第三章⑧ 遠い日の記憶(中)
突然アマネールは、体が空へ昇っていくような感覚に襲われた。初めての星雲海で味わった奇妙な浮遊感に似ている。
次第にバジュノン宮殿の内装がぼやけていく。一瞬、すべてが真っ暗になったかと思えば、何処かにぴたりと着地した。
降り立ったのは、死後の世におけるアマネールの故郷、エステヒアのようだ。星々に反応して、葉が淡く光るコセリメージュの木が見える。
しかし、アマネールが慣れ親しんだエステヒアとは様相を異にしていた。大樹の周りにあるはずのハル・エトワーレ広場がない。広場があるべき場所には丘が広がっており、周りには草が生い茂っていた。
ハル・エトワーレ広場が建設される前なのだろうか、とアマネールは思った。ふと、大樹のそばで興奮気味に話をする二人組が目に入った。青みがかった黒髪の青年と、絹糸のような白髪の青年である。
「......天と結ばれたんだ。すごいぞ! やったじゃないか! とんでもない発明だよ、アリス。この石を使えば......いよいよだ。本当に世界が変わるぞ」
アリスだって? 白髪の青年の発言に、アマネールの心臓が浮いた。少年の知るアリスと言えば、三百年前を生きた英雄、アリス・シアステラの他にいなかったからだ。
黒髪の青年がアリスなら、もう片方はアリスの親友かつウテナの先祖であるハル・アミタユスに違いない。ハルはその端麗な顔を上気させて、アリスに向かって叫んでいた。
「ああ。らしくなってきたな」
ハルとは対照的に、アリスは落ち着いた様子で答えた。煌々と輝く群青の石をつまみ上げている。
群青の宝石の正体を、アマネールはすぐに理解した。人々が星霊を呼び出すための道具、天結だ。ただ現代の天結とは違って、アクセサリーの形はしておらず、小さな宝石そのものであった。
「え? 何が?」
「何がって......」
恥じらいと誇りが入り混じったような笑みを浮かべ、アリスは言い切った。
「ここは天国じゃないか」
またしても、不意にアマネールの視界がぼやけ始めた。今度は逆に、地へ落ちていくような感覚が体中を巡っている。
先ほどのように、視界が闇に包まれた直後、アマネールの意識はバジュノン宮殿へと戻った。どうやらウテナがアマネールの頭からティアラを外したようだ。
「なに......これ」
「見ての通り、初めて天結が作られたときの記憶よ。三百年前から今に至るまで、アミタユス家が代々継承してきたアリスの大切な記憶ね」
「僕、タイムスリップでもしたの?」
アマネールは混乱していた。三百年も昔に交わされた会話を聞くなんて、摩訶不思議な体験は初めてだった。
「そう感じるのもわかるけど、厳密には違うわ。君は過去に行ったわけじゃない。記憶を通して、過去を追体験したの。驚いた? 天結には記憶が込められるのよ。天と結ばれるだけにあらず、記憶を通して過去とも結ばれているの」
その洒落た言い回しに、ウテナは得意げに微笑んでいる。続いて彼女は、星霊を継承する詳細な条件について教えてくれた。
繋がりし者が星霊を継承するには、先にウテナが言った通り、初めて星霊を宿した人の記憶の共有が必要らしい。アミタユス家に伝わるぺガスス座で言うならば、アリス・シアステラの記憶である。
記憶の共有は、今ほどのように天結を通して行われる。ただし、これにはとある制約があるそうだ。
「天戒律って言ってね。言うなれば、天結の記憶に鍵を掛けられるの」
天戒律とは、平たく言えば、星霊の継承権を守るための制約だそう。天結に込められた記憶を気軽に見られてしまえば、他人に星霊を奪われる可能性がある。それを防ぐため、記憶を追体験できる者を縛るのが天戒律だ。
天戒律の制約は、それが掛けられた天結ごとに異なる。例えばウテナのティアラには、アミタユス家の血筋でない者を拒む制約が掛けられているらしい。
では、なぜアミタユスの血を引かないアマネールがアリスの記憶を見られたのか。答えは簡単で、ウテナが許可を出したから。制約に阻まれないウテナは、いわば天戒律の鍵のような存在らしい。もし天戒律の鍵となる人物が望めば、他者でも記憶を追体験できるのだという。
