活躍の場である。
こうして、由紀子は腕相撲の担当となった。
打ち合わせはあっさりと終わり、準備は順調に進んでいった。
2.
文化祭当日。
由紀子が担当席に座っていると、さっそく妙な中年のおっさんが現れた。
年の頃は四十代後半か五十代前半。
坊主頭に日焼けした肌、半袖シャツから伸びる腕は太く、男子生徒にも勝てそうな体格である。
「腕相撲は男に勝つと得点が高いんですけど、怪我するかもしれませんよ。俺なんかテニスで鍛えてるから、すごい力で」
滝沢がそう言って、男に笑いかけた。
自分で怪我させないようにって言ってたのに、なんだか変だと思いながらも、おっさんは由紀子と対戦することになった。
机の向こう側におっさんが座り、二人は右肘を机につき、手のひらを合わせる。
滝沢がその手を両手で包み、中心に位置を調整してから声をかけた。
「よーい、始め!」
由紀子は力を込めた。
おっさんの腕はびくともしない。
おっさんはわざと力を抜いたり戻したりして、勝負を長引かせているようにも見える。
やがて由紀子は力尽き、おっさんの手を支える力もなくなり、ぺたりと負けてしまった。
おっさんは勝負が終わると何も言わずに立ち去り、滝沢もその後を追った。
不審に思った由紀子は、二人を追いかけた。
廊下の角を曲がった瞬間、彼女は愕然とした。
なんと滝沢がおっさんから小遣いを受け取っているではないか。
「よかったぜ、女子高生の手の感触は。しかも可愛い子じゃないか。興奮したぜ。よくあんな可愛い子に腕相撲をさせることができたな?」
「俺のテニスの練習を見に来ているので、気があるんじゃないかと思ってました」
「お前はあの子のことをどう思っているんだ?」
「俺の本命はもっと可愛いから、あの子はキープってとこです」
「それでいい。恋愛も駆け引きが大事だからな。これで俺もすっきりできる」
おっさんのズボンは、はち切れんばかりに膨らんでいた。
滝沢が戻ろうとしたところで、由紀子と鉢合わせになった。
「あっ」と彼は叫んだ。
「そういうことだったの・・・」
由紀子は、いささか怒気をはらんだ口調で言った。
「いいじゃないか、腕相撲ぐらい」
「あなたとあの人は、どういう関係なのよ?」
「俺の叔父貴。まだ独身なんだ」
「あなたの本命って、誰よ?」
「そんなこと、お前に言う必要ないだろ」
「言わないなら、さっきのこと全部、先生に言うわよ。これって完全なセクハラじゃない」
滝沢は顔をこわばらせた。
琴錦大への推薦が取り消されれば、受験するにしても全然、準備してない。
おそらく、琴錦大よりもっと下の大学に行くことになるだろう。
仕方なく本命を言った。
「生徒会長の広田久美子さ」
「ふ〜ん。そうだったの。でも広田さんは、あなたには難しいと思うわよ」
「何でだよ?」
「広田さんは他大学の志望なんじゃないかしら。それに、競争率も高いわよ。わたしは琴錦大に推薦で行くし、あなたもそうなんでしょ。わたしと付き合ってくれるなら、さっきのことは黙っておいてあげてもいいわ」
滝沢はしばらく考え込んでから言った。
「わかった。お前と付き合う。だから先生には言わないでくれ」
「ありがとう。じゃあ、腕相撲の係はあなたがやってね。あなたが言い出したんだし」
彼は担当を交代し、子ども相手にわざと負けたり、形だけの腕相撲を続けた。
それがまた文化祭に適したことでもあった。
文化祭は盛況のうちに終わった。
3.
