第三章⑥ 冥跡
「はい、どうぞ」
天煌杯競技場の控室にて、星斗会の一人が銀の小判皿を差し出した。
皿の上には、コルク栓で閉じられた親指大の小瓶が七つ並んでいる。瓶を満たす無色透明な液体の正体は、水晶水。簡単に言えば見えないバリアだ。盾座の繋がりし者が編み出した代物である。
白金剣団の華々しい初戦から一週間が経ち、いよいよアマネールたちの天煌杯が始まろうとしていた。ただ、同じ大会と言えど、開幕戦とはまるで状況が違う。先週はあれほどの盛況を見せた競技場だが、今日は空席が目立っていた。
所々で噂になりつつある、アマネールのエステヒアの繋がりし者という肩書も、白金剣団の集客効果には遠く及ばなかったようだ。本土から出場している対戦相手が、あまり注目を浴びていないのも一因だろう。
もっともアマネールたちにとって、会場が空いているのは好都合だった。リディア以外の四人は、今日が天煌杯の初舞台にもかかわらず、特段緊張せずに本番を迎えることができたからだ。
アマネールたちは、各々が事前に決めたライフ数に応じた水晶水を飲み、競技場に入場した。ほどなくして相手チームも登場し、両チームが面と向かい合う。
「日陰者通し、互いに頑張ろうや」
相手の一人、図体のでかい男が口を開いた。鼓舞したつもりなんだろうが、結果的にリディアの反感を買ってしまったようだ。
「一緒にすんじゃないわよ」
みるみるうちに男の耳が赤く染まる。両者が今にもおっぱじめようとしたとき、天煌杯の審判が割って入った。星斗会の一人、召喚式・海豚座の星霊使いであるチェリトゥードだ。
「その辺にしときなさい。これ以上は注意を与えます」
桃色に澄んだいるかに跨り、チェリトゥードは声を大きくした。
「一つ、相手に敬意を払うこと。二つ、不正行為はしないこと。三つ、死力を尽くすこと。それでは......開始!!」
◇◇◇◇◇◇
「だから、余裕だって言ったでしょ?」
リディアは誇らしげに言い放つ。
天煌杯Aブロック一回戦第二試合は、アマネールたちの快勝で幕を閉じた。
対戦相手のオールバラ(試合前にリディアと揉めた男)は、召喚式・牡牛座の星霊使いだった。
試合開始とともに、オールバラは牡牛座の星霊を呼び出した。牛は真っすぐこちらへ突進してきたが、その単純な戦略が裏目に出た。闘志むき出しのリディアの蹴りが決まり、牛は呆気なく倒れたのだ。
それからは一方的だった。リディアとノアが敵を削り、残りの三人は何もすることなく決着した。
こうして無事に勝ち進んだ五人が、選手寮に帰りながら談笑していたその時、アマネールの心臓は凍りついた。
裏路地の奥に、かすかにそれはあった。先日アマネールがエステヒアで実物を見ていなければ、目に留まらないほどに消えかかっている。
少年の目に飛び込んできたのは、煤のような黒い焦げ跡。禍黎霊が出現した証、冥跡だった。
「......冥跡だ。誰かが、禍黎霊を顕現した」
アマネールは愕然として言った。彼が発した禍黎霊という単語に、一同はぎょっとして足を止めた。
「この焦げ跡みたいなのが......冥跡? 禍黎霊の足跡だって言うのかい?」
恐る恐る冥跡に近寄り、グレイがそれを視認した。
「薄くなってはいるけど、間違いない。たしかに僕はエステヒアで、冥跡をこの目で見たんだ。その時と同じだ」
アマネールの語気が強まる。そのただならぬ雰囲気に、グレイたちはアマネールの発言が冗談でないと理解したようだ。
「でもほら、勘違いかもしれないし。禍黎霊だなんて......まさか。それに、誰かのいたずらだって線もあるだろ?」
グレイの声は震えている。
「ああ。けど、仮にいたずらだろうが、真相を確かめる必要がある。行こう」
冥跡は一定時間で消えると、前にクレアが言っていた。目の前の冥跡は、エステヒアで見たものよりも格段に薄い。つまり、禍黎霊が現れてからかなりの時間が経っているのだ。
だとしたら時間がない。もたもたしていると、せっかくの手がかりが無に帰してしまう。焦ったアマネールは駆け出そうとしたが、リディアに行く手を遮られた。
「あたしはあんたを信じるわ。でも、一つだけ約束して。いいこと? あたしの指示が絶対よ。あたしが逃げろっつったら、全力で逃げなさい。さもないと、あんた最悪殺されるわよ。もし本当に、この先に禍黎霊使いがいるのならね」
「邪魔しないでくれ。時間がないんだ」
アマネールはいらいらして言った。
「悪いけど、あんたに死なれたらこっちも気分悪いから。どうしても従えないのなら、ここは通さないわ」
リディアと争っている場合ではない。それに、土壇場での勝負勘において彼女に分があることは、ここ数週間の天煌杯の練習で嫌というほど思い知らされていた。
「わかった。君に従うよ。行こう」
アマネールたちは足音を殺しながら、可能な限り最速で薄闇の路地を進む。
