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僕の恋愛小説作品集

来世も夫婦でお願いします

作者: Q輔

 南門の鳥居をくぐると、熱田の森には今日も神秘の空気が漂っていた。


 くすのきけやきひのきなどの高い樹木の枝が、清らかな参道を守るように張り出し、午前中でもやや薄暗い深緑色のトンネルとなって、本宮ほんぐうへと続いている。天を覆う枝や葉の隙間を掻い潜った木漏れ日が、幾千の星屑となって大地に輝いている。


 この鎮守ちんじゅの森にあるものは全て、たとえば、参道の砂利石のひと粒からも、いわゆる精気のようなものが惜しみなく発せられていて、それは実際に地肌にやや痛く感じられるほどだ。


 名古屋市南部の熱田台地に鎮座ちんざする熱田神宮は、三種の神器の一つである草薙の剣を祀る神社として有名で、この日も沢山の参拝者で賑わっていた。


 参道の真ん中を、生後ひと月の娘を抱いた妻と、並んで歩く。初宮参りの華やかない祝い着を羽織った赤子と絶妙の一体感をかもし出している着物姿の今日の妻は、なんとも不可思議な魅力があった。


「あの日の夕暮れを、あなたは憶えていますか?」


 なんとなく目のやり場に困った僕が、たまたま近くに佇んでいた丸々と太った野良の鶏に視線を移すと、妻が、背後から僕に話しかける。え、何?


「あなたが、私たち夫婦に『子供はいらない』と申し出た、寂しく、あわれで、わびしい、あの日の夕暮れを、あなたは憶えていますか?」


「ああ、もちろんさ。憶えているよ」



――――



 僕と妻は、児童養護施設で出逢った。


 父が犯罪者で刑務所に入っていて、そのことが原因で心の壊れた母から虐待を受けていたという同じ境遇。十歳の同じ年だったということ。同時期に施設に保護されたということ。などの偶然が重なり、僕たちは自然と仲良くなった。無二の親友として施設での生活を過ごし、施設を出る頃に恋が芽生え、社会人になり、やがて結婚をした。


 結婚をして一年が過ぎた頃。リビングのソファーに並んで座り、テレビのお笑い番組を観て爆笑している妻に向かい、僕はずっと胸に秘めていた思いを正直に申し出た。


「ねえ、君は子供のことをどう考えている?」


「え、なによ突然。いきなりどうって言われても……」


「ぶっちゃけ、子供、いる?」


「当たり前じゃん。私だって女よ。かわいい赤ちゃんを産んで育てたいという気持ちは普通にあるよ」


「ごめんね。これから僕の気持ちを正直に伝えるね。僕は、二人に子供はいらないと思う」


「……なんで?」


「怖いんだ。僕は、この体に流れる毒親の血が怖い。この血が、子供に連鎖するのが恐ろしくてたまらない」


 僕が、そう切り出すと、リモコンでテレビを消した妻は無言で立ち上がり、キッチンで黙々と夕食の準備を始めた。冷蔵庫から取り出した材料と、その作業手順から察するに、今晩のメニューは、鶏の手羽元と卵を酸っぱく煮込んだ、妻の得意料理であろう。


「もし僕たちに子供が生まれたら、この血は、平気で子供が気を失うほどの暴力を振るう。この血は、子供が高熱を出して苦しんでいても、平気で見て見ぬふりをする。そうかと思えば、この血は、衝動的に子供を追い回し、自分の所有物として執拗に愛でる。断言する、僕は、必ずそういう親になる。この血は、連鎖をしてはならない血なんだ。分かるだろう? 君なら僕の気持ち、分かってくれるだろう?」


 ぼろ雑巾のような夕空の、繊維のほつれた隙間から、一番星がチカチカと漏れている。


「僕は、子供が欲しくて君と結婚をしたわけではない。君が好きだから。君とずっと一緒にいたいから結婚をした。君が側にいてくれればそれでいい。子供なんかいらない」


 昼と夜の間に挟まって、時の経つのも忘れ、一方的にひたすら喋り続けている。部屋の灯りをつけたいが、話を中断するのが怖くて、それが出来ない。妻は、無言でゆで卵の殻を、ぶりんぶりんと、機械的に剥き続けている。喋り続けよう。沈黙だけは、避けねばならぬ。どういうわけか、沈黙だけは、絶対に避けねばならぬ気がしている。


「子供がいなければ、二人で、気ままに旅をすることが出来る。ペットをたくさん飼うことが出来る。子供がいないぐらいなんだ。そもそも、僕が君の子供みたいなものじゃないか」


 あの~、何でさっきから何も言わないのかな~。いよいよ、そう問うてやろうと思ったが、やっぱりやめた。とてもじゃないけど、言い出しにくい。


 調理を終え、中火の鍋に蓋をした妻は、おもむろにリビングのサイドボードの上に飾ってあるひいらぎの盆栽の剪定を始めた。盆栽を睨み据え、不要な葉や枝を、剪定バサミで落としていく。