数日後、由紀子が誘ってきた。
「今度の日曜、カラオケでもどう?」
「わかった。どこの店?」
「うちの近くの新しい店。午後三時、豚皮駅前で」
待ち合わせ場所に現れた由紀子は、嬉しそうだった。
二人はそのままカラオケ店へ向かった。
由紀子は流行の曲を次々と歌い、滝沢も負けじと数曲を披露した。
喉が渇いて麦茶を飲もうとしたとき、由紀子がバッグからウィスキーの瓶を取り出した。
「ちょっと待て、それはまずいだろ」
「少しくらい平気よ」
彼女は麦茶にウイスキーを数滴垂らし、ストローで混ぜて飲んだ。
滝沢も試しに口をつける。
意外と飲みやすい。
由紀子の頬がほんのり赤くなっていた。
やがて彼女は身を寄せてきた。
「キスして」
戸惑いながらも、滝沢は軽く唇を重ねたが、由紀子は離れない。
舌が触れ合い、彼の身体が熱を帯びる。
由紀子は腕を絡め、胸の感触が伝わった。
滝沢は押し返し、ようやく距離を取った。
「どうだった?わたしの味は」
「よかったよ」
「好き。あなたが好き」
「おれも、由紀子が好きだ」
カラオケを出ると、夜の空気が少しひんやりしていた。
ビルの隙間から吹き抜ける風に、歌いすぎた喉が気持ちよく冷やされる。
「外、けっこう涼しいね」
「うん。中が暑かったから余計にそう感じるのかも」
二人は笑いながら歩き出し、自然と手を繋いだ。
街の明かりが歩道に反射して、二人の影が寄り添うように伸びていく。
「今日、楽しかったわね」
「うん。思ったより、あっという間だった」
「また行こうよ、次はもっと点数勝負で」
「いいよ、負けないけど」
そんな他愛もない会話をしながら、駅前の明かりが見えてきた。
改札の手前で、二人は立ち止まる。
「じゃあ、ここで」
「うん。気をつけて」
滝沢は軽く手を振って、改札を抜けていった。
4.
滝沢は悩んでいた。
由紀子に弱みを握られたまま交際を続け、カラオケでは酒の上とはいえ、キスしてしまい、さらに「好き」と口にしてしまった。
本命だった広田久美子をどうするか。
もし告白して受け入れられたら、由紀子が黙っているはずがない。
文化祭でのセクハラを教師に告げ口するに違いない。
それで琴錦大学への推薦は取り消され、受験してもっと下の大学に行く羽目になるだろう。
それ以来、由紀子は毎週のように電話をかけて、デートに誘ってくるようになった。
滝沢の家でも、「彼女ができたのか」と両親に嬉しそうな気配が感じられた。
クラスでは、由紀子が滝沢の彼女であることを知らないものはいなくなった。
そんなある日、廊下で生徒会長の広田久美子が2年生の男子を叱りつけているのを滝沢は目撃した。
「何よ、この書類!間違いだらけじゃないの!」
そう言って書類の束を相手の頭に叩きつけていた。
久美子は性格が悪いのだ。
家に帰ると、スマホに保存していた広田久美子の写真をすべて消去した。
5.
3年生は3学期の期末試験はない。
推薦は1年から3年までの成績と、2・3年が年に2回受ける重要科目の学力試験の成績を総合して決める仕組みになっている。
2月のその日は、琴錦大学への推薦が発表されるだけであった。
滝沢は希望通り琴錦大経済学部へ、由紀子も希望通り琴錦大学文学部英文科へ推薦された。
他大学への推薦もあるが、それはクラスでは発表しない。
その日はそれで終わりである。
進路の決まっていない受験組が残っているので、教師はまだ気を抜けないようだ。
「今日は早く終わったし、映画でも観に行かない?」
「そうだな」
映画館の暗がりで、いつものように由紀子が身体を寄せてきた。
キスするだけでなく、由紀子は滝沢の足の上に手を乗せてきた。
彼はそっと押し留めた。
上映が終わり、外へ出ると裏通りに出た。
バーやラブホテルが並ぶ汚い道である。
由紀子が突然立ち止まった。
「ホテルに入りましょう」
「なんだって?」
「あなたの赤ちゃんが欲しいのよ」
「いくらなんでも早すぎるだろ。お前、頭は大丈夫か?」
「そうじゃないの。文化祭のセクハラで、あなたはわたしに逆らえなかった。でも、それがもう関係なくなったから、あなたに捨てられるのが怖くなったのよ」
滝沢は吹き出した。
「何がおかしいのよ?」
「広田久美子は、とっくに見捨てた。性格が悪いからな」
「性格が?」
「2年の男子を書類で殴ってるのを見た。あの女は駄目だと思った」
「じゃあ、わたしはもうキープじゃないのね」
「そうだ。お前はもうキープなんかじゃない。これからも付き合ってくれ。俺のほうから頼む」
「嬉しい、滝沢くん」
「明でいいよ」
「うん、明」
夕陽が二人の背中を押していた。




