あびて まみれて
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
は〜、やれやれ、今日もまたプールの授業は中止か。
聞いた話だと、23度以上の水温がないことには、安全面やパフォーマンス面で不安が残るらしいって話だ。
こうも汗が出る気温なのに、水温が低いのはどうも不思議な感じがするな。実際には、気温に釣られて水温も上がり出してるけど、午前の早い時間じゃ間に合わない、といったところみたいだが。
プールに限った話じゃないが、水浴びを好む動物はいる。
鳥がその代表例だろう。水に身体をくぐらせることにより、ホコリや寄生虫、余分な脂粉などを落とし、健康を保とうとするらしい。
水を砂に変えれば、鳥以外に馬などもまた、同じ目的で身体にまとおうとする。馬小屋に砂場があるのも、そのためだとか。
けれども、過去にはそれ以外の目的をもって、動物たちが「浴び」をしていた言い伝えがあるみたいなのさ。
俺が最近、じいちゃんに聞いたことなんだが、耳に入れてみないか?
むかしむかし。
とある青年が早朝に目を覚ますと、飼い猫の姿が見当たらなかった。
昨晩、寝る前は自分のかたわらで、身を丸くしていた。自身もそこに寄り添って眠るのを日課としていたし、目覚める時も猫はいつもそばにいてくれたんだ。
ぱっと起きあがり、囲炉裏の吊るされた居間を見渡す彼。ほどなく、彼の耳に小さく水をかく音が響いてくる。
まさか、と家を飛び出した彼の目に飛び込んできたのは、家に用意した水瓶のひとつ。農作業に使おうと、軒先に置いていたものの中で、おおいに濡れながら身体をばたつかせる、飼い猫の姿だったんだ。
およそ、考えられないことだった。
この猫は濡れることを極度に嫌う。以前に、雨はおろか青年の身体から散る汗の粒に対してさえ、鳴きながら距離をとる素振りを見せたんだ。
それがこうも、自ら忌避したことに身を浸そうとするなど……乱心したとしか思えなかった。しかも、猫は泳ぎ方を知らぬようで、ひたすら沈みたくないとばかり、やみくもに手足をばたつかせるばかり。
見かねた青年は、つい手を伸ばしかけるも、いったん引っ込めざるを得なかった。
暴れていた猫の手が、彼の指が近づいたところで、それを払うように手を振ったんだ。
爪を立てていたらしい。水を飛ばすのに続いて、短く甲高い音が立つ。瓶のふちには、真新しい白い傷がついていた。
結局、猫が暴れ疲れるのを待つしかなく、おとなしくなって瓶の底へ沈みかけてから、ようやく引き上げたのだとか。
家の中へ連れ帰るや、土間をしとどに濡らすほどのびしょ濡れ具合。見るからにぐったりしている猫だが、いざ青年が身体を拭いてあげようとすると、また極端に嫌がる素振りを見せた。
今までに比べて、あまりの豹変具合。ついに差し出した手拭いもろとも、手を引っかかれてしまい、青年も引くよりなかった。
土間の片隅で、自らが作った水たまりの中で座り込み、そのまま目を細めて、くつろぐかのような姿勢。
やはり近づくと嫌がってみせるから、青年は昼までの仕事が終わって、いったん家に戻ると、猫の足元へ小さい魚の干物を投げてやる。
それに対しては、すぐにもそもそと口へ運ぶ姿が見られたとか。
やがて昼過ぎ。
腹ごしらえを済ませた青年の耳へ、再び水音が飛び込んでくる。
今度は水をかく音じゃなかった。
しきりに屋根を叩き、壁を垂れ落ち、土の上で跳ねるもの。雨粒だったんだ。
「午後は濡れながらの仕事になるか」と、青年が居間の隅に転がしといた、笠とみのを取ろうと立ち上がりかけたとき。
うずくまり続けていた猫が、むくりと首をもたげた。
