人魚は仮初の夢を見る
何度でも、思い出してしまう。私がこの場所で初めて目覚めた、はじまりの日のことを。
闇の中、怖くて寂しくて、苦しくて消えてしまいたいような、そんな暗い感情をぎゅっと煮詰めたような、なのになぜか懐かしいような、そんなぼんやりとした、形のない世界から逃れるようにして目を開けた……そのときが全てのはじまりだったのだと、私は知っている。
目を開けても、あたりは仄暗くて。それもそのはず、私がうずくまっていたのは青い水で満たされた洞窟の中だった。
ぽつりぽつりと、透明な滴が浮かび上がっては溶けて消えていく。どこから現れるのだろうかと探したけれど、滴の出どころは見つからない。
そして、いつの間にやってきたのだろう。目の前には心配そうにこちらを見ている《彼女》がいた。
――よかった。目が覚めたんだね。……夢を、見ていたんでしょ?
ぷっくりとした唇が言葉を紡ぎ、首を傾げる動作とともに、綿菓子のように広がっている茶髪が揺れる。
――夢なんて不吉なもの、見ない方が身のためだよ。
大きな垂れ目をすっと伏せて、《彼女》は言う。さっきまで薄桃に色づいていた頰は色を失い、紡ぎだされた声は震えていた。
――夢は、怖くて苦しいなにかを、見てはいけないものを、あなたに……あたしたちに、見せようとするんだから。
ああ、《彼女》も同じ世界を知っているんだ。あの闇の中の、ぼんやりとした夢を。
嫌な記憶を振り切ろうとするかのように強く首を振って、赤くきらめくひれをゆるりと動かした《彼女》は、笑顔でこちらに手を差し伸べる。
――もう泣かなくていいんだよ。大丈夫。
言われてようやく、気がついた。青の中、ぽつりぽつりと浮かび上がる透明な滴が、私の目からこぼれたものであるということに。
――さあ、こっちにおいで。みんなが待ってるよ。
そう声をかけてくれた《彼女》に答える代わりに、私は瑠璃色の尾で水を蹴った。
光のある場所へ。かすかな話し声がさざめく外に向かって。
「なんでそんなにぼんやりしているの? あ、もしかして、寝起きだから?」
歌声が重なり響く広場の片隅で。私と《彼女》は、二人並んで座っていた。
「そうじゃないよ。はじまりの日のことを思い出してただけ」
ついさっきまで洞窟で眠っていたところを《彼女》に起こされたものだから、あまり気分はよくないし、《彼女》の言葉もあながち間違いではないのだけど。でも、いつ見ても変わらない夢と、起きたときに目の前にいる《彼女》と、透明な滴となって浮かび上がる涙は、まるっきりあの日と同じだったから。
どうしても、はじまりの日の光景が目の前に蘇ってきてしまうから。
「あはは、るりちゃんって本当に変わってるよね。変わってるというか、不思議な感じ?」
「え、そうかな……?」
とぼけながら答えつつも、自分が他の人魚たちとは違うという自覚はあった。自ら眠り、初めて目覚めた日を《はじまりの日》と呼ぶ人魚など、私しかいない。
ここにいる人魚たちは歌って踊ることを好む。広場の中央に目を向ければ、ほら。みんなが音楽を口ずさんで舞っている。ときどき休憩したり他の人魚と話したりすることはあっても、基本的にこの広場から離れることはない。
「ねえ、るりちゃん、一緒に踊らない?」
私の手を取って、《彼女》は大人びた笑みを浮かべる。普段なら、見てるだけで十分だからと断るところだけど、今は、目覚めたばかりだから。
「……いいよ。少しだけね?」
まだ、胸の奥のどこかに、残っている。夢を見た名残――もやもやと苦しい、なにかが。これを忘れようと思うなら、歌って踊るのが手っ取り早い。
