さようなら。王太子殿下。貴方様の事は全く愛してもおりませんでした。
イレーシア・アルドンヌ公爵令嬢は、王宮の庭に面したテラスで、メイドに出されたお茶のカップを優雅に手に取る。
そして、その琥珀色の液体の香りをかいで、そしてその液体をじっと見つめて呟いた。
「貴方。これ毒が入っているのでしょう?貴方が入れたのかしら」
王宮のメイドは、顔色一つ変えず、頭を下げ、
「アルドンヌ公爵令嬢様。そのようなことは決して。ベルド王太子殿下の婚約者、そして、未来の王太子妃、このブラスト王国の王妃になるお方に、毒を盛るはずはございません」
「でしたら毒見をお願い出来ないかしら?」
メイドは再び下げ、テーブルに近づいて来ると、カップを手に取る。
その手は震えていて。
イレーシアは扇を手にちらりとメイドを見やり、
「飲めないみたいね。やはり毒なのかしら?」
いきなり、メイドがどこからか手にしたナイフでイレーシアに斬りかかる。
イレーシアは扇でそのナイフの持つ手をバシっと強く打って。
「この女を拘束しなさい」
庭に立っていた王宮の騎士達に命じる。
騎士達はすっとんできて、メイドを拘束しようとすれば、メイドは白目を剥いて倒れこんだ。
騎士が慌ててメイドを抱き起せば、死んでいるようで。
イレーシアは立ち上がって、
「殺されたのね。わたくしは帰ります。そこまでわたくしが婚約者であることが嫌なのならば、婚約を解消して下さればよろしいのに」
そう、このブラスト王国の王都は物騒な所だった。
だからこそ、イレーシアは幼い頃から、色々な毒を見分ける目と鼻を教わって鍛えてきたし、扇一つで、ナイフを持って襲い掛かって来ても叩き落して防ぐ位の防衛位は出来る。
ベルド王太子はイレーシアが婚約者なのが気に入らないようだった。
王宮に呼びつけては、殺そうとする。
事故に見せかけようと、いきなり天井からシャンデリアが落ちて来たり、出されたお茶に毒が入っていたり。
しかし、ベルド王太子の仕業である証拠がないのだ。
騎士団に調査を依頼しても黒幕である犯人は解らず仕舞い。
父であるアルドンヌ公爵家も黙ってはいない。
何度、婚約者を辞退したいと国王陛下に直訴したか。
何度殺されかけたか解らない。
王太子の婚約者で無くなりさえすれば命の危険はないと思えた。
出会った頃から、ベルド王太子の態度は酷かった。
「私はお前のような女と結婚したくはない。私の趣味ではない」
ベルド王太子、イレーシア共に10歳の時に、初めて会った時にそう言われた。
ベルド王太子はブレスト王国の太陽の子と言われる位に金髪で容姿が華やかで美しい王子である。
それに比べてイレーシアは黒髪碧眼で、ぱっと目立つ容姿ではなかった。
事ある毎に、不満を漏らすベルド王太子。
婚約して5年経った頃から、イレーシアは命を狙われるようになった。
月に一度の交流の茶会。
何故かベルド王太子は現れず、イレーシアは危険な目に遭う頻度が増えてきたのだ。
国王陛下に直訴しても、
「犯人は見つけ出す。ベルドとの婚約は王命ぞ」
と、こちらの命の危険など考えてもくれず、茶会を継続するように言われる始末。
イレーシアは内心イライラしていた。
このままではいつか殺されてしまうかもしれない。
今、イレーシアは17歳。
来年にはベルド王太子と結婚式を挙げる予定だ。
結婚したら無事とはいえない。
一緒に暮らし始めたら余計、命が狙われるかもしれない。
「わたくしは嫌なのよ。命を狙われながらの結婚ですって?とんでもない話だわ。わたくしは平穏に暮らしたいの」
ずっと我慢していたイレーシアもついに切れた。
そして翌月の茶会。
どうせベルド王太子は来ないだろう。
何の意味があるのか?この茶会。
しかし、今回は大事な話があるからと顔を合わせたいとあらかじめ手紙を出しておいた。
果たしてベルド王太子は来るだろうか?
