弐話 厄巫女
靖国通りに面する地下道の出入り口から地上に出ると、歌舞伎町一番街アーチが私を出迎えた。
土曜の夜のせいか、劇場通りは多くの人々で混雑している。
元々、この街は歌舞伎劇場を作る計画から歌舞伎町と名付けられ、その街路として劇場通りを名付けられた。
歌舞伎劇場の計画は頓挫し、後にコマ劇場などが建設されるが、それらも閉鎖されたせいで過ぎ去った時を通りの名に残すのみだ。
1980年代後半のバブル期、私の通ってきた歩道ではサラリーマンたちが一万円札を振り、タクシーを停めるのが日常の光景になっていた。
しかし長引く不況の今となっては、若者たちから『本当ですか?』と懐疑と嘲笑を誘う定番エピソードでしかない。
懐かしさに包まれながら、夕暮れの通りを眺めた。
私が出入りしていた芦屋探偵事務所のあった雑居ビルは随分前に取り壊され、猫の額ほどのコインパーキングに変わっている。
昔にくらべ、この街は行儀が良くなった。
バブル崩壊後の1992年3月1日から施工された”暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律”、通称・暴対法がその理由だ。
警視庁は歌舞伎町の治安回復に重点を置いたせいもあり、反社会的勢力たちは通りから姿を消した。
高校生のころ、客引きのせいで真っ直ぐ歩くのも困難だったのが嘘のような快適ぶりである。
とある雑居ビルに入り、狭いエレベーターに乗って七階のボタンを押す。
エレベーターから降りて黒布に白文字で炭宴と書かれた暖簾をくぐり、木製ドアを押して店内の奥へと進む。
通路ですれ違った若い男性店員の「いらっしゃいませ!」の声に会釈し、左側にある個室の障子戸を開けた。
「須冲先生、遅いですよ! こっちはもう先に頂かせてもらってます!」
座敷のテーブルで白髪まじりの大石はビールの入った大ジョッキを掲げてみせた。
「約束の時間の五分前に来たってのに早すぎですよ」
大石が先に飲んでいるのは、お馴染みのことだ。
「こないだ出版された黄昏探偵シリーズ十作目の消失少女ですがね。重版が決まりました」
座布団にすわると同時に大石は自著について話してきた。
大石は推理小説家である私の担当編集者だ。
二十年前、公栄書房でミステリー小説の公募に出した作品は大賞こそ逃したものの優秀賞を受賞した。
受賞後に初めてついた編集者が、この大石である。
当時は若手編集者だったが、今は月刊・推理倶楽部の編集長を務めていた。
「編集の山下です」
大石の右隣の席にいた背広姿の若い男が頭を下げる。
「今月、入社した山下にインタビューの進行役をやってもらう。作家の原稿チェックとスケジュール管理だけが編集者の仕事じゃないからな」
黒皿に置かれた炭火焼きの焼き鳥を食べ、大石は上機嫌で言った。
「撮影担当の菊地です。こういう席なので酔いがまわってしまう前に撮りますね」
大石の左隣の席にいる眼鏡をかけた髭面の男がそう言った。
髭のせいで私と同年代の四十代のようにも見えるが、本当はもっと若いのかもしれない。
首から提げているミラーレス一眼カメラのシャッターを押し、「オッケーです!」と菊池は続けた。
「須冲先生の作家デビュー二十周年と黄昏探偵シリーズ十作目を祝し、ロングインタビューの記事をやるって言い出したのはこいつなんだ」
大石はそう言い、山下の方に顎をしゃくった。
背広のポケットからワイヤレスのピンマイクを出し、山下は私の服の襟元にそれを取り付ける。
「黄昏探偵シリーズも十作目になると新規ファンが結構いまして。自己紹介といいますか、須冲先生のデビュー前から今までを聞かせて頂きたいのですが」
山下の声は堅い。
「おいおい、聞く方がそんなに緊張してどうすんだ?」
大石から言われ、山下はテーブルのウーロンハイを飲んでリラックスした。
