第一章① 白の世界
不思議な空間だった。四方八方が純白に覆われている。周囲には生き物、人工物問わず、ものというものが何もない。
とてつもなく空虚な空間で、一人の少年が目を覚ました。彼の意識は朦朧としており、漠然とした浮遊感に包まれている。自分が立っているのか、もしくは寝転んでいるのか、少年はそれすらも把握できなかった。
少年が浮遊感と格闘していると、白一色の空間の彼方から、何かがゆっくりと近づいてきた。
首周りを覆う象徴的なたてがみ、その造形はよく知られたものだ。百獣の王、獅子である。
見慣れた形をしてはいるが、獅子からは微塵も生気を感じなかった。原因は明らかだ。獅子の毛皮は半透明で、おまけに澄んだ空色をしていたのである。
実体として不鮮明な透き通る肉体は、美しい反面、儚げ雰囲気を湛えていた。けれどその存在感は並大抵でなく、まだ距離があるにもかかわらず、少年の目を引くのだった。
そればかりか、獅子は背中に一人の老婆を乗せていた。獅子は彼女の意のままに動いているようだ。一歩一歩ゆったりと、乗馬でもするように近づいてくる。接近するおかしな一匹と一人を、少年はじっと眺めていた。
獅子が少年の前に到着する頃には、彼にあった浮遊感は消えていた。
間近で獅子を見て驚いた。体が半透明などころか、周囲を空色のもやが漂っていたのだ。獅子を近くで見れば見るほど、その美麗さに感嘆せずにはいられなかった。この獅子は形こそ動物であれど、それを超越する別次元の何かだ、少年はそう確信した。
上にまたがる老婆の表情は穏やかだ。深い緑色の目、胸まで伸びた銀髪。古びた眼鏡に、卵型をした拳大のペンダントを身に着けている。ペンダントトップの宝石は、彼女が乗る獅子と同じ、綺麗な水色をしていた。
いかにもって感じだな。
少年がそう思った直後、老婆の口角が上がった。彼の心の声が聞こえたかのようだ。ここに来て初めて、少年は奇妙なタッグに不気味な感情を覚えた。
「お前さん、名を何という」
気味の悪さをかき消すような落ち着いた声で、老婆は少年に問いかける。
「アマネール・アズール」
アマネールは答えた。
「突然だが、アマネール。何か頭に強く残っていることはあるかね？ 例えば......そうねえ。どのような環境で、どのように育ったか、とか」
老婆に言われて、アマネールは摩訶不思議な気付きを得た。自身に関する名前以外の記憶が一つとしてない。
自分はどういう人間で、どんな家族がいて、どのような人生を送っていたのか。アマネールは己の個人的な事情を何も思い出せなかった。
基本的な物事の知識は残っているようだ。例えば老婆が乗っているのは獅子だとか、首から下がる装身具はペンダントだとか、それらの認識は簡単だった。
困惑するアマネールを見て、老婆は楽しんでいるようだ。眼鏡から覗く目がいたずらっぽく光っている。
「些細なことでいいんだよ。他の記憶とは一味違うことを覚えていないかい？」
再び質問されたアマネールは、先ほどの不気味な感情も相まって、この老婆に隠し事はできないと悟った。
実は、純一無雑な空間で目覚めた時から、アマネールを悩ませる現象があった。かすかに声が聞こえるのだ。正確には、彼の体内で声が反響する感覚があった。
声の主は誰なのか、何を伝えたいのかまでは思い当たらない。確かなのは、か細く訴える声がアマネールの中に存在すること、それだけだった。
「声がするんだ。女の人の」
老婆から目線をそらしつつ、アマネールはぼそぼそと白状した。なぜだろう、老婆に内なる声について告白するのは気が進まなかった。
「お前さんにとって、その声はかけがえのないものだ。いつかお前さんを導いてくれるよ。然るべき時が来るまで、大事に心にとめておきな」
その口調は今までと違っており、大切な意味があったらしいのはアマネールにもわかった。
「それから、お前さんほど大きな欠片を持ち込んだ者は初めて見たよ」
老婆は示唆的に付け加える。
大きな欠片？ 持ち込む？ アマネールには話の中身がまるで理解できなかった。
「僕が何だって？」
「お前さんは、来るべくしてここにきた。言ってしまえばそれだけね」
老婆に多くを語るつもりはないようだ。
今しがたの発言の真意、神聖的な獅子の正体、そして自分はどこにいるのか。アマネールには疑問が山ほどあった。しかし、老婆は聞いても答えてくれそうにない。アマネールは余計な口を挟まず、時間が過ぎるのを待った。
「そろそろお別れの時間だよ」
ひと呼吸おいたのち、老婆が柔らかく告げた。
勝手に現れて勝手においとまとは、ずいぶんお気楽なものだ。そんなアマネールの心境を見透かしたように、老婆はほのかに笑みを浮かべた。
「アマネール・アズール。お前さんには、お前さんにしかできないことがある。私にはわかるんだ」
「……ありがとう」
戸惑いながらも、アマネールは感謝を述べた。ろくに説明しない態度には釈然としなかったが、老婆の瞳があまりに真っすぐだったのだ。
「この子に乗っていきな。乗り心地は悪くない、本物に比べたらね」
老婆は意地悪げに笑い、静かに獅子から降りた。
その言い草に若干の不安を抱きつつも、アマネールは躊躇しなかった。アマネールが乗りやすいよう、獅子が屈んでくれたからだ。
明確な根拠こそないけれど、獅子は自分の味方だろう。アマネールは本能的にそう感じた。それに恐れている余裕もなかった。わけあって、彼はいち早く老婆の元を離れたかったのだ。
別れの言葉もそこそこに、アマネールは抵抗なく獅子にまたがる。そして、獅子が一般の生物とは根本的に異なることを実感した。
獅子から体温を感じなかったのだ。ひんやりとした背中にたじろぐ少年を見て、老婆は満足したようである。彼女が頷くのを合図に、獅子は歩き出した。
老婆が言った通り、獅子の乗り心地は素晴らしかった。滑らかな歩みに身を委ねながら、アマネールは物思いにふけっていた。脳裏にちらちらと浮かんでは消える、とある光景についてーー。
それは、あたりが緋色に支配された世界だった。見渡す限り紅蓮に染まる景色が、アマネールの瞳の奥底に刻まれていたのだ。老婆に打ち明けた声と同様に、この幻影めいた情景も自身に訴えるものがあった。
これらの関係性はわからない。一つ違いを挙げるとすれば、緋色の世界だけは誰にも知られたくなかった。老婆との別れを急いだのはそのためだ。
もっとも、あのばあさんのことだ。すでに見抜かれている気もするが。
突然、アマネールは強烈な眠気に襲われた。深い眠りに導かれるまま、彼はそっと目を閉じた。
