1,エチュベ
寄りかかる壁には冷たく押し返される。昨日貴方が僕に掛けた言葉と同じ様な、水色の炎だ。僕の焦りがまだ頂に達していないことだけが昨日と違う所だろう。甘い香りの漂う街で、口から漏れ出す泥を見ないように空を見上げる。人が群れを成して右から左へ。拘束された不自由なままの奴隷達を連れていくハーメルンよ、僕の元へ早く現れ給え。ハーメルンは僕を見下す。
「大人に憧れる醜いナンセンスよ。素面の君に齎される幸福とは、風流とは、なんたるや」
僕の待人にハーメルンという名前は似合わない。貴方はエウロパ、決して近付いてはいけない星。それは時に太陽で、それは時にウイスキー。街はとめどなく煩くなる。ここへ向かう貴方がこの音を聞いて嫌になって逃げるかもしれないけれど、そうなってしまっては知る由もない。
例えばここにいる老人の足を引っ掛けよう。転ぶ老人を二、三人の無垢なる民が踏み付ける。それから後ろの者たちは避け始め、老人の周りに塩を撒いたような空洞がうまれる。ここまでは良い。しかし、この先が厄介だ。助ける者たちが、厄介なのだ。こいつらは善に非ず。選ばされた選択を選択と呼ばない様に、選ばされた善を善と呼ぶべきでは無い。無学文盲の救世主である。
さらにこのつまらない劇での僕の罪は、あの設定に選ばされた悪であろう。僕は悪、足り得ず。無辜の犯罪者だ。何もかも下らぬ世間の掌の上で、貴方の到着を待つ。貴方が訪れるならこの世の善も悪もその舞台の上から飛び降りよう。例えばこの人生に作者が居るのならば、その作者の正義に、貴方は従わない。しかし、悪にも従わない。自由な貴方に世間は似合わない。
人混みの中に一筋の亀裂が入った。そういえばようやく集合時間になる頃だ。彼女は落ち着いた足取りで、気が付くと僕の隣に居た。
「そろそろ飽きた?」
「何に?」
彼女の第一声を理解するのに時間がかかった。それから僕は少し考えて、頷いた。
「『私を待つのに』って事よ」
僕より少しだけ背の低い彼女は、屈んでいる僕を上から見下ろして頭を優しく撫でた。彼女の手は広く、優しい形をしていた。頭に乗った彼女の手を持って、立ち上がる。夜の街を通り抜ける風は、彼女の短い黒髪をさらりと撫でた。それがもし僕の手ならば、愛というものを語れるのだろう。
僕は彼女に手を引かれ、美しく光り輝く街を歩く。ラーメンの香り、揚げ物の香り、香水の香り。そしてまたラーメンの香り。十分に満ち足りた心を、それでも刺激する芳香は淡い色合いの湯気をあげる。二歩後ろを歩く僕を、彼女が気にかけた。
「夕飯食べてからにしようか。ごめんね、焦っちゃった」
「大丈夫だよ。僕も期待してる」
腹拵えなんてして冷めたら困る、僕も彼女も。彼女の頬には桃色のチークが薄く乗せられていた。
キツい煙草の臭いがする。煙草を飲む奴の匂いは、幼少期を思い出して嫌だ。こういう安いホテルには、決まってその匂いが漂うのでそれは一種の腐食なのだろうと考察した。ある時に眺めた絵画を思い出す。たった二文字の漢字を、二枚も三枚もの絵を使って著したものだ。もし僕が腐食を描くなら、きっとモデルは煙草になるだろう生命を終えようとする草木に、腐食は似合わない。汚い口を慰める死んだ雑草共こそ、生命に対する冒涜で、腐食足り得る悪魔の所業である。
エレベーターに乗り込んで、彼女の匂いが強くなった。彼女は僕を見つめて、喉を鳴らす。美しき色慾が空気中を漂っていた。これが僕の鼻腔に張り付いているのだ。呼吸の苦しさなんて実はなくて、そこに有るのは不自由な僕だった。エレベーターが三階に着くまでの時間はほんの少ししかない。そのたった少しの時間に心臓の鼓動は何度も何度も鳴り響く。
