第二章③ 噂話
ウテナに連れられて、アマネールはバジュノン宮殿を後にした。刺又型の階段を下り、宮殿前に広がる庭園を歩いていると、彼女は不意に足を止めた。
「相変わらず無碍なんだから。ここはあなたの寝床じゃないって、何度言ったらわかるのよ」
ウテナの先には、ふかふかの芝生に寝ころぶ少年がいた。声を掛けられた彼は、ゆっくりと上体を起こした。
「あのねえ、お姫様。誰が悲しくて、天国に来てまで学校に行かにゃならんのです。遥かなる空を漫然と見つめ、儚げな蝶の羽ばたきを眺める。これこそが我ら死人のあるべき姿、分相応の嗜みってものでしょう?」
昼下がりの心地い風に、ブロンドの髪がなびいている。澄んだ水色の瞳をした彼は、一言で表すなら、少々ワルそうな見てくれであった。
細い金色のチェーンに、いくつか異なる形状のチャームが付いたネックレスをかけている。淡青や朱色に煌めくチャームの中央には、しずく型の黄色い宝石が輝いていた。
「なーに言ってるの、虫苦手なくせに。私知ってるのよ、昔あんたが蜂におびえて......」
「わーかった! わかった!! わたくしめにお任せください、ウテナ女王陛下。この通り、何でもしますから」
この通りとか抜かす割に、彼は謙るどころかふんぞり返っている。なんだかおかしくなって、アマネールは吹き出してしまった。
「この少年、アマネールをオルナメントさんのところへ連れてってくれる?」
ウテナがそう言うと、少年の視線がアマネールに向いた。
「お安い御用ですとも。俺、ノア・バートレット。よろしく」
立ち上がった彼の背は、アマネールよりもひと回り高い。ノアは慣れたように微笑むと、勢いよく手を差し出してきた。
「これ、持っていきなさい」
手を握り返したアマネールに、ウテナがひっそりと耳打ちする。彼女がアマネールの空いている手に持たせてくれたのは、一つの巾着袋だった。
「計画的に使うのよ」
◇◇◇◇◇◇
「かれいりょうだって?!」
ノアがすっとんきょうな声を上げた。如何にしてアマネールが今に至るのかを、歩きながら説明していたところだった。
「おいおい、まじかよ。そんなのおとぎ話の世界だぜ......」
たしかにおとぎ話のようだ。宮殿前の大通りには、牡牛座の星霊が牽く豪華な牛車が並んでいる。エステヒアで見かけた光景とは、はるかに規模が違った。何頭もの半透明に煌めく牛たちに、アマネールは改めて星霊の神秘さを感じた。
「でも僕、はっきりと見たんだ」
「全身に揺らめく漆黒のもやを纏うくせ、眼球だけは白く光ると言われている、あの禍黎霊を?」
「そうさ」
昨晩の蛇を頭に思い浮かべ、アマネールは答える。
それからアマネールは、冥跡と呼ばれる煤のような痕跡、一定時間で消える禍黎霊の足跡についてもノアに話して聞かせた。
「ひょっとすると例の噂、あながち本当だったりしてな......えーと、八年前だったか?」
ノアの目つきは、神話に伝わる秘宝の手がかりを掴んだかのようだ。
「それ、噂じゃない。真実だと思う。君は何か知ってるの?」
エステヒアでクレアがした話を思い出しながら、アマネールは問うた。たしか八年前、何者かが禍黎霊を顕現したのだ。
「その昔、人々に紅の鷲と称された星霊使いがいたんだ。メイエールの最高傑作と謳われてた。とてつもなく強かったんだぜ。でも、八年前のある日。彼は忽然と姿を消しちまった。不思議だろ? その事件が、禍黎霊を操る連中の仕業だって言われてるんだ。
悪いけど、これ以上は詳しく知らないよ。俺、ここに来たの三年前だし。ただ、当時は大騒ぎだったらしいぜ。未だにオカルト好きな連中が噂してるくらいだ」
