第三章⑦ 遠い日の記憶(上)
アマネールはこの世界に来て以来、かつてないほどの忙しなさを感じていた。
日中は天煌杯の練習に明け暮れ、夜はグレイが学校から借りてきた書物を読み漁っていたのだ。
当面の目的は、禍黎霊使いの仕業と取り沙汰される、紅の鷲失踪事件の詳細を知ることだった。八年前の事件を紐解くことが、喫緊の事態を解決する糸口になると考えたからだ。
問題は手掛かりの少なさだった。いくら書物を隅々まで調べても、ろくな情報が見つからない。わずかに記されているのは、紅の鷲と称される星霊使いがいたという事実だけ。アマネールたちが知りたい失踪の真相については、まるで語られておらず、本当に事件があったのかさえ疑わしい始末だ。
星斗会に頼りさえすれば、もう少し楽に情報が手に入るのだろうが、それはしないというのが五人の了解だった。
一度、星導師であるリディアならもしかしたらと、訊いてみたりもしたけれど、満足な答えは得られなかった。
「星導師とはいえ、あたしがここに来たのは七年前だからさ。あまり知らないのよね。当時はよく噂を耳にしたけど、あくまで噂話。表面的な駄弁ばかりで、誰も深く語ろうとしないの。今思えば、本当に禍黎霊が絡んでるからでしょうね。皆怖がって、なかったことにしたかったのよ。禍黎霊使いが現れたなんて、認めたくなかったんだわ」
ウォーカーからも似たようなことを聞いたのを、アマネールは思い出した。
ちなみにリディアは活字が苦手らしく、事件の調査には加わろうとしなかった。ただ、彼女は天煌杯の練習を率先して仕切ってくれていたので、不満は全くなかった。適材適所というやつだ。
「リディアの言う通りだよ。何者かが意図的に、失踪事件の痕跡を消そうとしてるんだ。ひどいときには、紅の鷲という存在ごと抹消しようとしてるほどさ。ほら、これ見て。『メイエールの英傑たち』のページが半分も破られてる。もし残ってたら、目ぼしい手掛かりの一つくらいあったろうになあ。こりゃ、骨の折れる調査になりそうだ」
悲しいかな、グレイの予想通りになった。読めども読めどもかすりもしない。学校の蔵書には、抜け目ない検閲の手が入っているのではないか。連夜の作業は、ありもしない宝を探すような徒労ではないか。そんな虚しさを誰もが痛感していたが、口には出せずにいた。
事件を調べ始めて二週間、ノアは限界を迎えたようだ。グレイがうとうとする隙をついて、彼は選手寮から逃げ出した。その日を最後に、ノアが寮で夜を明かすことはなくなった。
ノアの遁走から一週間後、アマネールもついに音を上げて、選手寮を後にした。決して投げ出したわけではなく、今なお書物を漁るグレイやユリとは別角度から、禍黎霊の手がかりを掴むためだ。
アマネールの目的は、エステヒアを襲撃した蛇にあった。ウォーカーによれば、召喚式の繋がりし者は星霊の遠隔操作ができるという。とすれば、エステヒアの襲撃犯と本土にいる禍黎霊使いは、同一人物である可能性が高い。三百年も音沙汰がなかった禍黎霊使いが、現代になってそう多くは現れないだろうからだ。
敵の一人が蛇座の使い手とわかれば、何らかの対策が立てられる。これまでの五里霧中の状態から前進するのは確かだろう。
ただし、これは蛇座の禍黎霊使いが拘束されていない前提の仮説である。あれほどの襲撃があったのだから、星斗会も動いているはずだ。もしかすると、すでにエステヒアを襲った犯人を捕えているかもしれない。
アマネールはそれを確かめる必要があった。もちろん、本土に禍黎霊使いが現れたのを星斗会に悟られぬよう、話す内容は事前に吟味しておいた。
◇◇◇◇◇◇