「高校を卒業してから、国産車のディーラー店で営業職をしていました。たしか二十五、六あたりに推理小説を書き始めたのが、初の小説執筆だと思います。当時は結婚もしていませんでしたし、時間に余裕があったんです」
「十代の頃はどういう感じだったんですか?」
「実家が新宿なので歌舞伎町には、よくきていましたよ。高校生のときはこう、頭を金髪に染めて、泡のスタイリング剤……ムースで髪の毛を立てたりしてね。学校もサボりがちで。とてもじゃないが、読者の方々に偉そうなことを言えた義理じゃない」
高校生の時分、櫛で髪を整えていた様子を再現した。
「もしかして黄昏探偵シリーズの舞台がバブル期の歌舞伎町なのも、須冲先生の地元だからでしょうか?」
「そうです。これは初めて話すのですが、黄昏探偵シリーズ主人公の芦田にはモデルがいます」
「そいつは俺も知らなかったなぁ……本当に初めて聞いたよ」
酒に酔って顔を赤くした大石はつぶやいた。
「折角のデビュー二十周年記念ですから。そろそろ、探偵の芦田にモデルがいる情報を解禁してもいいでしょう。私は高校生のときに探偵の助手をしていたんですよ。黄昏探偵シリーズのほとんどは当時、私が関わった事件が元ネタです」
「ということはこないだ上梓された十作目の消失少女も、助手時代に似たような事件があった?」
「あの事件は本当に厄介でした。作中の芦田が犯人のトリックを見破るのに難儀していたようにね」
聞き手の山下から緊張は消え、かわりに私の過去に興味が湧いてきているようだ。
インタビューは脇道に逸れながら、私が初めて読んだ小説の話題になる。
「モデルになった探偵がある日、本を顔に乗せてソファで寝ていたんです。そのアイマスク代わりの本が月と六ペンスだった。それが気になって書店で購入しました。初の読書というとそれになります」
「たしかイギリスの作家、サマセット・モームの作品ですね。画家のゴーギャンがモデルの」
山下は月と六ペンスを知っていたようで、そう言った。
「恥ずかしい話ですが、当時は月と六ペンスの良さがわからなかったんです。いまなら理解できるんですが。十代の子供には早すぎたのかもしれません」
インタビューも後半に入るころには全員が酔っている。
「昔はなぁ、俺と須冲先生で夜明けまで作品の打ち合わせをしてだなぁ……」
泥酔した大石が昔話を始めた――それが酒宴を終えるタイミングである。
酔った大石は昔話をしたのを、まったく覚えていないそうだ。
「須冲先生は先に帰ってください。編集長は僕がなんとかしますから」
小声で山下は私に言った。
「済まない。今度、二人で飲もう。今回の埋め合わせとして私の奢りで」
山下は苦笑した。
カメラマンの菊地はシャッターチャンスだといわんばかりに、酔っ払って収拾のつかなくなった現場を撮影している。
来月号のインタビュー記事には、酔いが回って赤ら顔の編集長と推理作家の奇妙な写真が掲載されるのかもしれなかった。
炭宴を後にした私は歌舞伎町の界隈を歩く。
とはいっても作品取材で半年に一度は必ず来ているため、驚くような変化はない。
――春。
芦屋がこの街を去り、何度目の春だろうか。
『歳のせいか、時の流れが早くてな』
大昔、芦屋の言ったことは本当だったようで、加齢とともに一年の体感時間が短くなってきている。
(しかし、春だろうがなんだろうが、この街にアヤカシが現れるのは変わらずだな)
夜の街中に奇妙なものが出現していた。
それは半透明で通行人をすり抜けているTシャツ姿の女性だ。
一般的には幽霊と称される存在だが、私たちの業界だとそれはアヤカシの影水と呼ばれている。
アヤカシとは妖怪、影水とは記憶の残滓だ。
特徴としては季節感のない服装をしており、当て所も無くさまよっている。
歌舞伎町は影水の出現率が高い。
人の多さのせいで、人の記憶も場に染みつきやすいのだ。
滅多にないことだが、影水は亡くなった人間の魂と同化して肉体を得る。
