第二章⑤ 福腹亭
アマネールが店を出ると、日は西に傾いており、淡い紅の夕映えがあたりを包んでいた。店の向かいにあるベンチの上で、ノアが両手を枕に寝ころんでいる。
「よ。さっきぶり。オルナメントの子守歌は楽しめたかい?」
ノアはこちらに手を振り、むくりと起き上がった。
「君の面倒見ろって命令だ。悪いけど、付き合ってもらうぜ」
そう言って歩きだしたかと思えば、彼は颯爽と振り返った。
「素敵じゃないか、それ」
ノアはアマネールの耳を指さし、涼しげに笑うのだった。
しばらく歩き、二人は商店街に辿り着いた。入り口に立つ門には、『トレッフュ』と書かれた文字が光っており、その端に特徴的なランタンが添えられている。
門をくぐると、浮世離れした光景が広がっていた。底に金属の装飾枠が施され、中央に光源のある卵型のランタンがそこここで灯っている。ランタンはまるで宝石のようで、青や赤、黄や緑に光るものまで様々だ。
気づけば日は沈んでいて、上空にはエステヒアで見たのと同じ、底抜けに美しい星空が広がっていた。
無数のランタンと瞬く綺羅星のおかげか、たしかに夜なのに、夜という気はしなかった。ちかちかする目をしばたくアマネールに、ノアは満足げに声をかけた。
「トレッフュ商店街へようこそ。俺からはぐれんなよ。この時間は混むからな」
ノアが言った通り、あたりは通行人で賑わっていた。
少し目を凝らせば、商店街の本通りを外れて、ベルベットの絨毯でくつろぐ人たちや、鉤爪脚のテーブルを囲む人たちも見える。いろいろなものを見逃すまいと、アマネールが四方をきょろきょろしながら歩いていると、突如目の前にピザが差し出された。
「どう? お兄さん。アツアツのピザ。今晩なら特別に五トレスティでいいよ」
ピザをくるくると器用に回すのは、アマネールよりも一回り小さい男の子だった。あろうことか、少年の体は半透明で、銀色に煌めいている。得体のしれない少年を前に、アマネールの口はあんぐりと開いた。
「騙されるなよ、アマネール。特別なぼったくりだ。普段は三トレスティさ」
さも当然のように、ノアは男の子に反論する。アマネールは口をパクパクと動かしたが、二の句が継げなかった。
「こいつはカル。双子座の星霊の一人だ。もう片方はあそこ、料理上手のポルさ」
ノアが指さした先には、慣れた手つきで露店を切り盛りする少年がいる。見てくれはカルと瓜二つで、体が銀色に透き通っていた。
その店の傍らでは、ベレー帽をかぶった細身の男が肘掛椅子に腰かけている。暢気そうにパイプをくゆらす彼は、どうやら双子座の星霊の主らしく、胸元には真珠のネックレスが光っていた。
「星霊が......喋った?」
ようやくアマネールの口から声が出た。あにはからんや、人ならざる超常的な存在と言葉を交わす日が来るとは。
「当たり前だろ? 双子座は人がモチーフの星座なんだから。牡牛座の星霊が、実際の牛みたく牛車を牽くのと同じだぜ」
いまだに双子座の星霊に釘付けのアマネールに、ノアはにやりと笑った。
「ゴーストっぽいだろ? らしくっていいよな。いかにも死後って感じでさ」
カルの熱心な押し売りをなんとか退け、ノアとアマネールは商店街の奥へ進んだ。
ポルが調理する露店の他にも、トレッフュには多くの店が軒を連ねていた。とりどりのスナックを販売する店もあれば、中から歌声が聞こえてくる店もある。
活気に満ちた商店街の突き当りで、ノアはようやく足を止めた。
「福腹亭、通称フクフク。俺の行きつけなんだ。超うまいんだぜ」
店内に足を踏み入れると、食欲をそそる香りが鼻腔をくすぐった。正面に設置された半円形のカウンターでは、客たちが肩を並べて座っている。
