4,フリカッセ
ハオランは目を覚ました。今が朝で無いことを分かっているのでしょう。彼が困惑している様子を見るのは初めてだった。真っ暗な部屋の衛生状況は良くないものだ。この汚い街ならば特に汚れやすい。だからこそ、僕はハオランの為に美しい暗闇を用意しなくちゃいけなかった。
「不好。私、まだ生きていますね。それはまぁ、好。貴方が素敵な人でよかった。ここは、屋上ですか」
「えぇ。神が見やすい様に。まぁ、誰も来やしないよ。僕らと、天の神様だけ」
吹き荒ぶ夜風はあの優雅な世界を忘れたようだった。星は脚元に墜ち、太陽は遠くの空へ消えて久しい。まさしく美しき清潔な暗闇だった。何も無い屋上、一脚の車椅子に座ったハオランと身の丈に合わない外套を脱いだ僕。
「怪我ひとつ無いと逆に困惑しますね。ついでにこの腕にある邪魔な装飾も無いと困惑せずに済むんですけれどね」「では殴って差し上げようか?」「いいえ、遠慮しておこう」
彼の顔をまじまじと見る。大理石で作った彫刻の様な美しい顔立ちだ。血の一滴でも流そうものならば、この表面を滑走して滴り落ちるだろう。高い鼻と、薄い唇。なんだか、見れば見るほど僕とは似ていないように思えてきた。悲しくて、虚しくて、僕の大切な人ではないのだと証明する証拠ばかり出てくる。
「不好、盲点だった。ワイングラスか、それか料理。あの店の店員もグルなんだな。不好。これはまずい」
廃ビルの管理は杜撰で、屋上ともなると、安全の為に張られた柵が破けて居ても気にされない。都合良く、そこから落とそう。傲慢なイカロスか、勇敢なヘルメスか。ゆっくり、時を刻む様に、一歩、また一歩と車椅子を進める。キシキシと音を立ててタイヤは懸命に彼を運ぶ。ハオランの腕に血管が浮き出し、僕の顔を見詰める。声を出さないのは最後のプライドなのだろうか。爪がくい込んで血が滲んでいる。なんて虚しいことだろう。彼の命は随分と長くて、二十年か三十年か、それほどの時間を宿した身体だ。二、三十年の長い間、空気を読んで、善を察して、学ばされて、選ばされてきたのだろう。なんて虚しい人だ。
「過去の被害者、あの十八人と同じように私も殺すつもりですね。不好、無視されるおつもりで。まぁ構いませんよ、どうせ貴方には何も出来やしないんですからね。信念のない貴方には、何も」
なんて虚しい人だ。ハオランは荒々しい口調になって畳み掛ける。その熱に反して、僕の心の熱は冷めてきた。
「目的も、大義も信念もちゃんとあるよ。でもね、今回はどうにも思い付かない。君以外の全員、居なくなっても良いのに。君一人、いなくなってしまうのが惜しいんだ。僕は分かったんだ。為す術なく行われる悪は惨めで、可哀想な人生を生むんだけどさ。それって善でも同じことが言えるんだ。君と出会ってようやくこの言葉に辿り着いたんだ。『偽善者』。世の中が作り出す、弱い物を守ろうとか、弱い物を守らないとかそういう、くだらない世間の、くだらない価値観の、操り人形だ。そうすると僕は今まで『偽悪者』を殺していたんだろうね。偽物を殺すんだ。本物が、本当の善が欲しい」
「殺さないでくれ。頼むよ」
その台詞自体は僕の心を逸らせるのにピッタリだった。しかしなんだか少し演技混じりにも聞こえる。急な態度の変化では無い。なんだか、僕の直感がさっきまでの口調とほんの少しだけ違うことを知らせた。冷たい風が頬を撫でる、嫌な予感だ。
「ハオランさん、まだ、まだ生きてますか?」
室内への扉から、若い男の、聞き覚えのある青い若者の声がする。佐々木か。まずい。目撃者が居るのはこれからの僕の人生に於いて良い影響を齎さない。いつからこの場所がバレていたのだろう。
「謝謝だぜ、佐々木くん。もう少しでぺしゃんこだったよ。流石に、ふぅ、流石に焦りました。ははは。はぁ、好、好」
脇腹から音がする。古い扉が甲高い音をたてて開く。着崩したスーツに、息切れた男。