ようやくエレベーターが止まる。開かれる密室から二人分の荒い呼吸が漏れ出す。それからまた来た時と同じ様に彼女が手を引いた。今度は少し強引で、それがなんだか可愛らしかった。僕の笑顔に彼女が気付いて、少し焦った様子になる。
「なんで笑うの」
彼女は幸せそうに僕を責めた。可愛らしいその様相は僕の内臓をしっかり掴んだ。
「可愛いから。いつもかっこいいのにさ」
そのまま部屋の扉が開いて、吸い込まれるように僕らは入っていった。部屋の中にもう煙草の臭いはない。綺麗に整頓されたベッドとソファーと大きなテレビが印象的だ。眩しすぎる程明るいライトを消して、それからは彼女と僕の秘密が始まる。彼女は強く僕を抱き締めた。背中に刺さる針に気付かれるのが怖くて、目を閉じる。彼女が優しく頭を撫でて、僕の目を見るので今まで感じた事ないくらいの感動を覚えた。
幸せが形を成して現れた。この人が永遠に自分のものになったなら、僕はこれからどう生きていけば良いだろう。何も目的が無くなってしまいそうで怖くなってきた。いつだって、幸せは際限なく、欲望も際限なく。身を焦がす程の熱は次第に風呂の温度より冷めたものになってしまう。それはとても寂しいことで、今この時点の僕の心を突き刺す一本の針になるだろう。
彼女の肌が私に吸い付く。唇は幾度となく重ねられ、彼女の口内を鮮明に記憶する。ザラザラとした舌の感触が固くなったり、柔らかくなったりしてくすぐったい。まるで元からひとつだったみたいに、私と彼女の間の空間は埋まった。何不自由なく生きてきたのは、この身体を知らなかったからだろう。僕の幸せが塗り変わってしまいそうで怖くなった。お互いの呼吸は荒くなるのに、心が段々淋しくなる。
重なる唇から熱が崩れ落ちていく。彼女の髪は乱れて落ちた。唇に灯る赤い生命が私の心を震わせた。これで僕はまた、何不自由なく生きていけるのだ。あぁ、これが僕なのだと安心する。いえ、安心とは少し違う。ただ、愛を身体に取り込んだ様な満足感が有る。僕の、身体になったのだ。彼女の身体から漏れ出す腸達は、閉ざされた世界から解放されている。ほんの少し前までは僕に感謝していたのに、飛び出た瞬間、掌を返したように冷たくなった。空気に触れてはいけないのに、それしか望まないからそうなるのだ。しかし、そんな愚かさの悉くが愛おしい。
まだ身体の中心に熱が残っている。それを確かめるように触って、唇から吸い取る。いつものあの甘い香りのままだ。きっとこの匂いを嗅ぐ事ができるのは最後だろうから、一生懸命この欠片を集める。
「待つのを飽きるわけないよ。もちろん、会えて嬉しいけれど、待っている間に君を思えた」
着替えた服は洗剤の良い匂いがして、汗ばむ体をお湯に浸した事が今になって正解だったと確信した。この爽やかな夜空に、愛やら恋やらが満たされた体をひとつ走らせる。届かないはずの星はそこら辺で蹲って、主の奴隷に成り果てた。奴隷の奴隷なんて、あぁ、なんて残酷な関係だろう。全て壊してあげたい。そうしなきゃとても惨めで可哀想だ。やることは多いのに、任務も責務も置いておいて、ただこの自由な空の中を走り抜ける。心臓はいつにも増して早く鼓動を打って、肺の中に痛みが走る。それでも楽しくて、右に一回転、左に二回転。花びらみたいにふわり、ふわり。