入り口の左右には丸テーブルが配されており、片方は客たちで賑わう中、もう片方には少女が静かに座っていた。艶のある黒髪が肩のあたりまで伸びている。だからこそ、次にノアがした発言には驚いた。
「彼がグレイ。さっき話したろ? おかっぱ嫌いのグレイだ」
「彼?」
アマネールは思わず聞き返す。
「よしてくれ。僕だって違和感しかないんだから」
心底嫌そうに、グレイが口を開いた。声色は紛れもなく男児のものだ。グレイはこの世界でかれこれ三週間になるそうだが、今なお髪型に不満があるらしかった。
「グレイ・ルーミスだよ。よろしく」
「こちらこそ。僕、アマネール・アズール」
席に落ち着いてから、二人が挨拶を交わす。アマネールやノアと同じく、グレイも今年で十四歳だそうだ。
グレイは左手の人差し指に指輪をつけていた。銀色の光沢を持つリングの石座には、海のように澄んだ石が留められている。アマネールが宝石を眺めていると、「アクアマリンだよ。僕、三月生まれだから」とグレイが説明してくれた。
これを受けたノアは、負けじと彼の天結をひけらかした。ネックレスのトップ部を飾る黄色の宝石は、十一月の誕生石のひとつ、シトリンだそうだ。
他愛もない会話に花を咲かせていると、一人の星霊がテーブルに赴いた。
思わずアマネールも見惚れてしまったその女性は、乙女座の星霊に違いない。煌めくショールに身を包んだ彼女は、桃色に透き通っている。彼女は妖艶に微笑むと、手に抱えた金色の盆から、チャイグラス風に装飾されたグラスを三つ出してくれた。
「見ての通り、本土では誰もが星霊を呼び出す。慣れないかい?」
乙女座の星霊が去ってもなお、ぽかんとしているアマネールにノアは笑いかけた。
「オルナメントに聞いたろ? かつてアリスの星霊が暴走しちまったって。その名残で、エステヒアの住民はなるたけ星霊を呼び出さずに暮らしてるのさ。代わりに煌玉宗がいるのはそういうわけだよ。
今となっては天結があるし、別段暴走の危険はないんだけどな。ただの風習だよ。そんなエステヒアと比べて、本土じゃそこいら中に星霊がいる。大丈夫、じきに慣れるぜ」
言われてみれば、アマネールはルエラや長老が星霊を呼び出すのを見たことがなかった。
艶めかしいウェイトレスに続いて、カウンターの奥から女主人が姿を現した。今度は正真正銘、本物の人間だ。大柄で豊かな体つきの中年女性で、赤みがかった茶色の髪を丸く束ねている。
まとめられた髪には、一本の簪が刺さっていた。簪の先端には、今ほどの乙女座の星霊を思わせる、桃色に澄んだ宝石がついている。
「いらっしゃい。三名でいいかい? おや、あんた見ない顔だね。名前はなんてんだい?」
ぎょろりとした大きな目がアマネールを捉えた。
「アマネールです」
「遠路はるばる、エステヒアからのお客さんだぜ」
付け加えたのはノアである。
「へえ。そりゃ大層なこった。嬉しいねえ。私はアルヴィナ。ここの店主だ。たんとお食べ、アマネール。今日は負けてやるからね」
すかさず拳を握りしめたのもノアである。
「安心しろ、てめえは定価だよ」
アルヴィナは豪快に笑い、カウンターへ戻っていった。
「ちぇ、最近厳しいってのに」
「君の計画性のなさに敵う者はいないね」
呆れたようなグレイの口調に、アマネールはウテナからのもらい物を思い出した。ポケットから巾着を取り出し紐をほどくと、中から硬貨がじゃらじゃら出てきた。
「うへぇー、ペガスス金貨じゃないか。五十枚はあるよ」
グレイがたまげたような声を出す。彼が言った通り、金色に輝く硬貨の表面には天馬が意匠されていた。