そして残された遺族の元に戻り、混乱を生じさせたりもするが基本的には無害なアヤカシである。
逆に有害なアヤカシもいる。
最近、SNSで”歌舞伎町の巫女”というのが話題になっている。
夜、歌舞伎町を歩いていると少女の巫女が現れ、ついていくと不幸に遭うのだという。
これについては、警察もその巫女姿の子供を追っていると確度の高い情報筋から聞いている。
歌舞伎町は陰陽師となった私の領分だ。
私の前は探偵の芦屋という男が、この街を仕切っていた。
現在の私は推理作家と陰陽師を兼業している。
しかし、私が陰陽師をしているのを知る者は数少ない。
犯罪で得た金を洗浄するように様々な場所を経由するうち、私の名が消滅するようなネットワークを構築していた。
そして、ごく限られた者たちだけが私と接触できるような人間関係が組まれている。
そうした情報網を使い、今回の事件の調査を進めていた。
まず”歌舞伎町の巫女”の犠牲者は四人。
うち三人は死亡しており、死因は車に撥ねられた事故死である。
これには加害者たち、つまり運転手たちに薄気味の悪い共通の証言があった。
その証言とは『被害者を轢く直前、巫女姿の少女を見た』というものである。
四人の運転手たちの職業、年齢、出身地、性別などは符合せず、口裏を合わせるにしてもメリットが存在しない。
しかし、証言は奇妙な一致を見た。
この事件で私が注目したのは、一人だけ重傷で済んだ男性である。
本来であれば近親者以外の面会は禁じられているが、ある人物を介して話しを聞けることになった。
明日、その男性の入院している新宿の大久保病院を訪ねる予定だ。
翌日、老舗の和菓子を手土産に病室のドアノックすると男性の声で返事がした。
「本当に須冲先生だ! いやぁ、前に先生の作品で映画化したヤクザの組長と刑事が犯罪を解決していく……タイトルなんでしたっけ? ダブルなんとかっていう……ほら!」
「ダブル・バインド」
「そう、ダブル・バインド! あれのラスト、二人とも生きてますよね? 続きは、いつ見れます?」
個室ベッドで上体を起こしている彼の名は野村茂夫、建設会社に勤務している。
年齢は三十七歳、丸顔で太い眉が目立つ。
私の作品のファンで事件について話しを聞かせてほしいと打診したところ、快諾してもらえた。
「ダブル・バインドは主演の俳優さんがね、こないだ飲酒運転しちゃったんで。続きやりたくても出来ないんですよ」
私は言いながら、病室の壁に立てかけられていたパイプ椅子を広げて座った。
自作のダブル・バインドは主演俳優が逮捕されたせいで、金曜シネマショーといった地上波での放送も見合わせている。
「そうでした。すっかり、忘れてましたよ。いい俳優さんだったのになぁ」
それとなく野村を観察する。
事故による頭部のダメージはなく、受け答えもしっかりしている。
「事故、大変でしたね。重傷と聞きましたが」
「右足の大腿骨骨折です。医者に言われましたよ。道路の真ん中に飛び出して怪我がこれだけなんて奇跡だって。子供の頃から運だけは良いんです」
私も医者と同意見である。
「道路に飛び出す前、おかしなものを見たらしいですね」
それまでの高回転型エンジンを思わせる野村の饒舌ぶりは消え、エンストでもしたかのように黙然とした。
「……いや、それが」
エンジンを再始動させたかのように野村が話し始めたとき、私の背後にある病室のドアが開いた。
「どうも野村さん。さっそく三流の推理作家が見舞いに来てくれたようですね。退屈しのぎに丁度良いでしょう?」
私を横目に室内に入ってきたのは濃紺スーツにスラックス姿の女性である。
三十代半ばの彼女は長髪を後ろで束ね、黒のショルダーバッグを小脇に抱えていた。
「矢桑さん、それは言い過ぎでしょう!?」
「彼の推理小説に登場する探偵は優秀すぎて、あたしたち警察は無能扱いですから。それくらい言いたくなります」