「やった! あたしね、るりちゃんとペアを組むときが一番踊りやすいんだ。なんでだろうね?」
「さあ? 全然踊れない私とペアになりたいって、それだけでも不思議でしょうがないのに、それ以上の謎を投げかけられても困るよ」
答えながら、ついつい笑っていた。ころころとよく変わる《彼女》の表情は、本当に見ていて飽きない。今は子供のように無邪気な笑顔を見せていて、声もワントーン明るくなっているような気がする。
「まあ、たしかにね。あ、ほら、今なら入っていけそうじゃない? 早く行こう!」
「そうだね」
手を取り合って、ひれを強く動かす。広場の中央で輪になって舞っているみんなのもとに向かうと、みんなは「ルビーと瑠璃じゃん!」「こっちおいでよ」と場所を開けてくれる。人魚たちは、表面上は優しいのだ。
でも、実際にどう思われているのかは、耳を澄ませばすぐに分かる。
「今度こそ、踊る気になったのかな?」
「いや、瑠璃のことだから今回も気分なんだと思うよ。あの子がここにい続けるって、よっぽどのことがない限り起こらない気がするけどね」
「でもさ、明らかにおかしいじゃん。踊らない人魚なんてさ」
「そんな瑠璃を相手にしてるルビーも変わってるよね」
「そうかな、単純に瑠璃をこっちに連れてきたいだけなんじゃない?」
歌に紛れて、波のように押し寄せてくるひそひそ話。本人に聞かれていることに、話している人たちは気づかないんだろうか。
「るりちゃん、気にしなくていいんだよ」
くるり、音楽に合わせて動いた《彼女》の手につられて、私の体が一回転。
「別に、気にしてなんか」
「少しは気にしてくれないと困るな」
唐突に会話に割り込んできたのは、不機嫌そうな低い男の声。《彼女》の次によく話すけど、仲がいいわけじゃない、ひれが水色の《アイツ》。
「――ソーダ」
「夢は人魚にとって不吉なんだ。知らなくていいことを教えようとするからな。そんなもの、歌と踊りで忘れてしまった方が身のためだ」
忘れようと思っていた夢のかけらが、もやもやと胸の中に広がっていく。暗くて怖くて、陰鬱な。重たい、苦しい、得体のしれないなにかが。
思い返してみれば、そう。夢は思い出したくない、見たくない――はず、だった。だから私は今、こうやって踊っているのだ。そんなことになるくらいなら、眠りを避けたっていいはずだった。
でも、夢は、なぜか懐かしいから。
眠っているときに見る、形のない暗闇の奥底に、懐かしいなにかがあるような気がするから。
だから、私は眠ってしまう。なにかを追い求めてしまう。
「はあ。何回言ったところで、お前には届く気がしないな。別に強制して止めようとは思わんが、夢を見て傷つくのはお前だ。よく覚えておけ」
不穏な言葉だけを残して、《アイツ》は去っていく。ひれが重たくなってきたのは、踊っているせいか、それとも。
「……ルビー、ごめん。いったん休んでもいいかな?」
目の前で手を引き続ける《彼女》に声をかけると、「ああ、こっちこそごめんね!」と申し訳なさそうな声が返ってきた。
「踊り慣れてないと疲れちゃうよね。あたしはもうちょっとだけここにいるから、先に抜けてて」
「うん、ありがとう」
みんなの邪魔にならないように、広場の端へと退避する。岩場に腰かけて、遥か彼方の上の方から差し込んでくる光を眺めた。
「……結局、全然踊らなかったね」
「あんなに踊り慣れてなくてすぐ疲れちゃう人魚なんて、他にいないんじゃないの?」
「寝てばっかりの変な子だしね」
ひそひそ話が胸にちくちくと刺さる。