二か月ほど前、初めて本土に降り立った日のように、アマネールは白亜の宮殿を見上げている。死後の世の最高権力機関、星斗会の本部であるバジュノン宮殿は、一帯で最も空の近くにそびえていた。
広大な庭園を背に、宮殿に通じる階段の脇には、高貴な一角獣と屈強な男の像が立っている。リディアによる連日の特訓の成果か、アマネールはすいすいとその階段を上った。
大扉をくぐり、バジュノン宮殿に入ると、星斗会の一員であろう女性とすれ違った。
彼女が身に纏う白装束には、肩から左右に紫のラインが延びている。腰に金糸の帯を巻いた彼女の胸元には、金の縁で装飾されたブローチが付いていた。
「あの、ウテナ女王陛下はいらっしゃいますか?」
アマネールが尋ねる。
「女王様でしたら、最上階にいますよ」
女性は丁寧に答えてくれた。軽く会釈をして別れたのち、アマネールは豪華な階段を上る。
二つ階を上がると、壁一面がガラス張りのフロアに出た。開放感のある壁際には、死後の世の女王にして星斗会の総帥、ウテナ・アミタユスが佇んでいる。彼女の側近であるセフィド・ムルパティはいないようだ。
「女王陛下、アマネールです。今日は少し、お伺いしたいことがあって」
アマネールはおずおずと声を掛けた。
「いらっしゃい、アマネール。いいけど、一つ条件があるわ」
ちらりと振り返ったウテナの額は装飾され、頭には空色のクリスタルを添えたティアラが輝いている。アマネールは首を傾げた。
「ウテナでいいわよ。それに敬語もいらない。前にちょっと偉ぶったのはね、恥ずかしかったの。隣にセフィドがいたから。ごめんね」
はにかむウテナの手招きに応じて、アマネールは壁際へと歩み寄った。ガラス張りの窓からは、本土の風景が一望できる。アルゴ座の星霊から眺めたエステヒアと比べると、一回りも二回りも広大な街並みだった。
しばらくあたりを見渡していたアマネールが、宮殿と庭園を繋ぐ階段に目をやったとき、彼はふと違和感を覚えた。
あれ? 地上から見上げたときは、もっと高く見えたのに......。
「この上、何もないんですか? ......ないの?」
アマネールは天井を見上げた。精緻に彫刻された麗しい茶色の台座から、華麗なシャンデリアが堂々と吊り下げられている。
「もちろん、何もないわよ。ところで、あなたは何が知りたいの? アマネール君?」
持ち前のはつらつとした声で、ウテナは問いを返す。
「セルルス、元気になった?」
ベントレー・セルルス。エステヒアの民を支える煌玉宗の開祖である、星導師セルルス家の子孫だ。彼は以前、エステヒアを襲撃した禍黎霊から身を挺してアマネールを守ったのだった。
「もう。お人好しなんだから。セルルスには負い目を感じなくていいって、前にも言ったわよね?」
ウテナは呆れ顔をしながらも、少年の質問に答えてくれた。
「心配しないで。意識はとうに戻ったわ。回復も順調よ。ただ、蛇に噛まれた傷が思ったより深くてね。まだ入院が続いているの。もしセルルスと会いたいのなら、もう少し待った方がいいでしょうね」
「そう。ありがとう」
しめた。ウテナの方から蛇に触れてくれたのは都合がいい。変に声が上ずりそうになるのを堪えて、アマネールは礼を言った。
「そういや、あの蛇はどうなったの? 僕を助けてくれた男の人が言うには、蛇は死んじゃいないって」
以下にもその場で疑問に思いました、という体をアマネールは装う。
「そうね。向こうから身を引いたって聞いたわ。まあ、蛇が死のうが死ぬまいが、召喚式の星霊使いに大した影響はないけどね」
「大した影響?」