そう言って笑った矢桑瑞紀は東新宿警察署の刑事である。
今回の事故で野村の取り調べをしたのは彼女で、面会できるように病院と話しをつけたのも彼女なのだ。
「まさか矢桑さんが須冲先生と知り合いだなんて信じられませんでした」
「作品で使えるような都市伝説のネタを集めていて、今回はその取材で伺いました」
作家である強みの一つとして、アヤカシ調査を情報収拾の一環として説明できるのが挙げられる。
どんな素っ頓狂な話しであっても、与太話として相手は気兼ねなく話せるからだ。
そしてアヤカシの目撃談は大抵、常人からすると突飛である。
「なんでしたっけ……そうだ、あの事故の夜」
矢桑もパイプ椅子に腰掛け、野村の話の続きを聞くのに加わった。
「歌舞伎町で飲んだ帰りでした。時間は会社の同僚の送別会が終わったあたりだから、深夜一時くらいでしたか。飲み屋を出てからしばらくすると赤と白の和服を着た女の子に会って、迷子なのかと思って近づいたら手を握られたんです。そのまま、手を引かれ……」
「話しを遮って申し訳ないのですが、どの道を歩いたか詳しく聞かせてもらえますか?」
「あまり歌舞伎町に行ったことがなく、土地勘がありませんがやってみます。少し酔っていたので曖昧ですが……短い横断歩道を二回通った気がします。それでなんだったかなぁ……大通り近くの神社っていうか。そういう物を事故の前に見ましたね」
私は”大通り近くの神社”という言葉で野村がどこを通ったか把握した。
「その交差点で信号待ちをしていると、和服の子供に手を引っ張られて。そして道路に足を踏み出した瞬間、車に轢かれました。意識を失ったらしく、その後はよく覚えていません」
私は事故現場がどこかを矢桑から事前に聞いている。
野村の証言で新たにわかったことといえば、事故前の足取りくらいだ。
今回の多発事故を起こしたアヤカシの候補は、現状で一つに絞られている。
私が気になっているのは、”どうして野村だけが助かったのか”だ。
矢桑の話しによれば他の三人は即死に近い状態だった。
しかし野村だけは重傷とはいえ、骨折のみで済んでいる。
野村が車に轢かれる寸前、なにが起きたのか――核心となる細部が見えてこない。
面会時間は終わり、私と矢桑は病室を後にした。
「……で、今回の事故についてなにかわかった?」
「わからない」
矢桑とともに病院近くにある大久保公園のベンチに腰掛けた。
夜になると娼婦の女性がどこからともなく集まってくるが、平日の昼下がりのせいか広場にいる人々の数はそれほど多くはない。
「深夜に巫女の格好で歌舞伎町を歩いてる少女。風俗嬢ですら、店外でそんなことしないでしょうね」
矢桑は風俗店にも詳しい。
何人か顔見知りの風俗嬢もいると言っていた。
「そういえば、こないだ頼まれた物」
矢桑は思い出したかのようにショルダーバッグからA4サイズの封筒を取りだし、渡してきた。
私はその封筒から十枚ほどのコピー用紙を出して、原稿の校了チェックのように眺める。
「この一年間の行方不明者リストなんて、なにに使うの?」
「わからない」
「あんた、さっきから”わからない”しか言ってないんだけど」
矢桑は呆れ顔で、つぶやいた。
「――神は細部に宿るって言葉どう思う?」
私はホチキスでとめられたコピー用紙をめくり、午睡の誘惑に抗いつつ言った。
「どう思うって……もしかして、なんかの小説の話し? あたし、そういうの興味ないから」
矢桑はドラマや小説といったフィクション全般に無関心だ。
反応するのはコスメやブランド品であり、それこそ私は門外漢だった。
「悪魔は細部に宿るって言葉もある。宿るのが神か悪魔かは知らんが、それだけ細部は見極めにくい。言葉に表裏があるように、今回の事故には陰陽があるかもしれない」
