第二章① 星霊の住処
翌朝。まだ空が暗いうちに、アマネール・アズールはハル・エトワーレ広場へと向かった。
その中心に立つコセリメージュの木の傍らに、クレアがひとり佇んでいる。アマネールが目をこすりながら挨拶をした直後、彼の眠気は上からの強風に吹き飛ばされた。
気球が降下するように、空から巨大な船が現れたのだ。案の定と言うべきか、その船体は淡紫色で、半透明に輝いていた。
「アルゴー船。アルゴ座の星霊よ」
クレアはさも当たり前のように告げる。
ほどなくして船は広場に着陸した。広々としたデッキには、こちらに手を振る男が見える。両肩から緑のラインが映える白装束の彼こそ、この星霊の主に違いない。
男は金糸の帯で腰を締め、金枠で縁取られたブローチを胸に着けていた。胸飾りの中央には、アメジストだろうか、澄んだ薄紫色の宝石があしらわれている。
アマネールたちが乗り込むと、船はゆっくり上昇し始めた。当然ながら、アマネールがエステヒアを上から眺めるのは初めてだ。地上にいるときから薄々感じていたが、この街は見事な円形を描いている。上空から俯瞰すると、その構造がより明確になった。
次第に船の高度は上がり、エステヒアはみるみる小さくなっていった。
◇◇◇◇◇◇
見覚えのある景色だった。周辺が純白に包まれており、ものというものが何もない。これほど純一無雑な空間を、アマネールは一つしか知らなかった。空色に澄んだ小獅子座の星霊に乗る、不思議な老婆と出会った空間である。
「ここは......?」
アマネールが尋ねると、白装束の男は意地悪げに笑った。
「星雲海、星霊の住処さ」
思わず甲板から身を乗り出し、アマネールはあたりを見渡した。だが、周囲にそれらしき姿は見当たらない。てっきり先日見た鯨座の星霊や、魚座の星霊が泳ぎ回っていると思ったのに。
「童話じみたこと教えないで。ハウレット」
クレアがたしなめた。
「いいじゃないか。子供は夢を見るもんだぜ?」
クレアは「まったく、男の人って仕方ないわ」とか言いながら、アマネールに星雲海について教えてくれた。
「残念だけど、ここに星霊は住んじゃいない。正確には、星霊を顕現した人でないと立ち寄れない領域ってところね。生身の人間には、意識を保てる時間に限界があるの。君も経験あるでしょう?」
そう言ったクレアの周りには、灰色のもやがほんのりと漂っている。
アマネールも彼女に倣おうと、足周りに力を込めてみた。蛇座の禍黎霊と対峙した際には、そうやって星霊特有のもやが顕現したのだ。しかし今、アマネールの周囲にもやは現れなかった。
「繋がりし者が星霊を顕現するのは、そう簡単じゃないのよ。私も苦労したんだから」
もどかしそうなアマネールを、クレアは懐かしそうに見つめている。
「でも大丈夫。君、才能あると思うし。またエステヒアに帰ってくる頃には、完全に顕現できているわよ」
「完全に顕現?」
アマネールがオウム返しをすると、クレアはくすりと笑った。次の瞬間、彼女の背中から灰色に煌めく翼が生えた。
「星霊の完全顕現とは、単にもやを纏うだけにあらず、霊として宿す星座の特徴がはっきり現れた状態を言うの。結束式の星霊使いは、それができて一人前と言われてるわ。ほら見て。どう? 私は結束式、烏座の星霊使いなのよ」
さらにクレアは、星雲海の霧の濃さが季節によって変化することを教えてくれた。
見ての通り、晩夏の星雲海に漂うのは白一色の霧である。この霧は冬に向かうにつれ濃ゆくなり、十二月から二月にかけて最高潮に達するそうだ。二月上旬の星雲海は、どす黒い霧で支配されるばかりか、天候も著しく荒れるため、このような島間の移動ができないとのこと。