現実から逃げるようにして見上げれば、ここがぎりぎり光が届くくらいの深い場所だということが分かる。けれど、誰も上を目指して泳いでいくことはしない。海藻や貝、岩や洞窟に囲まれているとはいえ、それらを超えればどこまでも海は続いているのに、どこかへ行こうとする者もいない。
まるで、見えない鳥籠に閉じ込められているかのように、人魚たちはこの世界から出ていこうとしない。
どうして、踊ってばかりなのだろう。外には、なにがあるのだろう。
ふと浮かび上がった疑問は、気泡のようには簡単に消えてくれない。
「なら、答えを探しに行こうか」
どうせ、ここにいたって面白いことはない。それに、外へ行っても行かなくても、みんなの冷たい目線に変わりはない。だったら、別にいいじゃないか。
他の人魚たちの目が私からそれた瞬間を狙って、力強く水を蹴る。見えない鳥籠をたやすく突き破って、広場からぐんぐんと離れていった。
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「――大丈夫かい?」
聞いたことのない、優しい声で目が覚めた。低くて、ちょっとガラガラしていて、でも安心するような、心地いい声。
「……?」
どこから、聞こえてくるのだろう。
状況が摑めないままに辺りを見回していると、聞き慣れない声は笑いながら言葉を続けた。
「さっき、上の方から落ちてきてさ。覚えているかい?」
上の方……ああ、そうだ。
広場を出た後、上を目指してみたはいいものの、光が届く程度の深さしかないはずなのに果てしなく海は続いていて、だんだん泳げなくなって、気が遠くなって……なにも分からなくなってしまったんだった。
「いやあ、久々に驚いたよ。もう泳げるかい? 無理はしなくてもいいけれど、こっちまで来てくれると嬉しいな。ずっと見下ろしているのは性に合わなくってね」
見下ろす? じゃあ、この声の主は……。
ふっと目線を上げると、巨大な生き物が視界に飛び込んでくる。
「く、くじら……?」
「そうだよ。いさなっていうんだ。よろしく」
ぱちり、と。《いさな》と名乗るその鯨はウインクをひとつ。
「さて。もしよければこっちに来ないかい? きみも見上げ続けるのは疲れると思うんだ」
たしかにそうだ。もうすでに首が痛み始めている。
誘われるがまま水を蹴って目の前に行くと、《いさな》がいかに巨大な鯨であるかが分かる。私とは比べ物にならないくらいだ。
「人魚に会うのはいつぶりだろう? ぼくも名乗ったことだし、きみの名前を訊いてもいいかな」
小躍りしそうなくらいに楽しげな《いさな》の表情とは反対に、私は顔から感情が消えていくのを感じていた。
名前、か。
「私は――」
瑠璃です、と言いかけて、でも、言えなかった。
だって、この呼び名は、はじまりの日につけられたものだから。
洞窟から《彼女》と一緒に出ていったら、広場にはたくさんの人魚たちがいて。
――新しい仲間だ!
――ねえ、瑠璃色の尾っぽの女の子だよ!
――どんな名前が似合うかねえ。
たくさんの声にもみくちゃにされながら、考えていた。
……なまえ、名前……なんだろう、私の、名前は。
……名乗るべき名前がない。本来、持っているはずのものを、持っていない?
そう気づいたときには、私の呼び名は瑠璃に決まっていた。
――瑠璃色の尾っぽだから瑠璃!
――いいねえ! 瑠璃、よろしくね。うちの名前は……。
――ああ、わたしにも自己紹介させてよう! わたしは……。
目が回りそうになったとき、《彼女》がぎゅっと私の手を握って、笑いかけてくれた。
――びっくりしたよねえ。大丈夫?