「さすが陰陽師ねぇ。言ってる意味よくわからない。それよりも報酬。全国の行方不明者をリストアップするの意外と面倒だったんだから」
矢桑とは長年の付き合いだが大体こんな感じで、私との会話に飽きると報酬の話しになる。
「東通りにあるヘアサロン・オンブルの橘響に会ってくれ」
「歌舞伎町のオンブルは日本一、予約の取れないヘアサロンよ。女優やモデルも御用達の。橘響は、そこの店主」
「そんな人気店だったのか。知り合いの伝手で、彼女を紹介してもらった。警察のデータバンクに違法で侵入する悪徳刑事の報酬窓口を任せられるほど、口が堅いんだろう」
私の皮肉を無視するほど、矢桑は興奮していた。
中年男性の私からすれば、美容の流行など異世界の出来事みたいなものである。
「天才美容師の橘響とコネのある知り合いって誰?」
矢桑は早く教えろといわんばかりの顔だ。
行方不明者リストを封筒にもどして広場を見渡す。
さっきまでいた若い男女は公園から去り、長居しているのは私たちだけになっていた。
「戸室雅彦。東新宿署の刑事なら名前は知ってるだろ」
「戸室ね」と短く言った矢桑の表情は、急に雨が降り出した空を眺めるように不機嫌だ。
「阿漕な商売で成り上がった歌舞伎町の顔役って聞いてる。いつから知り合い?」
「戸室がまだ下積みでキャバクラのホールスタッフをしてたころからの付き合いだ」
「歌舞伎町の顔役にも、そんな日陰者の時代があったなんて泣ける話だわ」
言葉とは逆に、矢桑にはまったく泣く気配などない。
「あと、あたしたち以外にも事故について嗅ぎ回ってる奴がいる。情報元は馴染みのホスト。この情報はサービスだから報酬に含まなくていい」
「嗅ぎ回っている奴……そいつはだれだ?」
「それを調べるのが探偵役のあなたの役目でしょ。ただでさえ東新宿署なんて激務なんだから、この多発事故について調査してくれるとありがたい。オバケ専門にやってた内調の特殊対策室が斉藤元首相のスキャンダルと同時に動かなくなったせいで、あんたくらいしかアテがなくなっちゃったんだもの」
「あの騒動から二年は経つかな。斉藤の手引きによる多額の使途不明金が発覚したっていう。斉藤はそのせいで失脚し、辞任に追い込まれた」
「そのスキャンダル、今の首相の堤沢が仕組んだと言われだした。でも、真実は闇の中ね。堤沢は用意周到な男だから証拠を残すヘマなんてしないでしょうから」
「……それじゃ、ぼちぼち調査を再開するか」
「また、なんかあったら宜しく」
私と矢桑はベンチから立ち上がり、別々の方向に歩き始めた。
私は事件当夜、野村が歩いていた歌舞伎町の区役所通りにやってきた。
すでに日は落ち、通行人も多い。
道路の反対側には派手なネオン看板の新宿バッティングセンターがあり、その側には広いコインパーキングがある。
野村の言っていた”二つの短い横断歩道”とは、まさに新宿バッティングセンターの目と鼻の先にあった。
二つの横断歩道は裏路地と交差し、ホテルや雑居ビルの裏側を通っている。
区役所通りを北上していくと、鉄柵で囲われた鬼王神社の参道入り口が見えてきた。
「ここが事故現場か」
野村が飛び出した場所は職安通りである。
――妙だ。
アヤカシが潜んでいるなら何処かに痕跡があるはずだが、それがまったく感じられない。
周辺にいる人々を使って”辻占”を試みる。
辻占とは古来からある占術で、通りを歩いている無関係な人々の声を託宣として用いる。
”占い”としての辻占はそこまでだが、陰陽師による辻占は用途が違う。
サンスクリット語で成就を意味する「娑婆訶」とつぶやく。
この言葉が呪符の起動コードになっている。
その呪符はどこにあるのかといえば、歌舞伎町の至るところだ。
電柱、ビルの壁面、ガードレールといった、呪符が貼り付きそうなオブジェクトなら、どこにでも貼られている。
呪符は防水で透明化されているため、剥がれる心配もない。
――声が聞こえる。
