一回目の、まだ何も知らなかった頃
「カナリア! ここに居たんだね!」
浮かんでいた虹色のシャボン玉が、声に驚いたように弾けて消えました。
それを私は、まるで儚い人の命のようだなと、そんな風に思います。
村の御神木の前に築かれた石階段に座りながら両手で挟んだ植物の茎を通してシャボン玉を吹いていた私は、自分の名前を呼ぶ声の方へ視線を向けます。
駆け寄って来るのは、大きく手を上げて存在をアピールする一人の少女でした。
「おはよー、スバル」
「おはよ! もうこんにちわの時間だけどね」
幼馴染であり同い年の私達は、お互いに気兼ねなく挨拶を交わします。
私の目の前で足を止めたスバルは柔らかく笑いました。親しみの込められたその表情に、あったかい気持ちで私も微笑みを返します。
「さっき白菊を見つけたから摘んできたんだ。ほら見てよ、綺麗でしょ?」
「わぁ、ほんとだ。白菊が咲いたら、もう秋って感じだね」
「だよね! はいこれ、あげる」
スバルがそう言って、私に両手で挟んだ白菊をそっと差し出しました。白くて細長い花弁が沢山集まった、ミントやハーブのような清澄な香りの花です。
私はシャボン玉に使っていた植物の茎をそっと脇に置いて、それを受け取って胸元に添えるように持ってみます。
「ありがとう……でもなんで?」
「カナリアは可愛いから、ボクよりも似合うと思って」
「また恥ずかしげもなくそんな口説くようなことを……スバルってやっぱり、前世は歌舞伎町でホストでもやってたんじゃないの?」
「だから違うって言ったろ?」
肩を竦めながらスバルが私からの嫌疑を否定しますが、私は尚も疑惑の眼差しをスバルに向け続けてしまいます。
自己申告なんて信用できません。
ですが鬱陶しいでしょうから、それ以上の言及はしないようにしました。
地球人の転生先に来る前の私は、病気がちの女の子でした。
中学生で、恋人が出来た事もなくて、学校のクラスでも目立たない道の隅っこを歩いていたような、そんなどこにでもいる普通の日本人だったんです。
それがある日、ウイルス性の流行り病に罹ってあっさりと短い生涯を終えました。死に際も、人生も、誰かに語って聞かせたくなるようなドラマなんて何にもありませんでした。
聞くところによると、サンサーラに転生する人達は私と同じように天寿を全うする事が叶わなかった人間だという話です。
病気か事故で命を落とした、だいたい三十歳以下の若い人間達。
それなのに、そんな人達がどうして命を大切にして平和に生きる事が出来なかったのでしょうか?
この里の外では、戦争が絶えないと大人は言います。
命を奪い合う事に嫌気が差した私達の先祖は、まだこの世界の住人が踏み入っていない深い森の奥へと分け入って、ここに辿り着いたのだという話です。
人類未踏の聖域。
狩りと栽培が生活基盤の、フィンチ族と呼ばれる私達少数部族が暮らす秘境の名。
ありがたい話だなと、私は思います。
今度こそは寿命が尽きるまで生きてみたいし、前世ではできなかったことも沢山したいんです。
恋愛とか、結婚とか……家族を作るとか、そういったことを。
でも残念なことに、このサンクチュアには同年代の男の子なんていないんですけどね。たった百人弱しかいないような小さな集落なので、そういったことが起こるのは仕方ないんですが……。
上でも下でも、年の離れた人が結婚相手というのは恋愛結婚が当たり前だった社会で生きていた私にはあまりピンとは来ません。
たぶん選り好みなんて出来なくて、流されるようになるようになるんだろうなと私は諦めにも似た悟りの中にいますけど。
「カナリア……なんか、変じゃないか?」
「え、なにが?」
「ほらあっち、村の方」
そう言ってスバルは自分の来た方向、太陽の真下にある道を指差しました。
両手で挟むように持った花を胸に抱いて、肌を撫でていく風の心地良さを堪能していた私は、その指の先に目を向けます。
赤く揺らめく光と黒い煙が、不吉な予感と共に私の視界に映りました。
私達の村が燃えています。
炎と黒煙。
聞こえてくる怒号と悲鳴……そしてエンジン音と銃声。
「なに、あれ……」
私は呆然と呟きます。
「わからない……けど」
私より幾分か落ち着いている様子のスバルが、それでも声を震わせながら私の手に触れて来ました。
「逃げよう、カナリア……!」
逃げるって、どこへ?
焦った顔のスバルに手を引かれても、私の足は動きませんでした。
前世のパパとママとは違いますが、この世界の両親だっています。
お母さんは私をいっぱい可愛がってくれます。
うちの子の魂はウルトラレアだって。
ガチャのレアリティみたいな、苦笑いしたくなる表現をしたりもするけれど。
今逃げたって、帰ってくる場所はきっと無くなってしまいます。
これまでの生活を捨てて泥水を啜ってでも生きる覚悟を、私は咄嗟に決められませんでした。
その道の先に地獄が待っているなんて知らなかったからです。
「おい! こっちにも二匹獲物がいるぞ!」
「ひゅー! まぁじで大量じゃねぇか! いくらになるか想像もつかねぇぜ!」
村の方から走って来た装甲車、その上部ハッチから上半身を出している二人組が喜色を浮かべて交わした会話を、私の鋭敏な聴覚は聞き取ります。
彼らが手に持つ銃を見て、私の心は暗鬱とした諦念に染まりました。
私達フィンチ族は、言うなれば獣人です。
手と足は肉球グローブを着けたようになっていて、緻密な道具を使いこなすのは至難なんです。
銃を奪って使うといったやり方で対抗するようなことはできません。
そもそも私は、武器を扱えたところでどうせ戦えないでしょう。
人を殺すなんて、そんな恐ろしいことをするのは無理です。
装甲車が私の座る石階段の前で停止しました。
機敏な動きで二人組が装甲車から降りてきて、こちらに銃口を向けながら私達の所まで慎重ににじり寄ってきます。
「へー、見た目は悪くねぇな。ちょっと味見するか?」
「ばか、ロリコンかよ。それに、あの鋭い爪や牙でちょん切られでもしたらどうすんだよ。下手なことしねぇで売り捌けば、もっといい女をいくらでも抱けるっての」
「それもそうか」
一人の男が私達に銃を突きつけたまま、もう一人の男が私達の両手に手錠をしました。
そうしてから男は私達の髪を掴んで半ば引き摺るように装甲車まで持っていって、乗せられます。そこで足枷もされて、口も布を巻かれて塞がれました。
そうしている最中に男がついでのように呟いた言葉は、私の頭の中で一生響き続ける事でしょう。
『テメェらだけ寿命で死ねると思うなよ』
この世界で巻き起こっている争いの原因は、他人の幸福が許せないという……嫉妬なのかもしれません。