なんとかひとつ頷きを返すと、私のことを気遣ってか、ゆっくりと自己紹介をしてくれた。
――あたし、ルビーっていうんだ。見て分かるかもしれないけど、ほら、あたしって尾が赤いでしょ? だから、ルビーなんだ。よろしくね。
申し訳程度に頭を下げて、よろしく、とかそういう返事を返した後。
私の目の前にやってきて最後に名乗ったのが《アイツ》だったことまで、よく覚えている。
――ソーダ、という。この尾の色がソーダ水みたいだから、という理由だな。ここに最も長くいる、まあ、まとめ役みたいなものだ。よろしく。
そして、顔も分からない誰かに手を引かれて、広場の真ん中で突然踊らされて、正直へとへとだった。心が空っぽになっていきそうな気すらしてしまった。
幸いにも《彼女》の気遣いによって踊りの輪から抜けることができたし、その後こっそりと洞窟に戻って、疲れたからと、もう一度眠ることもできたのだけど。
それ以来、夢の懐かしさを追い求め、眠ることがやめられなくなって、おかしな子扱いされるようになったわけだ。
「――私には、名前がないの」
「ええ?」
困惑したように、《いさな》は首を傾げるようなしぐさをした。そのくせ、なぜか声は明るい。
「なにか……あだ名みたいなものは?」
「それは、あるけど。でも……嫌いじゃないけど、私のものでもないって、そんな気がしてて」
「そうかあ。……うーん、でもきみのことを呼べないっていうのも困るからなあ。じゃあ、ぼくが別の呼び名をつけてもいいかい?」
肯定も否定もする前に、《いさな》は「人魚姫っていうのはどうかな」と笑った。
「人魚姫? 確かに私は人魚だけど……」
「きみは、『人魚姫』の童話を知ってる? 人間になるために美しい声を失った、人魚のお姫様の話さ」
ぐん、と《いさな》は巨大な体躯を揺らし、ゆったりと泳ぎ始める。
「人間に恋をしてしまった彼女は、人間になる薬を得て彼に会いに行った。薬を飲めば喋れなくなることも、愛する人と結婚できなければ自分が死ぬことも分かっていたのに、だね。彼女は愛する人に会うことはできたけれど、恋は実らなかった。だから彼女は死んで、天に昇っていった」
「は、はあ……」
説明されたところで、その話のことを理解することはできなかったけれど。
ただ、その人魚姫は、大切な人のために自分の大切なものを捨てたのだな、と。それだけは、なんとなくわかった気がした。
「童話の『人魚姫』は、声を失った。そしてきみは、名前を失っている。ちょっと似ていないかい?」
「そう、かな。……そう、かもね。じゃあ、私は人魚姫。よろしく、《いさな》さん」
「呼び捨てでいいよ。よろしく、人魚姫」
振り返ってこちらに戻ってきた《いさな》が差し出した胸びれに近づいて、そっと握った。想像以上に硬くて、冷たい。すぐ近くに見える《いさな》の白い腹から、かち、こち、と歯車のような音がする。そういえば、さっき握ったひれの色は、青かったけれど錆びたようにくすんでいた。
「ねえ。《いさな》って、機械なの?」
「おや、気がついたかい? 実はそうなんだよ。永遠にここにいるために生まれたから、なのかなあ」
横顔を見ると、《いさな》が笑みを絶やしていないことがよく分かる。話していることは、どこか残酷なようにも聞こえるのに。
「永遠に、って……」
「そうだねえ。下を、見てごらん」
「下?」
言われて見下ろして、言葉を失う。
「綺麗だろう?」
そこにあったのは、幾千、幾万も、数えきれないほどに広がる色とりどりの淡い光。どこまで続くのかも分からないほどに広い空間の、その端の方に、私たちはいたのだ。
「近づいて見ると分かると思うけど、ここには珊瑚がたくさんあってね。その枝に、たくさんの光たちが宿っている」
「しら、なかった」
「まあ、そうだろうねえ。人魚はこっちに来ないし、あの広場の中だけで完結する、狭い世界にいることを好むものだから。ぼくのことも嫌いみたいだしね」
「えっ?」
どういうことかと訊き返せば、「仕方のないことだよ」と《いさな》は語る。
「ぼくの役目は、この世界を見守りながら子守歌を奏でることなんだ。ここにいる光や人魚たちのためにね。昔はあの広場の方にも泳いでいったものさ。でも、人魚たちは寝ることを厭うから、今はもう行かなくなったんだよ」
「……子守歌?」
優しくて心地いいけど、でも、こんながらがら声の《いさな》が?
