第四章① 紅の鷲(上)
「困ったわね。いよいよあたしたち、手をこまねいて見てるしかなくなったわよ。ミフェルが襲われるわ」
リディアが眉根を寄せた。
「しっ! アルヴィナに聞かれたらまずいって」
グレイは立てた人差し指を唇に当てている。
その日の晩、アマネールたち五人は福腹亭に出向いていた。天煌杯の優勝候補である白金剣団に惜敗した少年たちをねぎらおうと、アルヴィナが招待してくれたのだ。敗退した彼らを気に掛けてくれているようだった。
アルヴィナの心遣いは、テーブルに並ぶ料理からも伝わってきた。マッシュポテトやローストチキン、グラタンなど、大層なご馳走が目白押しである。ちょうどアルヴィナの乙女座の星霊が、カボチャジュースを配膳してくれたところだった。
「でも実際、リディアの言う通りだよ。何もかも奴らの思い通りだ。あと私たちにできるのは、白金剣団が準決勝で負けるのを祈るくらい......」
ユリの言い分はごもっともだ。
「うーん」
カボチャジュースをすすりながら、アマネールも唸った。どうにかして禍黎霊使いの計画を阻止しなければならない。だが天煌杯から脱落した自分たちに、これ以上介入する余地があるとは思えなかった。
「そう落ち込むんじゃないよ。相手の割に、いい試合だったじゃないか。ほら、これも食べな。元気がないときほど、飯は食わなきゃいかんよ」
沈んだ雰囲気をどう勘違いしたのか、今度はアルヴィナが追加のマッシュポテトを運んできた。アマネールたちの実の悩みは、敗戦ではなく禍黎霊使いの企みだったのだが、そんなことをアルヴィナは知らないし、何より知られてはならない。
「一度負けたのが何だい。人はね、立ち上がるときに強くなるんだよ」
アルヴィナはそう言って、アマネールの背中をバシッと叩く。その力があまりに強いので、あわやアマネールはカボチャジュースを吹き出しそうになった。
その時、福腹亭の扉が開いた。新たな客はなんと、アマネールたちの心配の種である張本人、ミフェルピア・フリューヒトだった。彼女はきょろきょろと店内を見回し、アマネールたちを見つけると、てくてくとテーブルまで歩いてきた。
「やっと見つけた。探したんだからね。選手寮にもいないし」
椅子に腰を下ろし、ミフェルピアは言った。昼間と違ってプラチナブロンドの髪を下ろし、ゆったりした服を着ている。
同じ食卓に着けば、いやでもミフェルピアの秀麗さを意識させられた。白磁のような肌に、緑の双眸が光るさまはドールさながらである。首元のチョーカーには、インペリアルトパーズが燦然と煌めいていた。
「まじかよ」
ノアの口があんぐりと開いた。
「俺たち、ちょうど君のことで......って!」
アマネールは思わず、ノアの足を踏んづけた。いくらミフェルピアが狙われていると言えど、それを直接伝える気にはなれなかった。
「よもや、負けたあたしたちを冷やかしに来たの?」
「だったらどうする?」
ミフェルピアは悪戯めいた笑みを浮かべている。
「そこまで勝気だと、嫌われちゃうかもしれないわよ」
いまいち脈絡のないリディアの返答に、グレイは「なんだそれ」と突っ込みを入れた。
「あら? 私との正面対決をあからさまに避けてまで、チームの勝ちに徹した誰かには言われたくないけど?」
「それはあんたが......」
思わず言い淀んだリディアに、ミフェルピアはこともなげに告げた。
「大方、私の力が狙われてるとでも思ったんでしょ? 天煌杯と並行して悪事を謀る禍黎霊使いに」
アマネールの目が真ん丸になった。ミフェルピアは何事もなかったように続けた。
「あのリディア・レッドフォードが私との戦いを拒むなんて、それくらいしか考えられない」
「......どうしてそれを?」
「君たち、とにかく尾行が下手よ。あれじゃばれない方が難しいわ。先日の件、奴らに気づかれなかったのは奇跡よ」
ミフェルピアはさらさらと説明する。どうやら、彼女も黒装束たちの謀議を盗み聞いていたようだ。あの時リディアが感じた気配の正体は、ミフェルピアだったのである。
「それと、君たちの推理には穴がある。一つ、大きな勘違いをしているの。禍黎霊使いが動いてるところまでは事実よ。けど、私は狙われてない」
ミフェルピアの台詞に、一同は顔を見合わせた。彼女の自信に満ちた口調が、一層アマネールを混乱させた。
「ミフェルも奴らの話を聞いたなら、なおさらわかるでしょ? 標的は君以外に考えられない。だって八年前に襲われた紅の鷲と、状況が酷似してるのよ。このままだと、君たちの三連覇に乗じて奴らが......」
ユリは説き伏せるように言った。
「その、紅の鷲よ。狙われているのは。正確に言うなら、彼の星の力ね」
ミフェルピアはきっぱりと断言した。六人の間に、一瞬の沈黙が訪れる。前提が根底から覆されたのだ。だって、彼はもうーー。
「いやいや、まさか」
グレイの面持ちは呆れ返ったと言わんばかりだ。
「知ってるかい? 紅の鷲は八年前に、何の前触れもなく、何の置き土産もなく、まるではなから存在しなかったように、跡形もなく消えたんだ。だから標的になりようがない。なーんにもないものは、どうしたって狙えないからね」