「おっ?」と青年が思う間に、猫は一足目でかまどへ、二足目で壁の中ほどへ、ぴょんぴょんと身軽に飛び上がり、足をかけていく。
猫の毛は、自然に乾くに向いていない。いまだ大量に残る水分を己の足跡として残し、屋根まで駆け上がる飼い猫。それを見て、とっさに青年の頭へ嫌な予感がよぎる。
予感はすぐ現実となった。
かやぶきの屋根の一部にとりついた猫は、何度も自分の爪を立て、さらに落ちゆく自分の体重でもって、一気に引きはがすことに成功したんだ。そこは以前、盛大に雨漏りをしてしまい、青年が補修をして、まださほど日を置いていない箇所だった。
逃げ道を得た雨は、開いた口から容赦なく降り注ぐ。その真下には、ちょうど青年の姿があったんだ。
突然の不意打ちを、青年はまともに頭で受けた。引き続き、滝のような勢いで降り落ち、板敷きの床で大いに跳ねて、なお版図を広げていく水の手に、彼も思わず憤怒の叫びをあげざるを得ない。
はぎ取った屋根の一部と共に、自分よりわずか離れたところへ着地する猫。それを見て、いまいちど、きつくしつけてやろうと手を伸ばしかける。
その動きを、青年はぴたりと止めてしまった。
雨が急にやんでしまったんだ。音どころか、屋根の穴から注ぎ落ちていた水たちさえも、たちどころに消えた。
いぶかしげに見上げる彼だったが、直後に屋根の穴からのぞくものがあった。
太陽にしては、それはあまりに青みがかっていたという。その、文銭程度の大きさをした球体が見えるや、たちまち家の中をむせるような暑さが満ちたんだ。
いや、これを「暑い」と評していいものか。
大小の水たまりとなって、居間の板敷きを占拠していた雨水たちが、次々に泡立ちだしたんだ。ほどなく、おのずから湯気を吐き出してしまうほどに。
それは濡れた猫も、青年にとっても同じ。重ささえ感じるくらいに、濡れそぼった肌に、ぷつぷつと泡が湧く気配がした。水の中へ潜ったとき、息と共に浮き上がるあぶくを肌に受けたかのようだったんだ。
ただ、猫をとがめようととっさに突き出し、ほとんど濡れていない左腕をのぞいては。
熱を感じたのは、数瞬だけだった。
青年はたちまち、自分の左腕から神経が失せるのを感じる。
熱だけじゃない。しびれもかゆさも、痛みさえも消え、だらりと力なく垂れさがり、こちらからのどのような指示も受け付けない。
その腕から立ち上るのは、水たまりたちと同じ、白い蒸気だった。だが、それもわずかな間だけ。
蒸気はほどなく白から黄へ、そして赤へと変わり出す。そこへ臭いも加わっていく。
それはどこか、夏場に捨て置かれた死肉の腐敗を思わせるものだったとか。
それもまた、瞬きの間だった。
青年が湯気を吐ききり、肌から水分のなくなった右腕を、左腕へ添えようとしたわずかな間。そのとき、左腕はもう青年の知るものではなくなっていた。
細く、黄ばみに満ちた、一本の枝を思わせる棒が肩から先にぶら下がっている。それは先ほどまであった彼の腕に変わり、肩とつながりながら、垂れているものだった。
軽くなでたつもりの、右腕との接触。それは変わらず、いうことの聞かないままでいる「枝」をたやすくはじいたんだ。
振り子のように前後へぷらぷらと振れる「枝」は、そのきしみを遠慮なく青年の耳へ届ける。やはり、一切の痛みも伝えないままに。
途方に暮れる青年が我に返った時、すでに自分を含め、しとどに濡れていたものは、すべてがすっかり乾いていた。
猫もまた同じ。すっかり水気を失い、やんわりと逆立つ毛たちを揃え、丸まりながら青年を見上げてきた。
そのまなこは、どこか憐れみを帯びているように、青年には感じられたとか。