声は呪符の近くの通行人たちのものだ。
アヤカシの潜伏する場は空気が淀む。
淀みは人々の無意識に影響する。
普段は温厚な者が怒鳴ったり、いつも剽軽な者が泣いたりと淀みは人間の感情を掻き乱す。
逆に言えば、通行人の激しい感情の発露が声として聞こえる場にアヤカシは潜んでいるとも言える。
医師が患者の血流音を聴き、体内の異常を探知する聴診に辻占は似ている。
ここでいう患者とは”場”そのもので、血流音に相当するのは通行人たちの”声”である。
しかし、血流音――怒声や泣声などの異常はない。
これまでの状況を頭の中で整理する。
アヤカシによって職安通りで四度の事故が発生し、三人は死亡、一人は奇跡的に重傷で済んだ。
しかし現場にアヤカシの潜伏は認められない。
――この事象を合理的に説明する推理が、一つだけある。
それを確かめるため、私は踵を地面につけたまま爪先で軽く足踏みをした。
他者には、なにかのリズムを刻んでいるように見えるだろう。
このような陰陽師の足踏みを反閇と呼び、刻むリズムによって様々な呪効を持つ。
陰陽師というと呪符を投げるイメージが一般的だが、それは芦屋のような呪符師たちのものである。
私の能力は呪符師とはちがう。
陰陽師と一口に言っても、その能力は個人の特性により、幾つかに分類されるのだ。
辺りから、通行人たちが消える。
反閇により、私のいる空間は現世と異界の狭間にある偽界に入った。
足踏みのリズムを変える。
少しの間の後、約十五メートル前方に巫女服の少女が現れた。
それと同時に偽界が何者かによって破られる。
現世へと戻されたせいで通行人たちが再び現れた。
私は舌打ちした。
このタイミングで偽界に干渉してくる者を考慮には入れていたが、ここまで強引なのは想像の範疇を超えている。
私の後ろに白いスーツの女が立っていた。
そいつが、”事故について嗅ぎ回っている奴”だと直感的に理解する。
白スーツの女を制止するよりも速く、複数の光弾が巫女服の少女に直撃して小規模な爆発を起こす。
通行人たちの悲鳴。
術者の作り出す偽界ならまだしも、現実で派手な呪符攻撃をすればそうなる。
いや……呪符攻撃といったが、正確にいえば白スーツは呪符を使用していなかった。
陰陽師は呪符を使用するのが普通である。
白スーツは、その法則を無視した。
通常は拳銃に弾丸を装填するように、陰陽師は呪符になんらかの呪効を込める。
だが白スーツにはその予備動作がなく、異常な速さで攻撃モーションに入った。
呪符なしで呪効を発揮する、私が今まで見たことのないタイプの術者だ。
戦闘に於いて、敵が未知の能力を持っているのは脅威である。
「あの子は違う」
私は動揺をさとられないよう、落ち着き払った声で白スーツに言った。
正常性バイアスのせいか通行人たちは薄笑いで「なに今の爆発?」と、黒煙のあがった地点をスマホ撮影してSNSに投稿していたりする。
経験から言えば、こういったときほど人は逃げない。
このまま戦闘に突入した場合、近くの何人かは死亡する可能性がある。
「アヤカシなんて、どれも同じでしょう。それより……」
三十代らしき白スーツの女は言った。
私が攻撃に転じようとした、その時――
「ようやく会えましたね、須沖さん。ここに居れば、あなたが来ると思ってました。近くの喫茶店でお話でも、どう?」
白スーツの女は微笑した。
ひどく、邪なものを含んだ笑みに見えた。
私たちは喫茶店に入った。
私がブラックコーヒーを頼むと白スーツも同じ物を注文した。
この女、掴み所がない。
通行人たちに危害が及ぶかもしれない中で爆発を起こしたかと思えば、こうして私の目の前で暢気にブラックコーヒーを飲んでいる。
「子供のころからブラックコーヒー好きなんです。砂糖やミルクの入っていない、そのままの味が楽しめるから」
「お喋りがしたいなら、隣のホストクラブにでも行くんだな」
