蹂躙②
何か考え事をするように、ユーマが首をわずかに傾けた。
その瞬間、頭頂部から伸びる触覚が鞭のようにしなり、
リリアンへ襲いかかる。
「ブッ――ビュゥッ。ヒュウゥウウウウン。」
触覚は細かな関節が幾重にも連なり、
先端に向かうほど細く枝分かれしていた。
それらが絡み合いながら広がる様は、まるで無数の棘を持つバラ鞭。
さらにユーマは前肢を地面へ深く突き立て、頭部を強引に振り抜く。
その慣性までも乗せられた触覚は、
先端ほど恐ろしい速度へ加速していった。
さっきまで余裕を見せていたリリアンでさえ、
背を大きく反らして避けるしかなかった。
だが、その代償として。
腰まで届いていた長い黒髪が、肩口で無残に断ち切られる。
「うぅん……おしいわぁ。もうちょっと。もうちょっとよぉ。うふふ。」
「ギシャァアアアアアッ!」
ユーマが甲高い咆哮をあげる。
細い触覚が掠めるだけで、お前の身体など簡単に引き裂ける。
そう言いたげに、″ガチガチ″と大顎の付け根を擦り合わせ、
硬い殻同士が削れ合う不快な音が周囲を染める。
「それは感じちゃうわぁ。いいわぁ。いいよぉ。それよぉおお。」
そんな状況でもリリアンは少しも怯えない。むしろ嬉しそうに笑う。
「ギャギャギャギャァアアア!」
ユーマの顎がさらに激しく鳴る。
「もっと。もっとちょうだい。もっと私を感じさせてぇ。
ねぇ――お・ね・が・い。」
リリアンは怖がる素振りすら見せなかった。
逃げようともせず、泣き叫びもしない。
命のやり取りそのものに、倒錯した快感を覚えているようだった。
頬は赤く染まり。瞳は熱を帯び。口元には獰猛な笑みが浮かぶ。
まるで巨大なユーマこそ、自分の獲物だと言わんばかりに……
「ギシャァアアアアッ!」
とうとうユーマも、その異常さに気づいたらしい。
大顎を大きく開き、激しく打ち鳴らして威嚇する。
「こっちよぉ。おいでったら。ここよぉ。」
リリアンは胸を支えるように持ち上げ、わざと揺らした。
--まるで挑発するように。
しかし状況そのものは悪い。
左右には巨大な前肢が壁のように立ち塞がり、
上には獲物を噛み砕く大顎が待ち構えている。
リリアンは、すでに逃げ場は狭められていた。
「ブッ。」
ユーマの口元が震え。
「ヒュンッ!」
次の瞬間。口から吐き出された消化液が弾丸のように飛来した。
「ビチャッ!」
だが、リリアンは避ける。
後ろへ下がることも。囲いの外へ逃げることもせず。
その場で身体を倒し、跳ね上がり、紙一重で攻撃を躱していく。
「もう少し奥にちょうだい。もっと激しくてもいいわよぉ。」
「ビチャァッ!」
地面が溶け。湯気が上がる。
「アハハ。こわぁい。」
「ジュゥウウウ。」
「いやぁん。」
「ブッ!」
「もっとぉ。」
次々と飛来する消化液。それを避け続けるリリアン。
二人の戦いは、死闘というより遊戯のような様相を見せていた。
避けて。撃たれて。また避ける。
まるでアトラクションの中で遊んでいる子供のように……
だが、その遊びは長く続かない。
避けた先々では地面が溶け、白い湯気が立ち上って周りに漂う。
それでも不思議なことに、
消化液は一滴たりとも、リリアンへ命中していなかった。
「ギギャギャギャァアアア!」
ユーマが苛立つように咆哮をあげたが、それでも当たらない。
何度吐き出しても。何度狙いを変えても。リリアンは避け続けた。
「アハハハハ!そうよぉ。そう、それよぉ。もう少しなのにぃ。」
リリアンは楽しそうに笑う。
まるで遊びの途中で終わらせるなと言わんばかりに。
しかし――そんな時間は終わりを迎える。
「ギギャ……ギャギャギャギャ。」
ユーマの様子が変わった。
今までの苛立ったような鳴き声ではない。
大顎を大きく開き。奇妙な咆哮を響かせる。
それは勝利の宣言にも聞こえたし。獲物への賛美にも聞こえた。
あるいは……狩りの終わりを告げる歌声にも。
「もう終わりぃ?もっと遊びましょうよぉ。」
リリアンは不満そうに唇を尖らせた。
ユーマはそれに応えることなく、身体をゆっくり折り畳み始める。
巨大な身体が縮こまる。まるで拗ねた子供が膝を抱えているように。
普通なら警戒する。誰が見ても不自然な動きだった。
次に何かが来る。
そう考えるはずだった。だが……
「なによぉ。もうおしまいなのぉ?」
リリアンは足を止めた。ただ不満そうに相手を見上げる。
遊び足りない。そんな感情しか見せていない。
そして。ユーマは待っていた。
その時を……
「ギャァアアアアアッ!!」
爆発するような咆哮。
同時に。
地面へ突き刺していた前肢が強烈に身体を引き寄せ、
後肢はカエルのように地面を蹴り上げ、中肢は支点となって支える。
天秤が一気に傾くように。巨大な身体が前方へ投げ出された。
何十トンもの質量。筋力。加速度。リリアンの油断。
その全てが一点へ集中する。獲物を噛み砕くための大顎へ。
「シュゥウウン――」
空気が裂ける。
そして、リリアンを抱き潰すように。
大顎が閉じた。
「ガギギギギギギィィィィィィィィン!!」
凄まじい衝突音が響く。
それだけだった。直後、周囲から音が消える。
誰も声を出さない。出せなかった。今までの攻撃は全て布石。
左右を巨大な前肢で塞ぐ。外へ逃げようとすれば触覚が襲う。
避け続けた消化液は、いつの間にか周囲に沼を作っていた。
一歩でも踏み込めば足を取られる泥の沼。
たった一瞬でも動きが止まれば終わり。
そして最後に、神速の突進。巨大な質量を乗せた必殺の一撃。
そんな攻撃を前にして、人間に出来ることなど何もない。
考えるまでもない。結果など決まっている。誰もがそう思った。
「理々杏……?」
博士の震える声が漏れる。
「理々杏?おい……理々杏?」
返事はない。
「り、理々杏!返事をしてくれ!」
博士には何も見えなかった。
ユーマが身体を縮めたと思った次の瞬間。
理々杏の上半身は視界から消えていた。
代わりに見えるのは。閉じられた巨大な顎だけ。
それが全てを物語っているように見えた。
それなのに。
博士はドローンの映像を切り替えない。
別角度から確認しようともしない。
彼女の背後へ回り込ませようともしない。
ただ。その場で固まっていた。無事を祈っているのか。
終わったのだと安心しているのか。
自分でも分からなかった。ただ一つだけ確かなことがある。
少し前まで続いていた退屈な日常は終わった。
これから先。何かが変わる。世界が変わる。
その予感だけが。彼の身体を小さく震わせていた。
理々杏が勝っても。ユーマが勝っても。
本来なら博士の世界は何も変わらないはずだった。
それなのに。なぜか彼は。
未来を待ち望むように画面を見つめ続けていた。




