第二章⑥ 夢
アマネールが本土に来て一週間が経った。新たに二人の友人に恵まれた少年は、今は彼らと共に暮らしている。
日中、グレイ・ルーミスは学校へ通っているそうだ。この世界で一か月足らずにもかかわらず、グレイはすでに優秀な生徒として評価されているらしい。
この事実を、ノア・バートレットは心底嘆いていた。彼はグレイと違って自由気ままな日々を過ごしている。バジュノン宮殿前の庭園で寝ていたのも、その一環というわけだ。
アマネールはここ数日、ノアに倣って本土を堪能していた。本土は故郷よりはるかに広大で、いろいろと探索し甲斐があったのだ。今日も今日とて、トレッフュ商店街で買ったクッキーの袋をお供に散歩している。
気持ちの良い風に、アマネールの髪がなびく。アマネールはこれといった目的地を決めず、ただのどかな雰囲気に浸かるために歩いていた。
少年が最後のクッキーに手をのばした時、周囲の空気が一変した。人工的な石レンガの道がぷつりと途切れ、開けた場所に出たのだ。
およそ人の手を感じさせない空間だった。森の中から一画を切り取ったかのようだ。広場の中央には、一本の大樹が生えている。その太い幹は、大樹が生えてから途方もない時が経つことを示唆していた。
大樹に目を惹かれたアマネールは、その根本近くを飛ぶ小鳥を見つけた。きれいな青色の胴体は実体を成しており、透き通る星霊とは別のようだ。
小鳥に吸い寄せられるように、アマネールは大樹の裏に回り込む。するとそこには、地面すれすれを飛ぶ五羽の小鳥がいた。青い鳥のほかにも、黒や白の羽毛を纏う小鳥が羽ばたいていたのだ。
驚いたのは、小鳥たちの輪の中心に、一人の少女がいたことだった。今日こそはそうに違いない。さらさらした焦茶の髪が胸元まで流れている。
少女は左腕に銀色のブレスレットをしていた。腕輪には一枚の花びらを象った装飾がされており、花弁の付け根に透明な宝石があしらわれている。少女が腕を動かすたびに、その石は七色の煌めきを振りまいていた。
木にもたれるように座り、長い足を伸ばす少女は、パンか何かを小鳥にあげている。そんな少女と、アマネールは目が合った。きっと彼女も驚いたのだろう、ヘーゼル色の瞳がぱちぱちとまばたきした。
「ごめんなさい、邪魔しちゃって」
アマネールは咄嗟に謝る。
「......いいよ、気にしないで」
少しの静寂の後に、澄んだ声で少女は応じた。
「これ、僕もあげていいかな?」
理由は自分でもわからない。アマネールはかなり緊張しながら、袋から最後のクッキーを取り出した。
「どうぞ」
すると、少女の周りにいた鳥たちがアマネールめがけて飛んできた。
「うわっ」
びっくりしたはずみで、アマネールはクッキーを落としてしまった。砕けたクッキーの破片に、小鳥たちがあっという間に群がってくる。
あたふたするアマネールを見て、少女はおかしそうに笑っていた。肩には一羽の白い鳥がとまっている。クッキーなど眼中にないようだ。
「この子、私になついてるの」
少女はふふっと笑って、肩にとまる小鳥の頭をなでた。
餌を平らげた鳥たちが大空へ羽ばたいていく頃には、少女は本を開いていた。物語にどっぷりと浸っているのだろう。ページをめくる目が輝いている。
少女は相当の読書好きなようだ。彼女の傍らにはすでに読み終えたのか、はたまた先のお楽しみなのか、三冊の本が丁寧に積み上げられていた。
アマネールは少女の安らぎを乱すまいと、大樹を挟んで反対側に腰を下ろした。
居心地のいい広場だった。頭上に茂る枝葉の隙間から日の光が差し込んでいる。彼女がここで本を読むのがわかる気がした。故郷にあるコセリメージュの木を思い出しながら、アマネールは無心で雲の流れを眺めていた。
アマネールは夢を見た。
目に入るのは燃え盛る炎のみ。体の感覚が薄れており、うまく息が吸えず、助けを呼ぼうにも声が出ない。その場から逃げ出そうにも、足が踏み出せなかった。
突然、震える声がした。今際の際で、誰かが救いを求めている。死の縁で、誰かに願いを届けようとしている。そんな声が、アマネールの体内で反響したのだ。
然れども、彼の体は依然として動かない。今にも消えゆく命の灯を前に、アマネールは何もできなかったのだ。
このまま動けなければ、僕のせいで人が死ぬ。僕が......僕が動かないと。僕のせいで......。
アマネールは飛び起きた。視界を蝕んでいた炎は跡形もなく消えている。少年の前にいたのは、まだ名も知らない一人の少女だった。
「君、大丈夫? ひどくうなされてたみたいだけど」
具体的な夢の内容を、アマネールは思い起こせなかった。彼にあるのは、大切な何かを失ったという喪失感だけだった。
「すごい汗」
少女はそう言って、アマネールの額をハンカチで拭いてくれた。アマネールは顔どころか、服まで汗でぐっしょり濡れていた。
「......ごめん、ありがとう」
アマネールはしどろもどろに礼を言う。
「いいよ。気にしないで......綺麗な青ね。なんだか惹かれる」
ふと、少女はアマネールの天結に目を留めた。
「君、繋がりし者だよね? だけど記憶が戻ってない」
目を丸くしたアマネールに、少女はふふっと笑いかけた。
「なんでわかったの? って顔して。あ、起きなくていいよ。無理しないで。私も似たような経験あるからさ、だからわかるの」
瞬間、息を呑むほどに美しい白鳥が現れた。西日を浴びる透き通った体は、ダイヤモンドさながらに煌めいている。
「私はユリ・アダマス。見ての通り、白鳥座の星霊使いだよ。かわいいでしょ?」
アマネールはオルナメントの説明を思い出した。繋がりし者は黄道星座以外の星霊を宿す。白鳥座は黄道星座に含まれない。つまり、ユリも繋がりし者なのだ。
「僕......記憶戻るかな? 今見ていた夢だって、まるで覚えてないんだ」
自らと同じ境遇らしき少女に、アマネールは前々からの不安をぼやいた。
「大丈夫、必ず戻るよ」
ユリはきっぱりと言い切った。
「君さえよければ、私に記憶を戻す手助けをさせてよ。エリダヌス川の向こうにある、選手寮の右棟十六号室。私は普段ここにいるから。いつでも待ってるよ」
どぎまぎするアマネールに、ユリはハンカチを差し出した。
「ごめん、私はもう行かなきゃ。友達と約束してるの。これ、あげる」
「受け取れないよ」
アマネールは焦ってハンカチを突っ返す。
「じゃあ貸してあげる。君、まだ汗びっしょりだもの。もしイエスだったら、選手寮まで返しに来てね」
半ば無理やりハンカチを押し付けて、ユリは足早に大樹のもとを去っていった。