メイエールとは、エステヒアや本土と並ぶ死後の世の浮島の一つである。ノア曰く、メイエールは星霊使いの教育に特別力を入れているらしい。そんな島の最高傑作ともなれば、さぞ優秀な星霊使いだったのだろう。突如行方をくらませでもしたら、世間が騒ぐのも納得である。
だがノアがしてくれた話は、本質的にアマネールが欲しい情報ではなかった。少なくとも、昨夜のエステヒア襲撃とは関連性がないように思える。
「へえー。そりゃ星斗会も注目するぜ。なんたってアリス・シアステラ以来の人材だ。エステヒアに降り立った繋がりし者は」
話題がアマネールの身の上に変わると、ノアはウテナと似たようなセリフを吐いた。全くもってアマネールに自覚はないが、どうやらすごいことらしい。
「何でそこまで......僕、アリスとは別人なのに」
「んなことはわかってる。君はいたって普通の少年だ。問題なのは君じゃなくて、エステヒアの繋がりし者って肩書だよ。英雄アリス・シアステラと同じ境遇ってのがポイントだ。考えてもみろよ、ここ三百年に二人しか現れなかったんだぜ」
「なんだかなぁって感じ。そもそも繋がりし者って言われても、僕心当たりないよ。前世の記憶だって曖昧だし」
「さては君、すんなりと容姿を受け入れられたんじゃないか? たとえ記憶がなかろうと、体に馴染んだ魂の欠片のおかげで、繋がりし者は自分に抵抗感を持たないんだって。かわいそうなグレイなんてな、未だに髪の毛に文句言ってんだぜ」
グレイってのは俺の友達、あとで紹介するよ。とノアは陽気に付け加える。
「あと、死を受け入れがたいってのも繋がりし者の特徴らしいぜ。今度は逆に、死の認識を試みると前世の魂が反発するんだってさ......ちょっと、わりい。くしゅん! 何だ? 噂でもされてんのかな。蜂にびびるノア・バートレット、突如庭園から姿を消す? とか言って」
最後の冗談はさておき、ノアの言うことには確かな心当たりがあった。
「......おいおい。いくら俺が虫嫌いだからって、無視はよくないぜ、なあ?」
こういうとき、一陣の突風でも吹いてくれれば、居心地の悪さも少しは和らぐのだろう。しかし依然として、庭園には心地よい風が吹いていた。清らかな水色の目を細め、ブロンド髪を風にそよがせる、まるで絵画から出てきたような風体のノアが、残念に見えてならなかった。
◇◇◇◇◇◇
バジュノン宮殿にて。軽快に歩く少年らの背中を、高くから見下ろす二人がいた。
「どうしてです? ダスランのもとで修業に専念すれば、瞬く間に秀でた力を得るでしょうに。アズールの血を引いているなら一層です」
セフィド・ムルパティが提案する。
「ちょうどいいじゃない。大人が過度に干渉するのは良くないわ。せっかくの縁です。アマネールはバートレットに任せましょう。見かけによらず、思いやりのある子です。きっといい方に進みますよ。
それとセフィド、さっき余計なことを口走ったわね。気をつけなさい。アマネールはまだ記憶が戻ってないの。仮に戻ったとして、その記憶が彼に関連するかどうかもわからないし。なにより、彼が来たのはもう十年以上も前なのよ。当時アマネールはほんの子供だわ。ゆめゆめ忘れないで、アマネールはエステヒアに送られたの。これ以上、彼の心をえぐる真似をしたら許さないわよ」
ウテナ・アミタユスは再度側近を咎めていた。
「その節は本当に、申し訳ありませんでした」
「許しましょう。早とちりはセフィドのお家芸だものね」
ウテナはわざとらしく柳眉を寄せて言った。
「あの子を本格的に修業するのは、彼の星霊が完全顕現してからです。それまでは、最大限慎重にならないといけないわ。無理に記憶を戻したら、アリスの二の舞になりかねない。それに、アマネールがエステヒアの繋がりし者なのは偶然じゃない。私としてはそう思う。もちろん、アズールの血を引いているのもね」