「あの~、すみません。何でさっきから何も言わないのかな~」


 さすがにないがしろにされている気がして、ついに僕は、妻の態度に苦言を呈した。


「……言いたいことは、多々あれども、今は、黙して語りますまい。私は、あなたの言う通りにします。静かに受け入れるのみです」


 妻が、盆栽の鉢を、クルクルと回して角度を変え、ひいらぎの枝を、容赦なくパチンパチンと払っていく。わ、このままではヒイラギの盆栽が、みきだけになっちゃう。明らかに動揺をしている妻は、その後、うっかり手元を狂わせ、盆栽を床に落としてしまった。

    

 グワッシャン。陶器の破裂音。同時に、床に園芸用土が拡がる。二人で慌てて、鉢の破片を片付ける。この日、床に這いつくばり、砕け散った盆栽をわちゃわちゃと片付けながら、僕たちは、子供のいない人生を歩み始める……はずだった。


 突然、気分を悪くした妻がトイレに駆け込む。嘔吐している。……え、嘘だろ? ま、まさか――


――妻は、この時すでに妊娠三ヵ月だった。


 

――――



 休憩所にある「名物宮きしめん」の店頭に、参拝者や観光客の行列が出来ている。


「あの日、あなたは、ひたすら一人で喋り続けて、『血の連鎖が恐ろしい』とおっしゃった」


「うん、でも、その話はもういいよ。結局こうして子供を産んだのだし」


「それでは只今より、私が、あの日からずっと考えていたことを、発表したいと思います」


「発表しなくていいよ」


「お待たせしました。けっかはっぴょ~!」


「やめてよ。もうその話はいいってば」


 二人で、手水舎てみずしゃで手を洗い、口をすすぐ。


「私は、頭が悪いので、遺伝のことを、もっともらしく、なんたらかんたら説明をされても、そんな得体のしれない事柄は、さっぱり理解が出来ませんし、理解したふりも、したくはありません」


 妻が、日陰の水溜まりに張った薄い氷を、何の気なしに足で割る。


「また、仮に、私にそういった小難しい事柄を理解する脳ミソがあったとしても、ありていを言えば、血だとか遺伝だとか、そんなことは、取るに足らぬことです。私にとって、それはそんなに大した問題ではない」


 巨大なみきこけをまとったかぶ、天にねじれて伸びる枝々、参道の中ほどには、樹齢千年といわれる、御神木の大楠おおくすがおわす。


「一緒にいても、他人のような家族はいるし、遠く離れていても、家族のような他人もいる。産みの親の存在が絶対ではないように、育ての親の存在だって絶対ではない。血の繋がりだけが必ずしも尊いものではないならば、魂の繋がりだって必ずしも尊いものではない。

  

 要するにね、大切なのは、バランスではないかしら? ほら、昔さ、ボリショイとか、木下とかのサーカスでね、目隠しをしたピエロが長い棒を持って、バランスを取りながら、綱渡りをしていたじゃない? あの時、ピエロがバランスを崩して、安全網に落下をすると、私は、一気に興醒めしたの。


 堕ちることは面白くない。堕ちることに美しさを見出してはならない。滑稽な演技で周囲を笑わせながら、絶妙のバランスを取り、見事に綱を渡り切ったピエロに、私は、拍手喝采を送った。私は、家族とは何かと考える時、あのサーカスのピエロを思い浮かべる。まだまだ先は長いけれど、私は、あなたと、この子と、そんな綱渡りをこれからも続ける覚悟です」


 ねえ、私の言っていること分かる? 分かるでしょう? あなたなら、きっと分かってくれるでしょう? 話しているうちに、論点を見失ってしまったのだろう、妻はそう言って照れくさそうに笑った。


 あれ? まるで僕が話をしているみたい。さも自分が言いそうな偏屈な講釈を、妻が歯切れよく話しているのが可笑しくて、思わず忍び笑った。やっぱりあれかな、同じ家で、同じメシにありつき、同じ時間に寝起きをしていると、考え方も似てくるのかな。


 本宮ほんぐうに辿り着き、娘を抱いた妻と並んで、賽銭箱に、小銭を投げ入れる。


 二礼二拍手。そして、祈願。


 お~い、熱田神宮の神様よ。僕が死んで次に生まれ変わったら、馬鹿、クズ、カス、貧乏、犬、豚、虫けら、姿かたちは、べつに何だっていいけどさ。ただどうか、どうかこの妻と、来世も夫婦でお願いします。


 一心に祈りつつ、あれ、輪廻転生は神道ではなく仏教だっけ? と気が付いて、気が付いてはみたものの、これこそが一点の曇りなき今の気持ちであり、祈願した手前それをたやすく撤回するのもどうかと思われ、あれやこれやと迷ったすえ、首をすくめて舌を出し、いっそ気が付かなかったていで――


 ただもう祈り続けた。


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― 新着の感想 ―
[一言]  つらい過去と訪れるかもしれない不安な未来。  でも、それでも、前向きになれそうな気がする。  そう思わせてくれる人がそばにいるって素晴らしい。
[良い点] 虐待経験がある人が親になると…という話は耳にしたことがありますし、 主人公の不安も理解はできてしまいます。 しかし、そんな不安を吹き飛ばすような奥さんがとても素敵だと感じました。 二人が来…
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