まったく想像がつかない。
「そうだよ、いつもここで奏でているのさ」
「聞いてみたい!」
私の言葉に、得意げだった《いさな》は困ったように唸る。
「そう言われてもなあ……。人魚姫、きみは夢を見ることに抵抗はあるかい」
「ううん。いつも自分から寝てるから。他の人魚たちにはいい目で見られないけどね」
「そっか……分かった。なら、大丈夫、かな」
ひとつ、頷くようなしぐさをして。《いさな》は「いいよ」と言ってくれた。
「ぼくの背に乗って。落ちないようにね。そのあと、子守歌を聞かせてあげよう」
「どうして?」
「ぼくが子守歌を奏でると、人魚姫も眠ってしまうからだよ。きみを眠らせていいものか、少し迷ったんだけど……どうしてもと言うなら、ね」
言われるがまま背に乗ると、《いさな》は再びゆったりと泳ぎはじめる。それと同時に聞こえてきたのは、歌というよりも、音楽だった。
他のなにかには例えようのない、不思議な、浮遊感のあるような――。
「この音、聞いたことない」
「ぼくのお腹の中には機械の楽器が入っていてね。胸びれを動かすと音が鳴るんだよ」
「さっきは、鳴らなかった」
「電源を切っていたからね。話しているのにきみを眠らすわけにはいかないだろう?」
「そう、だけど」
ああ、《いさな》の言う通りだ。
だんだん、意識が遠のいていく。
「ゆっくりお休み、人魚姫。大切な人に思いを馳せながら、ね」
大切なひと、に……?
そんなひと、なんて。
……わたし、には……。
---・---・---
いつもと、同じ夢だった。
どこにも形というものがない。
音もなければ、温度もない。光も影も見当たらない。
闇色の靄がかかったような、そんなこの世界には、ただ感情だけが存在している。
身も心も突き抜けて、骨の髄まで、胸の奥底まで染み込むような、負の感情だけが。
震えていた。凍えていた。どうしようもできずに泣いていた。
けれどそんなときに、ふとどこかから感じる懐かしさ。
この世界の、唯一の救い。私の拠り所。
ぬくもりにすがるように、その感情だけを追っていた。
……さっき《いさな》は、大切な人に思いを馳せてと言っていたけれど。
そんな人はいないと思ったけれど。
でも、このなにかは、とても愛しくて。
大事に抱きかかえていたいようなもので。
だから、違うかもしれないけれど、もしかしたら。
「――このなにかが、大切な人なの?」
靄の中から、一人の人間が姿を現す。髪の長い、女の人だ。
黒曜石よりも黒く輝いていて、吸い込まれそうな瞳。がさついているけれど血色のいい唇。なぜだか、見るものを惹きつけるような人。
その姿を、私は知らない。
けれど、その人は闇の中で、ほんのりと暖かな光を放っていた。
柔らかな笑みを浮かべ、こちらに向かって手を振っていた。
「――っ!」
いつの間にか、抱きついていた。
懐かしさが凝縮されて形になっていた。ようやく本物のぬくもりにすがれたのだと思った。
「あなたが、私の大切な人なの?」
その人は、何も言わない。
ただ、ゆっくりと私の頭を撫でてくれた。
「私、あなたに会いたくて、ずっとここに来ていたんだよ」
分かっているよ、と言いたげに頷いて、その人はそっと私のことを引きはがす。
そして、私の右手を優しく力強く握ると、どこかへと歩きはじめた。
「……どこに、いくの?」
答える代わりに、その人の右手がすっと靄を指さす。
次の瞬間。
靄は、ぐるぐると渦を巻いて、形を持ち、姿を変えて。
そして、目の前に現れた光景は。
「――っ!」
見たくない。
受け入れたくない。
逃げ出そうとしたけれど、隣で手を繋ぐその人が許してくれなかった。
『お願いだから』
初めて聞いたその人の声は、切実な響きを持っていた。
