2,コールズッペ
朝日が何もかも忘れさせてくれていた。あの佐々木という男の顔は覚えていないけれど、彼の顔は明確に思い出すことが出来る。その顔と瓜二つのものが今、目の前の鏡に配置されている。僕の見た目は年よりかなり若く見える。それが珍しいものだから、有名人や近所の者に例えられることはなく、雰囲気が柔らかいだの、狐のような顔だのと例えられた。きっと、世界で僕と彼だけなのだろう。僕は彼に似ていて、彼は僕に似ている。まるでナルキッソスの様だ。うっとりする。今まで自分の顔なんて見るだけで嫌な気持ちになったのに。鏡が僕の息で曇る。それが鬱陶しく思えるくらいに、今は、近くでみていたい。鏡が割れてしまえばいいのに。そうしたら貴方がここから出てくるかもしれない。美しい世界の中に、閉じ込めたままの貴方をこのまま取り出してしまおう。破裂音がして、我に返る。右頬と、右手が赤く充血している。「恐ろしい、なんて恐ろしい」。僕自身の手で僕自身に罰を与えたのだろうか。
僕は下を向いて、子供用の靴を見つめる。僕には似合わないはずなのに、僕は革靴が履きたかったのに、母はそれを許さなかった。「贅沢言わない」と、何度も聞いた台詞だ。
「それで、まだ口答えする気かい」
僕は首を振って応える。たしか万引きをするのを嫌がったのだ。僕の身体にいくつものアザができて、目の前に暗い靄がかかり始めていた。
少し前、小学校に通っている同じくらいの歳の子と話す機会があった。しばらく風呂に入っていない自分と、まるで新品の私立の制服を着た彼がまるで別の生物みたいで苦しくなった。頭に綺麗な青い日除けのようなものが着いている。頭を覆うそれが気になって指をさして聞いてみると、彼は無視して僕の腕にある酒瓶を見た。
「物を盗んじゃいけないんだよ。全く、不好。ほんの数年前までは良い子だっただろうに」
それを聞いて、僕は実に自分が悪いことをしているのだということに気付いた。追ってきた男達が僕の首を掴んで持ち上げる。しかし、大人に殴られる事は僕に対する真なる教育にならなかった。彼の言葉は天の使いの様に、僕の心に染み込んだのだ。僕がこの瞬間にようやく善の世界に取り込まれたのだろう。あの時の快楽は忘れられない。真に救われたのだと思う。
「それで、酒はどこにあるの? 早く持ってきなさい」
母の声は僕を頷かせた。傷だらけのまま家を飛び出した。赤く腫れる頬は痛みを火照らせて、僕の善を吸い上げていくようだった。明確では無いけれど、僕の行動はどうしようも無いところで何か掛け違えている。そこでようやく僕は気が付いた。あの子と僕は違う生物なのだ。姿形だけなどでは無く、全く別の生態系を持った生物なのだ。あの子に習って生きる事は善ではない。あの子にはあの子の生き方があって、僕には僕の生き方を見出さなければならないのだ。
僕は酒瓶を洋服に、何本も何本も入れた。今まで狙っていた安酒ではなく、高い酒を何本も、何本も。勿論、店主が気付いて追いかけて来る。捕まったら殺されてしまうだろう。重い酒瓶は僕の脚を止めようと必死に藻掻く。家に、早く家に着いて。そうすれば僕の善は完成されるのだ。そこら辺にあるどうってことの無いくだらない石ころが僕の足をとる。両脚が宙を舞う代わりに、両腕が地面に擦れる。痛みに耐えきれずどうにか肩に重心を逃がす。しかし僕の革命の意思は際限なく溢れ出た。血だらけになった僕であったが幸い二瓶だけでも守ることが出来た。あとひとつ角を曲がれば直ぐに家に着く。門もなければ窓ガラスもないので、飛び込むだけだ。何とか力を振り絞って走る。
「小汚い餓鬼なんて一銭にもなりやしないんだから。割れた瓶より価値がないよな」
僕の後ろに低い声の男が立っている。
「殺さないでおいてあげたのに。頭も悪ければ見逃して貰った恩義も無い。これは全く困った」
後ろの男は、冷静な口調だった。しかし、それは僕を許したからでは無い。散々怒鳴る声を聞いたからこそ、この僅かな違いについて気付くことができる。恐ろしくて下半身から力が抜けて、その場に座り込んでしまった。あと、たった一つの角を曲がるだけなのに、こんなにも遠い。