「貴方が佐々木くんか。初めまして」
なんだか少し拍子抜けしてそいつを見る。
「驚いた。俺を忘れる人がいるんだね。モーリアティ。残念ながらお前と話す時間は惜しいよ。これでお前の連続殺人も終わり。名残惜しいかい? 俺は待ち遠しくて仕方なかったよ」
息を調えて、どうにか格好を付けようとしている。しかし、どうもこの男には似合わない。車椅子に眼を落とすと、彼は静かに座っていた。ハオランの黒髪が夜風に混じる。僕は今、ようやく観客のいる舞台に立った。
両腕に力を込める。全身の血液がら両腕に集結し、水風船の様に膨れ上がる。思い切って走り出す。僕が招待する最後の人は、このハオランだ。天国までは後六歩程度だろう。タイヤはホコリや砂利を噛み砕く。ハオランの身体は背もたれへ衝突し、為す術なく前進させられる。壊れそうな音を立てて、一歩。タイヤの僅かな歪みに足を取られそうになりながら、また一歩。
「シエシエ、ハオラン。あの世がどんな所か。今度手紙送ってくれよ」
後、ほんの少し。佐々木はこちらへ向かって走ってきている。しかし、遅すぎる。ハオランが地面に着く方が早いだろう。後、ほんの、少し。
「トモヤくん。そういえば、名刺渡してなかったね。これ、はい」
目の前に名刺が現れる。視界が塞がれて、思わず脚を止めた。縛られた筈の両腕。ボロボロの車椅子。ほんの少しだけ先にある死の世界。追い付く佐々木。それと、巫山戯たデザインのあほらしい名刺。
「好、好。君が寝ている間に私を襲わなかった理由を教えてくれないか」
たった一手。いとも簡単に、僕の計画も、運命も、塗り替えてしまった。
「主役が起きていない舞台なんてつまらないでしょ」
僕はこれから閉じ込められる、強制収容されて、飼い殺されるんだ。あの定められた世間の風潮に、世間の善に。そして、世間の悪に。それだけは、避けなければならない。
「私、ね。このビルについてもよく調べて居ましたよ。貴方に遊び心があって良かった。ここのビル、元々はパブだったらしいですね。nacahと言う名前の。試すとか、試練とかそういう意味で聖書に出てくる単語ですね」
車椅子から手を離し、屋上の端に立つ。今の言葉が気になったのだ。見下ろしてみるとそこには幾層にも重なったマットがあった。僕は深い溜息を一つ吐いて、振り返った。恐る恐る近付いて、車椅子の大きなタイヤを掴む佐々木。
「好、好。佐々木くんは仕事が早い。この間逃した贖罪でしょうかね」
「何言ってるんですか。死ぬかも知れなかったんですよ」
遠くの空で太陽が起き始めた。漏れ出る光線は西の空まで一直線に届いて、夜が朝の服を着はじめた。それもこれも、僕の背中側で起きていることで、黒い影が灰色に伸び始めたことからその様子を察していた。僕の時間は終わりを迎えるのだろう。舞台が終わって、緞帳が降りてくる。その前の瞬間が、明るい拍手に包まれるように、今日は晴れるようだ。ハオランは長年愛用しているソファの様に車椅子の上で寛いだ。佐々木は安心した心持ちで手錠を右手に歩いて来ている。
「好。綺麗な朝日ですね。そういえば、貴方は先程言ったね『世間の価値観の操り人形』。どうせ君だってどこかの価値観は世間の価値観さ。それでいいって妥協してる」
「世の中を絞ったらその一滴が本当に大切な雫なんだよ。それが重要で、その話をしているんだ」
「『君の価値観の中で』ね」
「客観性から導かれる絶対的な価値観さ」
「客観性というのは世間の?」
「神の。僕は神の代弁者になろう」
「好、好。目標ができることはいい事ですよ。皆さんそう仰います」
僕はそのまま後ろへ倒れ込んだ。佐々木が必死に駆け寄ってきているのが見える。お前が轢いたクッションだろうが。信じているよ。ハオランは笑顔で僕を最後まで見ていた。なんだかんだ、こいつは人の死に心を痛めていたりしないんだろうな。もし僕がここでうっかり死んだらどうするつもりなんだろう。