「安心して。だからと言って、君にぺガスス座の星霊が渡ったりはしないわ。記憶の共有は単なる条件に過ぎないの。ある人が誰かに星霊を継承するには、畢竟、双方の同意が必要だから」
ちなみに、天戒律に掛かる制約の条件を決めるのは、初めてその星霊を宿した人(アミタユス家ならアリス)だそうだ。
「それから、天結にはいくつも記憶を込められるのよ。これなんかもどう?」
ウテナは再びアマネールにティアラをかけた。途端にアマネールの視界が揺らぐ。此度も同様にして、アマネールはコセリメージュの木が生えた丘に降り立った。
けれど、今ほど追体験した記憶とは印象が違った。鬱蒼と茂っていた草は荒れ果て、周囲には何かが衝突した痕跡が点々と残されている。コセリメージュの木も所々傷ついており、変わらないのはアリスとハルが話し込む姿だけだった。
「お疲れ様。どうだい? 新時代の幕を上げた気分は」
丘にごろんと寝転がり、ハルは陽気に語りかける。だが明るい声音とは裏腹に、彼の額には血が滲み、体のいたるところに傷を負っていた。
思わず「大丈夫ですか」と呼びかけようとしたものの、アマネールは声が出なかった。それ以前に、体がうまく動かない。たとえ記憶の追体験ができても、記憶そのものへの干渉はできないことを、アマネールは身をもって理解した。
「僕は星導師じゃない。これ以上は手を引くさ。僕の冒険はここまでだ」
数多の流星群が飛び交う満天の夜空を見上げ、アリスは呟いた。そして、隣に寝転ぶハルに目をやった。
「王家になるべきは、ハル、君だよ。新たな時代の幕を上げるのは、君だ」
「......本当にそれでいいのかい?」
「もちろんさ。けど一つだけ、僕のわがままを聞いてくれるか?」
ハルがこっくりと頷くのを見て、アリスは口を開く。
「僕の同胞が、前世に悔いのある人々が、幸せに暮らせる世界を作ってくれ」
「お安い御用さ。天国ってのはそうじゃなくちゃ。なあ?」
ハルの返事に、アリスの口角は満足げに吊り上がった。
「僕からも一ついいかい?」
今度はハルが要求する。アリスは「断ると思うかい?」とでも言わんばかりに、仰々しく目配せをした。
「君の翼、僕に託してくれよ」
「もちろん」
二人が拳を合わせるのを最後に、アマネールの視界はぼんやりと霞み、バジュノン宮殿へと戻った。
「これは天命戦が終結してすぐの記憶よ。こうしてハルさんはぺガスス座の星霊を継承し、今のエステヒアを作り上げたの......ねえ、アマネール。記憶と言えば、あなたの前世の記憶はどう?」
窓の外を見遣りながら、ウテナはさりげなく付け加える。その口調からして、彼女は今日、これが知りたかったのだろう。アマネールは内心そう拝察した。ウテナは前々から彼に眠る前世の記憶を気にかけてくれていたのだ。
「いや......まだいまいち」
何だか申し訳なくなり、アマネールは俯いた。前世の記憶に触れられるのは苦手だった。
「夢を見るんだ。前世の記憶らしき夢を、定期的にね。でも僕、起きたら何も覚えてないんだ。きっと夢の途中で目が覚めてしまうからだと思う。とにかく、前世の記憶を取り戻すためには、あの夢の結末を見ないと......」
アマネールはユリと出会って以来、一面が紅蓮の炎に支配された夢を時折見ることを告白した。緋色に覆われた夢が、前世の記憶への鍵であるのは間違いないだろう。
現にアマネール自身も、日々その夢を思い出そうと努めている。だが思い出せない。緋色一色に染まった世界と、自らに訴えかける声。それらを意識してはみるものの、記憶の断片は今以上に鮮明にならなかった。
「そう。無理しなくていいのよ。ごめんなさい、気にしないで。私が無神経だったわ。そんなことより君たち、調子はいかがなの?」
アマネールの複雑な心境を読み取ったのか、ウテナは早々に話を切り上げた。
「調子って?」
「天煌杯、応援してるわよ。次戦は私も見に行くわ。白金剣団の三連覇が、防がれるかもしれないものね」
ウテナはにっこりと笑った。