「おいおい。泣かしてくれるね。俺なんてこれが全財産だぜ」
ノアの手のひらには三枚の銀貨があった。よく見ると、銀貨には鳩があしらわれている。
「あげるよ。よくわかんないけど」
アマネールは金貨をつまみ上げた。
「泣かしてくれるじゃねえかぁ」
ノアがわざとらしく声を震わせる。彼の大根演技をよそに、アマネールの興味はもっぱら別のことに向いていた。
「このぺガススって、アリスの星霊のぺガスス? 今でいう、ウテナ女王の星霊のぺガスス?」
「そうさ」
ノアはさも当たり前のように言う。
「じゃ、この鳩は?」
アマネールはノアの全財産から貴重な一枚をひったくった。
「そっか、君ここに来て浅いんだっけ」
「む」
アマネールが顔をしかめる。
「天命戦が絡んでるのさ」
天命戦とは、星霊による支配体制をめぐって起きた大戦争である。
「三百年前の当時、アリスには二人の親友がいたんだ。一人は、ハル・アミタユス。彼は鳩座の星霊使いだった。もう一人は、ダフラ・ヴェールコルヌ。彼女は一角獣座の星霊使いだ。
君もご存じの通り、アリス一派が共に天命戦を戦い抜いたからこそ、今の我々の暮らしがある。だからその栄誉を称え、硬貨の表面を飾っているというわけさ。金貨がぺガスス、銀貨が鳩、銅貨がユニコーンって具合にな」
ノアは続けて説明してくれた。
「ちなみに金貨の単位はヌーヴェル、銀貨はオルキデ、銅貨はトレスティだよ」
グレイはそう補足した。
「へえ。大分詳しく伝わってるんだね」
アマネールがアリスの仲間について聞いたのは初めてだった。
「そりゃそうさ。天命戦は歴史の転換点だぜ? むかし嫌というほど聞かされたよ」
「もしかして、アリスと相対した禍黎霊使いについても?」
アマネールは心臓がとくんと脈打つのを感じた。
「厄介だったのは、ケンタウルス座にオリオン座。この二人で禍黎霊使いを率いてたらしいぜ」
「蛇座の禍黎霊使いとか、いなかった?」
アマネールはあたかも何の気なしに聞いた。アリスの星霊が現代まで継承されているのだ。禍黎霊使いに繋がりがあっても不思議ではない。それにもし、天命戦当時に蛇座の使い手がいたのなら、エステヒアの襲撃に関する手掛かりになる可能性は極めて高いーー。
「さあ? 知らねえな」
しかし無情にも、ノアは答えをくれなかった。
「へい、おまち」
会話をぶった切るように、アルヴィナが再びやって来た。とてつもない量のパスタを盛った巨大な皿を手にしている。
「一つの皿を皆でつつくってのが、福腹亭の流儀でね。友と囲む食卓が一番だよ」
アルヴィナはウインクして言った。ノアが舌なめずりをする。アマネールもまた、眼前に漂う芳醇な香りで、蛇のことなど頭から吹っ飛んでいた。
「君、本当にエステヒアから来たの?」
パスタをフォークに巻き取りながら、グレイはうきうきで尋ねた。興味を持つのも無理はない。本土の人間からすれば、エステヒアから来たアマネールは異国人も同然なのだ。だからグレイもノアも、たくさんの話をアマネールに聞きたがった。
エステヒアに貨幣制度がないのは本当か、夜に葉が光る大樹は実在するのか、学校はないのか(本土にはあるらしい)。などなど、しばらくアマネールは質問攻めにあう羽目になった。
「あれもこれも、羨ましいったらありゃしない。噂通りだぜ。まさに楽園じゃねえか」
一通り話を聞いたのち、ノアは恨めしげな声を上げた。
アマネールにとっても、この時間は特別だった。なにしろ、この世界で初の同世代との出会いである。食べ終わっても話は尽きることを知らず、店を閉めるからとアルヴィナに追い出されるまで、三人は盛り上がり続けた。
こうして、彼らはすっかり友達になった。