いつもの王宮の庭に面したテラスで待っていると、ベルド王太子が不機嫌そうな顔をしてやってきた。
「なんだ?私はお前なんかと顔を合わせたくはないぞ」
「来て下さいましたのね」
「泣いて許して下さいと言いたいのか?お前のような美しくない女、私は結婚したくはない」
「わたくしも、王妃なんてなりたくはないですし、貴方様と結婚したくはないですわ。でも王命だから仕方なく。そうそう、噂話なんですけれども」
「なんだ?」
「ベルド王太子殿下はコレド男爵家のマリー様と親しくしていらっしゃるとお聞きしました」
「マリーはとても優しくて可愛い女だ。愛妾にするにはいい女だな」
「お亡くなりになったそうですわ」
「へ?」
「何でも馬車で外出の所を物取りに襲われたと……物騒な世の中ですわね」
「嘘を言うな。私は聞いてはいない」
「今朝の話らしいですわ。わたくしは偶然耳にしたまでの事」
ベルド王太子は護衛騎士を呼びつけて、
「コレド男爵家のマリーが今朝、亡くなったという話、調べて来い」
「はっ」
青い顔をしているベルド王太子に、優雅に紅茶を飲みながらイレーシアは、
「それからベルド王太子殿下が親しくしていらっしゃるレーリア・ユリス伯爵未亡人」
「ああ、レーリアか。あの女の身体は特別良くてな」
「彼女、今朝亡くなったそうですわ」
「へ?」
「何でも急な心の臓の病とかで」
「ちょっと待てっ???なんでお前はそんな事を知っている?」
「それは、ベルド王太子殿下の事ですもの。婚約者の事をいかに愛していないとはいえ、情報を早く知る事は大事でしょう?」
「お前は私の事を愛してはいないと言うのか?」
「お茶会に来てもお会いして下さらない。わたくしの命を狙っている方の事をどうして愛することが出来ましょう」
「命を狙う?知らないぞ」
「では、どなたの仕業かしら?わたくしの命を狙っているお方は」
「いやそれよりも、マリーやレーリアだ。お前が私を愛するあまり殺したのではないのか?」
「わたくしが貴方様を愛しているはずはないでしょう。婚約解消したくても国王陛下が許しては下さらないのです」
イレーシアは思った。
てっきり自分を殺そうとしているのはベルド王太子殿下ではないかと思っていたけれども。
そして、二人の女性を手にかけたのも自分ではない。
では誰が一体全体?
ベルド王太子は頭を下げて、
「お前が命を狙われていたなんて知らなかった。本当に二人の女性はお前が殺したのではないのか?」
「わたくしは知りませんわ。貴方こそ、わたくしを殺そうとしていたのではないのですか?」
「私は知らん。お前の顔なんぞ見たくはなかった。それは本当だが」
もう一度、しっかりと調べなおす必要がありそうだ。
証拠を残さない犯人。しかし、二人の女性を殺害しているのだ。そちらからなんとか証拠を掴めないだろうか?
アルドンヌ公爵である父に頼んで、二人の女性の線から調べて貰った。
そして、コレド男爵家のマリーを襲った賊が、騎士団の捜索で捕まって、そこから犯人が芋蔓式に解ったのだ。
犯人は、ベルド王太子の姉のウリーナ王女だった。
ベルド王太子の事をことの他、可愛がっており、ウリーナ王女はイレーシアの事を嫌っていたらしい。
ベルド王太子に近づく女、全てに殺意を持っていたとの事。
証拠を元に、騎士団長と、国王陛下がウリーナ王女に罪を突き付けた時に、
「わたくしは愛していたの。ベルドと結婚したかったの。だってわたくしはベルドとは血が繋がっていないのですものっ」
そう、ベルド王太子は王妃殿下の息子であるが、ウリーナ王女は側妃であるカテリーヌが浮気をして出来た娘である。
そう、浮気をして出来た娘。
「お母様が言っていたわ。わたくしとベルドは血が繋がっていないって」
国王陛下は烈火のごとく怒りまくり、カテリーヌを投獄した。
そして、ウリーナ王女。
ウリーナ王女も投獄された。
「わたくしは悪くないの。ただ、ベルドの事が好きだったのよーーーっ」
とんでもない王女である。
カテリーヌとウリーナは毒杯を賜った。
そして騒動が終わった頃、改めてベルド王太子からお茶会の誘いがあった。
イレーシアが出向くと先に来ていたベルド王太子が座っており、