私は警戒を解いていない。
この女の醸し出す雰囲気は、自爆さえも厭わないテロリストのように危険なものだ。
「そう、お喋りがしたいんです。こんな都市伝説の話しを……明治時代の末期、様々な分野の識者たちを集め、東京は霊的守護を完成させた。しかし第二次世界大戦の大空襲により霊的守護は瓦解。戦後復興に合わせ、再度、東京に霊的守護を施すために三人の人物を政府は招聘した」
白スーツの女は人差し指でテーブルをコツコツと何度か叩いた。
「その三人のうちの一人は陰陽師・芦屋道満の系譜である芦屋一派。そして山手線と中央線を巨大な陰陽太極図に見立て、陰中陽を新宿区の歌舞伎町、陽中陰を千代田区の皇居として禍殃を封じる。それからというもの歌舞伎町と皇居は陰陽師にとって最高の要衝となり、縄張り争いが多発した」
言い終えた女は、私の反応を探るように見つめている。
「まさか、そんな御伽噺を聞かされるとはな」
私は溜息をついた。
「冗談ではないのです、須沖さん。わたしは取引きにきたのです」
「取引き?」
「この歌舞伎町を、わたしたち内閣調査室・特殊対策室の管理下に置きたいのです」
「この街は誰のものでもない」
私は静かな怒りを込めて言った。
「いいえ。陰陽師の誰もが言うでしょう。歌舞伎町は、あなたのものだと」
「仮に、この街が私のものだとしても断る」
「……ああ、金銭について、ご不満があるのですね? 内閣官房機密費から、そちらの言い値がすべて支払われます。何億、いえ何十億でも。安心してください」
私はバブル期にいた金の亡者でも見ているのか。
ちがう……そうではない。
そうではないのだ。
私が連綿と続く陰陽道を継承するように、彼女も金ですべてが解決する妄執を社会から継承したのだろう。
「断る」
「何故?」
「あなたのような人が嫌いだからだ」
白スーツと私の間に、修復不能な見えない罅が生じた。
「交渉決裂ですね。昔は歌舞伎町をめぐり、陰陽師たちの血なまぐさい抗争が起きたと聞きました。穏便に済ませられなくて残念」
「名を聞かせてくれないか」
白スーツは椅子から立ちあがり、殺意のこもった目で私を見下ろした。
「――遠見綾乃」
女は、そう名乗った。
「最後に質問だ。さっき呪符なしで陰陽師の業を使っていたが、あの手品のタネを教えてくれ」
「呪符なんて稚拙な呪媒を、わたしは必要としません。それでは、またお会いましょう」
終始、慇懃無礼なまま、遠見は退店した。
次に再会したとき、明確な敵として彼女と対峙する……それは予感ではなく確信として、ある。
それにしても、越境者・遠見綾乃か。
”こっちの業界”で彼女を知らぬ者はいない。
十代のころ、異界から生還した彼女は越境者となった。
それからは特殊対策室の室長として都内だけでなく、地方にも赴き、アヤカシ調査に尽力した人物である。
この二年ほど、特殊対策室に表立った活動は見られなかった。
堤沢が首相になった時期と合致するため、特殊対策室は政変による影響があったのではないかと噂されるが定かではない。
特殊対策室の調査を肩代わりするようにして、私たち陰陽師は台頭した。
これは必ずしも好ましい風潮ではなかった。
アヤカシで困っている依頼者に、呪効のない呪符を高額で売りつけたりする連中も出現した。
こうしたこともあって、アヤカシ被害の件数が増加するのと比例するように詐欺被害も増加している。
遠見と同じ現場に居合わせた陰陽師も過去に何人かいる。
スマホで遠見を撮影しても、その画像データが電磁波らしきノイズで破損している――そんなことが頻発した。
つまり私を含め、遠見綾乃の詳しい人物像を知る者はいない。
アヤカシと接している遠見を見た人々は、口々に『あれは人の業ではない』と言う。
それが越境者としての能力だとしたら、呪符を用いない陰陽師の業を修得していてもおかしくはないのだろうか?