「仮に蛇が頭を切断され、絶命したとするわ。この場合も星霊は消え失せるのだけど、それはあくまで一時的なの。召喚式の星霊使いは、一定の時間が経てば再び星霊を呼び出せるのよ。召喚された星霊の死は、星霊使いとしての死を意味しないってわけ」
「なら、蛇座の禍黎霊使いはどうなったの? 先日の襲撃の件、星斗会は動いてるよね?」
「もちろん動いてるわよ。ただ、ごめんなさい。大きな進展はないわね。襲撃犯の素性も分からないまま。なにしろ召喚式は難しいのよ。理論上は、どこからでも操れるから」
なら間違いない。本土で何かを企む連中の一人は、蛇座の禍黎霊使いだ。不気味に白く光る大蛇の眼球が、アマネールの頭をよぎった。
「そう気を揉まないで。半年の間、エステヒアにはヴェールコルヌ派を警備につけるから。彼らがいる限り、二次被害はあり得ないわ」
沈思黙考するアマネールをどう勘違いしたのか、ウテナは少年を安心させるように言った。
「ヴェールコルヌ派?」
「星導師、ダフラ・ヴェールコルヌの子孫であるネフリート・ヴェールコルヌ、および彼の部下で形成される星斗会の一派閥よ」
ダフラ・ヴェールコルヌ。その名前には聞き覚えがあった。アリス・シアステラ、ハル・アミタユスと並び、天命戦の立役者として名を馳せる彼女は、一角獣座の星霊使いだとノアに聞いたことがある。ダフラの功績を讃えるため、この世界の銅貨にはユニコーンがあしらわれているのだ。
「もしかして、バジュノン宮殿前の階段脇にあるユニコーンの像は......」
「ご名答。星斗会の派閥であるヴェールコルヌ派のトップ、星導師ヴェールコルヌ家に伝わる一角獣座の星霊を表しているの」
ウテナは説明を続ける。
「お察しの通り、星斗会にはもう一つの派閥があるわ。その名をビオアーク派。同じく三百年前、アリスに貢献したメイ・ビオアークの子孫、ムシエル・ビオアークが率いる派閥ね。星導師ビオアーク家は、ヘルクレス座の星霊を代々継承しているの。ユニコーンの像の隣に立つのは、英雄ヘルクレスの銅像なのよ」
その他にも、ウテナは星斗会の二派閥について色々と教えてくれた。
現ヴェールコルヌ派を率いるネフリートの誕生石がペリドット、現ビオアーク派を率いるムシエルの誕生石がアメジストであること。その色にちなんで、ヴェールコルヌ派に属する星斗会員の白装束には緑のラインが、ビオアーク派には紫のラインが入っていること。
また、ともにウテナへの忠誠を誓う二派閥でありながら、派閥間の仲はお世辞にもよいとはいえないことまで、ウテナはおかしそうに話すのだった。
「どう? 素敵でしょう? ユニコーンにヘルクレス。それに私のぺガススも。かつて偉大だった星霊使いの生きた証が、星霊として今も存在するの。君の星霊も、いつか伝説になるかもしれないわよ」
ウテナは楽しそうに、唇から白い歯をこぼした。ちなみに、当時ハルが宿していた鳩座の星霊は、星導師ムルパティ家が継承しているそうだ。
「そう言えば、繋がりし者はどうやって星霊を継承するの?」
今度は本当に、その場で疑問に思ったことをアマネールは質問した。
「ちょうどいいわ。この際教えてあげる。君にはいつか話そうと思っていたしね」
ウテナはやおらティアラを取り外し、どこか懐かしむように、頭飾りに添えられた空色の宝石を見つめた。
「とある星霊を継承する条件。それは、初めてその星霊を宿した人の、大切な記憶を共有すること。アミタユス家でいうなら、アリスの記憶をね」
ウテナはそう言うと、アマネールに有無を言わせず、彼の頭にティアラを載せた。
「百聞は一見にしかずよ、アマネール。さあ、いってらっしゃい。三百年前の夢の旅へ」