「このたびの件はすまなかった。お前を疑って悪かった」
「いえ、謝る事はありませんわ。何度もお茶会に来られなかった件なら、謝罪を受け入れますわ」
「それは……その……」
「その間に、わたくしはウリーナ王女様から命を狙われ続けておりましたの。下手をしたら死んでいましたわ」
「すまなかった。この通りだ」
「今更謝られても。わたくし国王陛下に直訴致しましたの。貴方様と婚約を解消して下さいませと。今回の騒動の事で、国王陛下は受け入れて下さいましたわ。貴方様も満足でしょう?わたくしのような美しくもない女と結婚しないですむのですもの。貴方様が満足なさる美しい方と結婚なさって下さいませ」
「いや、父上がだな。アルドンヌ公爵家との縁がなくなった時点で、王位継承者を外すと言い出したのだ。私だけが母上、王妃の息子だぞ。それは有り得ないだろうって言ったんだがな」
「まぁそうでしたの」
「だから、これからは浮気をしない。君一筋でいるから、どうか復縁してくれないか?」
「お断り致します。わたくしは命を狙われ続けながらも、貴方をお茶会で待ち続けましたわ。現れない貴方様を。それに、わたくしは本当に貴方様との婚約が嫌でしたの。だから何度も婚約を解消したかった。国王陛下がやっと許して下さいましたのよ。だから、さようなら。王太子殿下。貴方様の事は全く愛してもおりませんでした。これでやっと平穏な日々を送れますわ。命の危険がない日々が」
本当に嬉しいわ。
心の底から嬉しいわ。
この男と縁が切れるだなんて。
「お願いだ。イレーシア。この通りっ」
頭を地に擦り付けて土下座していらっしゃるわ。
って王族が土下座なんてしていいのかしら。
「いくら土下座しようとわたくしは貴方の事を許しませんわ。ですからさようなら」
心は晴れやかで、王宮を出る時はとてもとても嬉しかった。
イレーシアは命の危険がない生活が出来るならと、婚約解消されるが否や、公爵家の遠縁にあたる男性と婚約をすっとばして結婚した。
婿入りしたその男性は、イレーシアの事を溺愛した。
「僕の事を覚えていないだろうけれども、幼い時によく遊んでもらった遠縁のイレーシアお姉様の事を覚えていてね。ずっと忘れられなかったんだ」
ソファに座りながら横抱きにされてそう言われた。
「それはわたくしが9歳。貴方が7歳の時のお話でしょう?」
「そうだったね。だからもうお姉様だなんて呼ばない。今日から僕は君の夫なのだから。今夜は寝かさない。諦めていた恋が実ったんだ。あああっ。イレーシアっ。僕は嬉しいよ」
そのまま、ベッドに直行となった。
最初は愛なんて感じなかったけれども、イレーシアは溺愛して来る夫を深く愛するようになった。
一方、ベルド王太子は、王太子から外れて、子が出来ない処置をされた。
その上で、王宮の近衛騎士となり、彼自身思うところがあって、徹底的に危険のない王宮の警備体制に力を入れ、彼自身、後に近衛隊長まで出世をした。
結婚後、イレーシアが夫と領地から久しぶりに王宮の夜会に顔を出した。
まだ近衛騎士であったベルドは、イレーシアに会うと謝罪をし、
「これからは安心して過ごせるまずは王宮作りを、いずれは王都全体を安心して過ごせる場所へ、それを一生の仕事としたい。だから、たまにはご主人と共に気軽に来て欲しい。本当に今まですまなかった」
と、改めて謝罪をされた。
イレーシアはベルドの謝罪を受け入れることにした。
酷い男で、大嫌いな婚約者だったけれども。
「貴方様が安心して過ごせる王宮を作って下さるのなら、謝罪を受け入れますわ」
ベルドは頭を深々と下げて、その場を去っていった。
その背を見送るイレーシアの心は秋空のように晴れ渡っていた。
彼の事は大嫌いだったけれども、彼がしっかりと生きていくのならば、それはそれでとても嬉しい。
愛する夫が背後から抱きしめて来る。
「焼きもち妬けるな」
「もう、謝罪を受け入れただけですわ。貴方。さぁ久しぶりの夜会ですもの。楽しみましょう」
夫と共にダンスを踊る。
愛なんて縁のないと思っていたのだけれども、愛する夫に恵まれて、わたくしは今、とても幸せよ。
王宮の華やかな夜はゆっくりと過ぎて行くのであった。