遠見の言う、”歌舞伎町を管理下に置きたい”は口実で、真の目的は大凡の予想が付いている。
兎に角、あれほどの人物が歌舞伎町の奪取に動き始めたのだから、私もそれに見合った対応をしなければならない。
私には、歌舞伎町という要衝を守る責務があるのだから。
――喫茶店を出た私は歩き始めた。
深夜、車の通りも少ない住宅街に入ったせいか静かである。
頃合いだろう。
「尾けられるのは好きではない」
『お気づきだったのですね』
巫女服を着た少女が地面から湧いてきた。
彼女の目は黒瞳が大きく、口紅を塗ったように唇が紅い。
恐ろしいほど顔が整いすぎており、まさに幽玄の美である。
『お礼を言いに参りました』
「礼を言うのはこっちだ。今回の多発事故を止めたのは君だからな」
私は夜空の三日月を見上げ、言った。
「遠見に待ち伏せされていたのに君を反閇で喚び出したのは迂闊だったよ。あのとき、ありったけの仕掛符で防御した。君が無事でなによりだ」
遠見がこの少女を攻撃したとき、付近に貼り付けた仕掛符――あらかじ呪効を込めた呪符――をつかって光弾のダメージを霧散させた。
「……事故現場の近くにはアヤカシの気配がない。四人目の被害者である野村は大腿骨骨折で済んだ。無傷でもないし、死亡でもない、この中途半端な状況に違和感があった」
反閇で現世から偽界へと転換させる。
アヤカシが一般人に目撃されるリスクは可能な限り、避けなければならない
なぜなら”ここでアヤカシを見た”という噂は、別のアヤカシを”ここ”に引き寄せるのだ。
「その違和感は、アヤカシの”入れ替わり”で説明できる。野村を職安通りまで連れ出して事故に遭わせたのは厄巫女、車の運転手が事故の直前に見たのは廻巫女……君だ。そして私が調査に乗り出した時点で、君が多発事故を解決していた。遅れてきた探偵に出番はない」
廻巫女は首肯した。
『あの夜、厄巫女は私たちと同化しました。そして犠牲者が車に衝突するのに出くわしたのです。いくら、わたくしといえども、あの方の怪我は避けられませんでした』
「彼は本当に運がいい。まさか廻巫女に助けられたとは思っていないだろうからな」
厄巫女は事故などの厄災を運び、廻巫女は息災などの幸運を運ぶ。
二つのアヤカシは同族ではあるが、正反対の性質なのである。
廻巫女、厄巫女の前段階を結巫女といい、人間のときの記憶を維持したままなのだという。
『わたくしは廻巫女の一部であり全て。助けて頂きましたが、わたくし一人が現世で消えたところでなにも変わりません』
「私の前にいる君は一人しかいない。それがたとえ、廻巫女の一部だとしてもだ」
『人の心とは、そのようなものなのですね』
「そういうものさ」
廻巫女は、私をじっと視た。
人間を読心する能力が廻巫女には備わっているのだ。
『希にいるのです。わたくしのようなアヤカシを本気で救おうとする方が。以前、焼けた喉を潤してくれた、あの方もそうでした』
廻巫女は懐かしそうに語った。
『どうかこれからも、ご壮健で』
廻巫女の別れの挨拶に、私は右手を上げて応えた。
廻巫女と会った二日後、日中の大久保公園にやってきた。
昨夜降った雨のせいで湿ったベンチに座る。
矢桑が少し離れたベンチに座っていた。
彼女がここにいるのは偶然ではない。
調査報告のため、矢桑にくるように前もって連絡を入れておいたのだ。
「多発事故の件は解決した」
「そう」と矢桑はスマホをいじりながら言った。
まだ午前十時のせいか、広場には私と矢桑しかいない。
「こないだ言ってた、細部に神とか悪魔がどうとかってやつ。あれ、結局なにが居たの?」
「……両方だ」
「両方ってなに? 陰陽師って、変な白黒マーク崇めてんでしょ。もっと白黒つくように説明してよ」
「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず。黒は白にもなるし、白は黒にもなる。人間でさえ表裏があるんだ。そんな単純な二元論で語れるわけがない」
私はベンチから立ち上がった。
「どこ行くのよ?」
「気分転換に歩く」
北に向かって歩いているうち、母校である新宿区立西大久保小学校の校門前にやってきた。
合奏の授業をしているらしく、音楽室からシンバルの大きな音が鳴っている。
――三十五年前、この小学校で起きた事件で私は遡行者となった。
その事件は”西大久保小学校立て籠もり事件”と、世間で呼ばれているものだった。