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二人の遭難者

作者: 相浦アキラ

「君は……どうしてそこまで謙虚になれるのだろう。どうしてそんな些細な事まで気に病んで、自分を卑下する事が出来てしまうのだろう。しかし、その謙虚さこそが君の身体が実体として確かにここにある事の証明なのだよ。君は全く気付いてはいないのだろうけどね。君の存在は事実なんだ。君は実体なんだ。この世界で唯一の真実なんだ。君の柔らかな腕が青白く艶めいている事も、美しい君の瞳が、美しい君の声が鍾乳石の中に揺れている事も、全ては動かしがたい真理なんだよ」


「……確かに、それはそうかもしれないね。君は存在していない。第三者から見ればね。でもそれがどうしたっていうんだい? そんな事はほんの些細なことじゃないか。……例えばの話だけどね、例えば地球の裏側に立っている奴がいたとする。そいつが当たり前みたいに『自分は存在している』なんて嘯いたとして、偉そうにしているとする。……笑っちゃうよね。お前が存在していようがいまいが、私にとってはそんな事はどうでもいいんだ。……いや、はっきり言ってしまえば奴はある意味では存在していないとも言える。奴は直感に胡坐をかいて、当たり前に自分の実在を信じ切っている。奴は傲慢にも自分の実在を疑うという事をしないんだ。自分の存在すらも全く意識したりしないんだ。意識とは疑う事だ。だったら、疑う事もしないような人間は存在しないも同然じゃないか?」


「その点君はどこまでも謙虚なんだ。どこまでも敬虔に自分の存在を疑い続けている。だからこそ、だからこそなんだ! 疑念に寄せられた細い眉を、謙遜に結ばれた小さな口を、温かな吐息の為に僅かに上下する肩を、僕は何よりも実感を持って感じる事が出来る。君の実在だけがこの世界で唯一の真実だと心から信じる事ができる!」


「……分かっている。君が言いたい事は。つまり……僕がやっている事は現状に対する憎悪に由来する自己欺瞞に過ぎないと。君はそう言いたいのだろう? しかし……その批判は当たらないよ。何故なら僕は今、どこまでも満たされているんだ。この島に流れ着いた時はどうなる事かと思ったけど、おかげで君とこうして出会えて、僕は世界中の誰よりも満たされているんだ。僕は幸せなんだ。君という実在をこうして感じる事だけが、君を愛しているという事だけが、僕の全てなんだよ」


「……ん? 今度は何だって? ……ああ……客観的に見て君が存在していないって、まだそんな些事に拘るのかい? ……ハハハ。おっと、すまないね。あまりにもバカバカしくて笑ってしまったよ。でも君がそんなことを気にする事はないんだよ。放っておけばいいんだ。そんな事を本気でのたまう底の浅い連中の事なんか。……だって、ある筈がないじゃないか。客観なんて。人は主観の上でしか世界を見る事はできない。感じる事はできない。考える事はできない。ましてや君の存在を否定するような低劣な連中にちょっとでも客観が備わっているなんて、全く考えられない事じゃないか」


「……客観者様はきっと僕にこう言うのだろうね。『お前は馬鹿だ! お前なんかより俺の方が上等に決まっている! 俺は現実の女を抱き、現実の女を味わい、現実の女の愛を手にしているのに、何故お前は平然としていられる! 何故お前は俺に対して嫉妬しないんだ!』ハハハ……笑わせるじゃないか。悪いけれど、僕はお前に嫉妬してやる事は絶対にできないよ。僕に言わせれば、誰かの存在を無批判に信じるって事は、誰かの愛を無批判に信じるって事は、何も信じていない事と同じなんだよ。お前たちには意識がないんだ。むしろ僕は連中に対して同情しているくらいだよ。可哀そうに、他人に『この人は存在している』なんてチンケなお墨付きを頂いて自分を騙さないと、誰かを愛する事もできないらしい。本当に心の底から気の毒だよ」


 落ち窪んだ眼で虚空を見やる老人はなおも擦れ声を洞窟に低く反響させ続ける。彼が私の気配に気付いているのかいないのかは分からなかったが、どのみち同じことだろう。彼にとって私など眼中にないどうでもいい存在であろうことは想像に難くなかった。そう考えると、私の存在を否定されたようだった。私の全てを否定されたようだった。頭を眩暈のような衝動が走った。老人を突き倒し、馬乗りになってしなびた腕に噛みつき、何度も何度も顔を平手打ちしてやりたくもなった。……いや、老人はきっとその程度では認めないだろう。もっと容赦なく、脳を揺らすつもりで頭蓋に顎に鼻柱に拳を振るい続けなければならない。何度でも何度でも固く握った拳を振るい続けなければならない。そうして膨れ上がった赤ら顔で『そんな女は存在しない』と彼が涙声を発する時が来たら、一体どんなにか爽快だろう。……しかし、私はそうしなかった。私はただ踵を返した。バカバカしくなったのだ。


 私が老人を殴りたくなったのは、一種の嫉妬のようなものかもしれない。……誰に? 老人に嫉妬しているのか? それとも、考え得る限り最もバカバカしい話だが……私は存在しない筈の老人の女に嫉妬しているとでもいうのだろうか? 全く、どこまでも下らない事だ。どうでもいい事だ。そんな事より肝心なのは当面の目標だ。食料と水を調達する事だ。救援が来るかもしれないので、砂浜に旗でも作った方がいいかもしれない。もし救援が来なければ、何とか筏を作ってこの島を脱出するしかない。老人はなおもうわ言を呟いている。うわ言を囃し立てるように私の足音が洞窟に低く響いている。溜息を一つ吐き落とす。……もしこの島から脱出できなければ、私も彼のようにならざるを得ないのかも知れない。


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