後ろを振り向くと男の手に握られていたのは鋭い包丁であった。見た事ないほど大きいものだ。きっと料理なんかに使うやつとは違うのだろう。僕の首を掴むと身体を軽々持ち上げた。血が滴り落ち、涙が止まらない。
「痛そうだな、まぁ、可哀想っちゃ可哀想だな。でも悪いことは悪い、そうだろ。お前が死んだって一銭にもならないけど、お前が生きていると俺にとって損なんだ。分かるよな。俺の苛立ちももう限界なんだ」
そのまま力なく投げ飛ばされる。この男は僕が走って逃げれない事を知っているんだ。だから、投げ飛ばした。痛め付けて、少しでも僕の死に価値を持たせようとした。しかし、これが僕にとって幸運だった。僕が叩きつけられたはずの壁は、その衝撃に耐えきれず、崩れた。
「何してるのさ、あら、騒がしく帰ってきた割にはちゃんと持って来たのね」
僕の背中に灯る水色の炎は、ここに来て大きく燃え広がった。血だらけの身体の痛みが蜘蛛の子を散らす様に消えた。
「ほら」
ぶら下がるように垂れた両腕で二本の酒瓶を母に投げつけた。母は物乞いのように飛び付いて、抱き抱えた。
「危ないじゃないか、あんた! 親に物を投げるなんて」
母の視界にもう僕は居ない。そこに居たのは酒屋の親父だ。酒屋の親父だって馬鹿じゃない。薄々気付いていたに決まっている。小さな餓鬼が必死に酒に飛び付くなんて、おかしい話なのだ。母は醜い身ぐるみを簡単に剥がされて、暗がり引き摺り込まれた。
気持ちの良い夕陽は直ぐに遠くへ去っていって夜が来た。家の奥には母の死体がある。鼻を突く様な生暖かい空気が気持ち悪い。その様子を見たいとは思わないし、住処を移すべきだと思った。
「坊主、ざまぁみろ」
家の奥から出てきた酒屋の親父は愉快そうに笑いながら帰った。
街の中心の方はそろそろ明るくなる頃合で、こっちの方は時期に夜がくる。僕は清々しい気分で星空を眺めようと天井の抜けたリビングで横になっていた。
「悪いことは、悪い。僕は良い子」
例えば、僕の人生に良いことがあったのなら、僕は復讐をしたくなるんだと思う。けれど、どうにもそのやる気は起きない。なぜなら、母が悪かったし、僕が悪かったからだ。お酒を盗んでは行けないし、子供殴ってはいけないからだ。罰が下るのは正解だし、酒屋は全くの被害者だ。僕らの悪事のせいで、ヒーローを演じなくちゃいけなくなった。しかし、どこか変だ。心の中に一筋の闇がある。これは放って置いてはいけない問題だ。今、この解放された幸せの中で、この苦しみを残したまま今日を終えてはいけない。それがいつか大きな闇となって僕を襲うかもしれないという予感がするのだ。
僕はきっと、酒屋が可哀想なんだ。彼は、今日、この日に起こった事実を、良い出来事として覚えてしまう。被害者がそう思ってはいけない。彼が選ばされた善を喜んではいけないのだ。そしてその気付かない罪の中に生きる彼が不憫でならない。僕は母の身体にハマったナイフを引っこ抜いて、袖で乱暴に拭いた。ようやく訪れた夜と、遠くに輝く希望の月。それから結ばれ始める星座たちも、僕の心の刃の輝きには遠く及ばない。僕は、僕の善の中に居る。拾っただけのナイフが愛おしい。
酒屋の親父はレジ横のベンチで満足そうに眠っている。三本も四本もビール瓶を空けているから、きっとしばらく起きないだろう。僕の善は、邪魔されずに完遂される。胸の高鳴りは、この高揚感は、僕が僕の善を実感する為にある。首に突き刺して、溢れる液体は、酒屋らしく、きっとワインなのだろう。僕が子供でなかったら、この尊さに気付けたのに、と。ほんの少しだけ残念になった。これはいい事だ、僕は良いことをした。罪を一つ、天へと還したのだ。溢れる血も、僕の正義感も、カサブタになったこの腕の痛々しい傷も、全て意味のある事だった。善と悪の為に用意された劇場を、一つ一つこの手で壊していこう。あぁ、そうだ。僕のこの意味の無い人生に、僕のこの無教養な運命に、たった一つの救いがあるとするならば自ら選んだこの善だ。