「おかしいとは思わない?」
ミフェルピアは切り返した。
「アリスのぺガススに、ヴェールコルヌのユニコーン。それにビオアークのヘルクレスも。かつて偉大だった人々の星霊が、時を経て現代にも存在してるのよ。なのに、今どこにも鷲座の星霊使いはいない」
アマネールははっとした。「偉大だった星霊使いの生きた証が、星霊として今も存在するの」というウテナの発言を思い出した。
「簡単だ。八年前に殺された紅の鷲の星霊は、禍黎霊使いに奪われたんだよ。連中はろくに表に出てこないから、その存在が明らかにならないんだ」
しかし、グレイはなおも食い下がった。
「半分は君の言う通りだよ。かつて、紅の鷲は何者かに襲われた。でも、なぜか力は奪われずに済んだの。鷲座の星霊は闇の手に落ちなかったのよ。だからこそ、今になって再び狙われている。この度の騒動は、八年前の繰り返しじゃない。当時の事件そのものの続きなのよ」
ミフェルピアは頑なに主張した。もし彼女の言う通り、本当に紅の鷲の力が奪われなかったのなら、たしかに話の筋は通っている。
「禍黎霊使いが鷲座の星霊を取り逃がした根拠はあるの?」 とアマネール。
「奴らの会話を思い出して。予言に記された星の力、とか言ってたでしょ? その予言の力こそ、紅の鷲のものなのよ」
アマネールは記憶を辿った。あの日、黒装束の男たちが交わしていた会話がぼんやりと蘇ってくる。
ーー......待ちわびたぞ。来たるべき刻限、予言に記された星の力は我らの物となる。
「そういやそんな話をしてたけど、予言って一体?」
「この世界には、古から眠る予言があると言い伝えられているの。もっとも真偽のほどはあやふやだし、私も詳しくは知らないんだけどね。でもたしかに、彼は予言の話をしてくれたの」
「君、紅の鷲と直接関りがあるの?」
思わずアマネールは訊きかえした。
「ほら、私も彼もメイエール出身だからさ。それに、私は十一年前にここに来たし。まだほんの子供で、頼る当てもない私の面倒を見てくれたのが彼だったの」
ミフェルピアは懐かしそうに言うと、小さく息を吐いた。
「それからしばらくして、紅の鷲は姿を消したの。多分彼の星霊は、予言に深く関係していたのよ。それ故に狙われ、忽然と消息を絶った。そして今、禍黎霊使いが執拗に追い求めているのが、まさにその予言の力と来れば......どう? 納得できる? 奴らは是が非でも、鷲座の力が欲しいのよ」
ようやくグレイも頷いた。自分たちの推論よりも、ミフェルピアの話に説得力があるのは事実だった。禍黎霊使いが狙っているのは、鷲座の星霊に違いなさそうだ。
「で、何でその話をあたしたちに?」 とリディア。
「手を借りたいの。紅の鷲の星霊を継承するには、彼の天結が必要でしょう? 禍黎霊使いが狙っているのもこれ。だけど、私には場所がわからないの」
「そもそも、紅の鷲の天結なんてあるの? 彼の痕跡は、何一つ残っちゃいないんだよ。もちろん遺品はゼロだ」 とグレイ。
「その通説、さすがに度が過ぎてると思わない? まるで、多くの民に何かを隠蔽したがってるみたい」
「星斗会が情報を秘匿してるってか?」 とノア。
「私はそう睨んでる。禍黎霊使いが星斗会の勢力を削ごうとしてるのが証拠だよ。何らかの形で、星斗会が一枚噛んでるのは間違いないと思う。おそらくだけど、わけあって連中が奪い損ねた天結を、星斗会がどこかに隠したのよ」
「仮にそうだとして、君、星斗会をも敵に回す気?」
ユリは半ば呆れ、半ば感心したような顔をした。
「この件に関してはね。別に、国家転覆を図ろうってわけじゃないよ。ちょっとくすねたいものがあるだけ」
ミフェルピアはさらりと言ってのける。
「私の名誉のために言わせてもらうけど、初めからこうしたかったわけじゃないよ。まずは星斗会に事情を説明して、彼の天結の在り処を尋ねたもの。結果は知らないの一点張りで、全く取り合ってくれなかった。門前払いもいいとこね。
そんなの私は許さない。何としてでも、彼の力を悪の手から守り、彼が生きた証を取り戻す。それが私の使命だから」
ミフェルピアの翡翠の瞳が鋭く光った。
「色々と込み入ってるのはわかったよ。けど、どうして僕らに相談するんだ? 白金剣団の皆は?」
あらかたの状況を飲み込んだアマネールに、新たな疑問が頭をもたげた。
「あの子たちがこの世界に来たのは、私よりもだいぶ後なの。ウェンディに至っては二年前よ。だから紅の鷲と直接的な関わりもないし、何より、巻き込みたくないの。素性は知らないけど、禍黎霊使いなんて危険すぎるから」
「へえ。俺たちなら巻き込んでもいいってかい?」
ノアは皮肉っぽく笑った。
「だって、もう半分首突っ込んでるでしょ。どう嗅ぎつけたのか知らないけど、連中の謀議を立ち聞きした時点でね。それに......それにね......」
不意にミフェルピアは口をつぐみ、曰くありげにアマネールをちらりと見た。アマネールが首を傾げると、彼女は覚悟したように切り出した。
「紅の鷲。彼の名前、ノクス・アズールって言うの」