アマネールは次第に息遣いが荒くなり、緊張が全身を支配していくのを感じた。エステヒアで蛇と対峙した記憶が蘇り、不快感がこみ上げてくる。あの事件の首謀者が、あるいはその仲間が、この先に潜んでいるかもしれないのだ。
永遠に続くかと思われた裏路地は、不意に終わりを迎えた。そこには、垂直に開けた空間が広がっていた。奥行きも十分で、天煌杯の競技場には及ばないものの、それなりの面積がある。まるで巨大な坪庭のようだ。
裏路地は螺旋を描く階段へと姿を変え、空間の下方へと続いていた。空間の向こう側には、同じように渦を巻く階段が二つ、三つと見える。
階段の先を覗き込むと、黒装束の二人組がいた。何事か言葉を交わしており、アマネールたちには気付いていないようだ。今やアマネールの心臓は、飛び出しそうなほど鼓動を打っている。
見つけた......! 今度こそ逃がすものか。必ず正体を暴いてやる。そう心に誓ったアマネールが階段に足をかけたとき、肩に強い力が加わった。
少年が振り返ると、厳しい眼差しのリディアと目が合った。リディアは素早い手振りで、全員に身を伏せるように合図した。
仕方なく、アマネールは階段上に身を投げ出す。だが幸いにも、耳をそばだてればかすかに会話が聞こえてきた。
「......事は慎重に運べ。天煌杯をうまく利用するのだ」
歳を経た男を思わせる渋い声だ。
「御意。手筈は整っています。天煌杯もつつがなく開幕しました。全ては、あの方が描いた筋書きの通りです」
従者であろう男が淡々と答える。
「くっくっく。時は満ちた。器も十分に熟した。待ちわびたぞ。来たるべき刻限、予言に記された星の力は我らの物となる」
冷酷に響く、悪魔のような笑いを残して、二つの人影は別れた。一人は裏路地の深い闇へと消え、もう一人は街へと歩みを進めている。
黒装束の連中が場を離れるのを待って、アマネールは動き出そうとした。が、またもリディアに阻まれた。
「十時の方向、誰かいるわ」
咄嗟に、アマネールは奥に見える螺旋階段へ目を向けた。しかし人の姿は見当たらず、わずかな人気すらも感じ取れない。
「素人じゃない。気配を消すのがうますぎる」
焦っているのか、リディアは口早になっている。
「まだばれてないとは思うけど、まずいわね。地の利が向こうにある。これ以上は危険よ......逃げて!」
アマネールとしては黒装束の動向を追いたかったが、こうなっては仕方がない。その後、五人は一言も発することなく、平静を装って選手寮への道を急いだ。
「一つわかったことがある。アマネールの話は真実だった」
五人が選手寮の男子棟に戻り、部屋に入って扉を閉めたところで、ノアが口を開いた。
「おとぎ話じゃない。ありゃまじだ。本当に禍黎霊使いがいる。良からぬことを企むやつらがな。表沙汰になってみろ、大惨事だぜ」
「奴ら、特定の星霊を奪うつもりだ。誰かの......繋がりし者の力が狙われてる。このままじゃ襲われる」 とアマネール。
「もしかしなくても君じゃないか? なんせエステヒアの繋がりし者だ。狙われたっておかしくはない」
声色からして、ノアはふざけてはいないようだ。
「いや、あり得ない。僕の星霊、まだ発現も不完全なんだよ。順当に考えたら、やっぱり最強格であるミフェルピアなんじゃ......?」
「天煌杯に執着してるようだから、ターゲットは大会出場者だろうね。だけど、軽率な断定は危険だよ。天煌杯の出場者だけでも、繋がりし者は七人もいる」
ユリも意見を述べた。
「重要なのはそれだけじゃない。決行日だよ。来るべき刻限とか言ってたろ。連中はすでに仕掛けるタイミングを定めてるんだ。ユリが言った通り、天煌杯を狙ってくるのは間違いないとしても、大会期間は三か月もある。これじゃあ不確定要素が多すぎるよ」
グレイが指摘した懸念事項はもっともだ。彼はなおも続けた。
「事態が大事すぎる。どうしたって僕らだと手に負えない。一刻も早く、星斗会に報告しないと......」
論理的な判断を下さんとするグレイに応じたのは、ユリだった。
「慎重で有名なウテナ女王だよ。彼女が事態を把握したら、天煌杯ごと中止される可能性が高い。大会が中止されたら、連中はどうすると思う? 下手したら計画を断念するかもしれないよ。もしそうなったら、連中が次にいつ現れるかわからない。考えてもみて。八年前に禍黎霊が目撃されて以来、奴らはずっと雲隠れしてる」
ユリの言葉には不思議な力がある。その力は、彼女が普段寡黙なだけに、こういうときに一層際立った。落ち着いた調子で発せられた言葉には、まるで言霊のように、燃え滾る意志がこもるのだ。
「せっかく禍黎霊使いのしっぽを掴んだってのに、この機を逃す手はないよ」
アマネールも、ユリの考えには賛成だった。
「じゃあ、どうするの? ......まさか?」
わかりやすく怯えるグレイに、アマネールは毅然として言った。
「そのまさかだ。星斗会には頼らない。僕たちだけで解決しよう」