ただ、春先になると、限界まで凝縮された霧がはじけ飛び、星雲海一帯が晴れ渡るそうだ。霧が晴れたこの数週間だけは、星霊を顕現せずとも星雲海で意識を保てるらしい。
やがて薄い霧がかかり始め、夏の終わりにはこうして純白に染まるという具合に、一年を通して霧の濃さが循環するそうである。
言われてみれば、以前より霧が濃くなった気もする。アマネールがそう思った直後、無意識に首がかくんと落ちた。
「言ったじゃない? 生身の人間には意識を保てる時間に限界があると。朝も早かったし、素直に寝ていなさい。着いたら忙しくなるわよ」
クレアが翼をしまったのを最後に、アマネールの視界は閉ざされた。
◇◇◇◇◇◇
次に目が覚めると、そこは別世界だった。日の位置から察するに、時刻は昼下がりなようだ。アマネールの隣にはクレアがいる。アルゴ座の星霊使い、および彼の星霊である淡紫の船は跡形もなく消えていた。
正面には、二股に分かれた大理石の階段が延びている。階段の両脇には、精緻に鋳造された銅像が設置されていた。
左手に立つのは、誇らしげなたてがみと螺旋状にねじれた一本角を併せ持つ、神秘的なユニコーンの像。右手に立つのは、不屈の精神を体現したかのような、太い筋肉を持つ男の像だった。片手に掲げる棍棒からも、その逞しさが見て取れる。
枝分かれした階段の先には、白亜の宮殿がそびえていた。荘厳かつ壮大な宮殿へと続く階段の麓に、アマネールは立っていたのだ。
後ろを振り返ると、絵画のような庭園が広がっていた。芝生は整然と刈り込まれ、花壇が幾何学的に配置されている。遠くには彫刻の噴水が見えた。
「本土へようこそ、アマネール。ここはバジュノン宮殿。星斗会の本部よ」
クレア曰く、星斗会は死後の世の最高権力機関とのこと。本土のみならず、エステヒアからメイエールまで、あまねく世界の政治を担っているらしい。
クレアの後について階段を上り、アマネールはバジュノン宮殿の扉をくぐる。宮殿内には、それはそれは豪華な内装が広がっていた。大理石の柱が何本も立ち並び、天井高くからシャンデリアが吊り下げられている。
アマネールを待ち受けていたのは、一組の男女だった。男は先ほどのハウレットと同様に、白装束に身を包み、胸に金色のブローチを着けている。
女の方は、目を見張るほど華麗な格好をしていた。空色のクリスタルが嵌め込まれたティアラ。優美にまとめ上げられた髪。繊細な装飾が施された額。宮廷衣装のような、白と青を基調にした重厚な装い。どれをとっても気高い佇まいの彼女は、一挙手一投足に気品が満ち溢れている。
いかにも位が高そうな女性を前に、クレアはお手本のようにひざまずいた。慌ててアマネールもそれに倣う。
「ただ今アマネールを連れて参りました。ウテナ女王陛下」
「ご苦労様」
ウテナと呼ばれた彼女の声色は、見かけによらずはつらつとしていた。
「では、私はこれで」
挨拶を交わして間もなく、クレアは立ち上がった。
「無茶な上司を持つと大変ね」
「ええ......光栄です」
クレアは優しく微笑むと、すぐに去っていった。
「顔を上げて、楽にしてください」
口を開いたのは、ウテナの横にいる男だった。
「私はセフィド・ムルパティ。こちら、この世界の女王にして星斗会の総帥、ウテナ・アミタユス様の側近です」
ムルパティが軽く会釈をする。続けてウテナが発言した。
「突然ごめんなさいね。戸惑うわよね、こんな大層なところに連れこられて。私から伝えたいことがあって、今日は来てもらったの」
「僕に......ですか? 女王様が?」
本土に来て早々大事である。世界を治める君主からの御鞭撻があろうとは、アマネールは夢にも思わなかった。
「そう。私から、君に。この世でたった一人の、特別な星霊使いにね」
ウテナは艶やかにほほ笑んだ。