背中に翼が生えていない事が不思議で仕方がなかった。道行く誰かに聞こうかとも思ったけれど、皆、目立つ僕から目を背ける。自由が嫌いなのだ。自由とは安心の無いもの。罪の類義語。不良なエウリュディケ達よ、可哀想に。僕が手を引こうものならば振り返ったりせずに安全に解放してあげよう。
いずれ訪れるサビは、このAメロを彩る。僕はそれまで待たなければならない。だから、この焦燥感を抑えつつ、カフェだかバーだか分からない店に入った。バーの中に充満する香りは、程よく燻されたドライフラワーのようだった。つまり、結局のところどうせ不快も爽快も気分の中で揺れ動くもので、客観的な事実に基づいた話じゃない。雰囲気のいい店内、暗い雰囲気の静かな世界。
「今日か、明日でしょう」
若い男の声が暗い店内を巡回する。それが貴方の声だと気が付いて、僕の心は今日一番の鼓動を刻む。これが運命で無いならば、僕の快楽は終わりを迎えるだろう。幸い僕の話で盛り上がっているご様子だ。
「あー、謝謝。一杯目はモヒートと決めていましてね。酒に大して強くないので、慣らさなきゃ。では失礼。あぁ、これはなかなか、良いお酒ですね。好、好。そう、あの連続殺人鬼のお話でしたね。そう焦らないで、佐々木くん。そう、その通り。今日か明日と言いましたとも。しかし、もし今日ならばこの時間帯だと終わっているでしょうな。この間もそうでしたでしょう。えぇ、えぇとも。そう。だからこうやって酒場に来ればうっかり奴が姿を、そう。あの男の恐ろしいところはその行動の悉くが抜け目なく、それでいて幸運の中にいる。まるで、その様にして生まれたみたいに。出入口付近に立っていてくれませんか。嫌かい。不好、不好。別に構わないですけどね。佐々木くんはそうやって、不好、酔いを理由に成果を取り逃すんだから仕方ですね。もしかして、これもやはりその幸運と言うやつなんでしょうね。好、好。面白い。凄まじい程の警戒心とか、トリックとか、そういうんじゃないなんて面白いではありませんか。時々いらっしゃいますよね、不好。私はそういう方、嫌いなんですけど。どんな努力や才能も、なんか変な力みたいなものが、適当にどうにかしちゃって、それで勝ち残っちゃう様な、そんな人。貴方のことではありませんよ。冗談辞めてください。才能もなければ努力もしない癖に、変に自分を高く評価している君が面白いんです。そばに置く理由なんて、それだけですよ。あら、落ち込むんですね。不好。笑うところですよ。好、好。佐々木くんの飲んでいるそれはなんでしょう? ウイスキー、メーカーズマークの。好、好。良い夜になりそうな予感がする酒ですね。なんですって? なに、テキトーではございませんとも。マスター、このカウンターに居る人に、そこの、彼。そう、あの可愛らしい顔付きの彼に、好きなお酒を一杯贈ってください。謝謝。そう言えば佐々木くん。昨日一通の手紙を送ったよ。あの酒場でね。不好、佐々木くん。そう怒らないでください。警察官であることくらい彼も分かっているのさ。なんて言ったかだって? やはり、気になるかい。好、好。それでは聞いてみましょうか。さっき店に入ったくせにマスターではなく私達の話に耳を傾ける私の左、三つ先のカウンターテーブルに掛けた君にだよ。はぁ、不好」
せっかくのお気に入りのコートを近くの客に被せて来てしまった。路地裏にはネズミとゴキブリと僕が居た。しかしこれでようやく分かった。あの男はやはり、舞台を壊す男だ。跳ねるように波打つ鼓動は、幼少期に玩具を買ってもらった時のようだ。汚い世界に落とされた様な状況である筈なのだが、彼を憎もうなんて微塵も思わなかった。