『逃げないで。……目を覚まさないで』
言葉に引き戻されるようにして、目の前の光景に目線を戻す。
すすり泣きの声が、あたりを満たしていた。
目の前の光景のなかで私は、隣にいるその人のことを揺さぶっている。
笑顔のまま目を閉じて動かない、倒れたその人のことを。
『なんで……! こんなつもりじゃ、なかったのに……っ』
――嘘だと思いたい。
――信じたくない。
私のその思いと呼応するかのように、目の前にいる私も首を振っている。
そして目の前にいる私は、なにかを探すようにあたりを見回して、そして――。
……。
……………。
これが現実だとするならば。
ならば、隣に立っているこの人は、そして私は……。
---・---・---
不思議な音が、響いていた。
「びっくりしたよ。自分から夢を見ると言っていたから、もしかしたら、とは思ったけど。過去を思い出せたんだね。きみは、自分と向き合うことができたんだ」
「《いさな》……?」
いつのまにやら、私は《いさな》の目の前に戻ってきていた。
「……ちゃんと話さなければならないね」
そう言って、ゆったりと泳ぎだした《いさな》のあとを、追いかける。泳ぐのではなく、滑るような感覚で。
「ここは死後の世界なんだ。珊瑚の枝で休んでいるのは、命を落とした魂たち。ぼくの子守歌を聞きながら生前の傷を癒して、生まれ変わりや完全な消滅を待っている」
「じゃあ、人魚は」
「そう。生前に思い出したくない記憶を持っている魂だよ。記憶を見たくないがために夢の中に押し込んで、記憶を失ったふりをして、真実を見ることを恐れている。嫌な過去を忘れたいから、眠らず歌って踊るのさ」
巨体を揺らして、《いさな》は笑って。
「――そうだろう、ソーダ?」
つい、とこちらを振り返った。
つられて私も振り返ると、そこには不機嫌そうな《アイツ》と今にも泣きだしそうな《彼女》がいる。二人を眠らせないためか、いつの間にか子守歌はぴたりと止まっていた。
「やっぱりここに来ていたか。しかも、記憶を取り戻した後だとはな」
「過去の自分を見ているようで気分を害したかい? かつてのきみも、人魚の世界に不満を抱いて飛び出して、ぼくと珊瑚の森を知って。でも、この世界についての知識を得たとき、きみは記憶を取り戻すことではなく思い出さないことを選んだんだっけ」
「うるさい、鯨め。少しは黙れ」
さらにむすっとした《アイツ》の後ろから、《彼女》がこちらに向かって泳いでくる。
「るりちゃん、急にいなくなって心配したんだから! しかも、これでお別れになるなんて、あたし、聞いてないっ……!」
――お別れ?
「きみは過去と向き合って記憶を自分のものにしたんだろう? だから、もう人魚じゃないんだよ」
……そういえば、《いさな》についていくときもひれを動かした感覚はなかった。
普段見ているはずの自分の手やひれを見ることができないのは、多分それらがもう、存在していないからだろう。
見えない糸に引かれるように、あの珊瑚の森に行きたいと思った。ほんのりと眠たいような、そんな気もする。
「……そっか」
人魚たちのことは、あまり好きじゃなかった。
でも、《彼女》と会えなくなるのは、寂しいな。
「ルビー、今までありがとう」
「あたしも、あたしもるりちゃんと一緒にいれて、楽しかったよ……っ」
だんだんと、目の前がぼやけていく。
……最後に、最後に一つだけ。
「ねえ、私の、本当の名前はね――」
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暖かくて優しい夢を見ていた。
機械の楽器が奏でる、不思議な音楽を聴きながら。




