はじまりは
一応言うと、郁は女子高生です。
『何か始まりそうじゃん!』
いやいや、主人公じゃあるまいし。結局、何も始まらないよ?
『良いなぁ、そんな夢見られて』
良いんだろうか、これ。まぁ、確かに面白い夢だったけど。何で見たのか知らないけど。
「郁」
ぼんやりと窓の外を眺めていると、声を掛けられた。目を向ければ、友人がいた。
「帰ろ!」
ニコッとする彼女に、そう言えば一緒に帰る約束をしていたな、と思い出す。…ああ、“彼女”は名前、何て言うんだっけ。不意に浮かんだ思考を頭の片隅に追いやってから、うん、と頷いて既に中身は入れ終えていた鞄を手に取り立ち上がった。
教室を出て、いつもの帰り道を友人と歩きながら、考えていたのは数日前に見た夢のことだった。何だか、懐かしい夢だった。隣で楽しそうに今日の出来事を話す友人に、適当な相槌を打ちつつ、あの夢のことを考える。幼い頃に戻っていて、実際は在りもしない兄弟がいて、大きな家にいて。何より、不思議なのは“彼女”だ。とても綺麗で、魚みたいだけどそうじゃない。穏やかで揺蕩う水のように、不思議な響きを持つ声をしていた。“彼女”のことは覚えている。それなのに、“彼女”が最後に教えてくれた筈の名前だけが思い出せない。
思い出そうとしても思い出せなくて、ふとした瞬間に「ああ、何だったっけ?」って思うけれど、どうしても思い出せない。
水…確か、“水”って入ってた気がする。他…他に“姫”…は入ってた、かも?水…姫…「郁?」
「ん?」
「話、聞いてた?」
「あー…ごめん、半分聞いてなかった」
「もう!」
呆れたみたいな顔をする友人に少し笑いながら両手を合わせてみせる。仲の良い彼女は「しょうがないなぁ」と笑って許してくれた。夢のことは取り敢えず置いておいて、彼女の話を聞こうと思ったときだった。
「誰か…誰か、助けて!」
悲鳴に似た子供の叫びが聞こえた。そっちに目をやれば、川の土手を少年が声を上げながら走っている。その少年の視線の先には、溺れているらしい少年がいた。
念のため、走っている少年のもとへ土手を下り、どうしたのかと問うと、川の傍で遊んでいたら弟が流されてしまったのだと言った。
誰かを呼ぼうと思ったが、急がなければ状況が悪い。何分、このニ、三日は雨が降っていた。そのために川は増水し、水位も少し上がっている。そして、流れが速くなっている。今は弟くんは浮いたり沈んだりしながら、何とか完全に沈んではいないが、その内力尽きれば直ぐに水に飲み込まれるだろう。
「早く通報するか、大人を呼ばないとー」
友人に言いかけた瞬間、少年の弟を呼ぶ声と同時に、もがいていた小さな手が水の波間に沈んだのが視界の隅に映った。
不味い、と脳が警鐘を鳴らす。考える前に、体が動いた。
「郁!?」
鞄を土手に放り投げ、驚いた友人の声を意識の端で聞いて、濁った薄茶色の水の中に飛び込む。一旦沈んで、浮上する。見渡して弟くんが何処に沈んだか探していると、一瞬指先が水中から出た。直ぐ様その付近に泳いでいき、潜って探す。雨水のせいか視界が悪い。それでも探していると、流されて行く影を見付けた。見失わないように手を伸ばして、少年を掴んで引き寄せる。目は閉じられていて、ぐったりとしている。
間に合わなかった?いや、まだわからない。早く、この子を岸に。
しかし、川の流れは思ったよりも速かった。どんどん流されてしまう。折角、助ける為に飛び込んだのに、このままじゃー…
『私の名を、呼びなさい』
あの声が聞こえる。穏やかな、不思議な響きの声。何だか懐かしい、あの声。言われるままに、“彼女”の名を呼ぶ為に口を開く。濁った水が流れ込んでくるが、喉の奥から押し出すように、“彼女”を呼んだ。
「ー…」
どうしても思い出せなかった“彼女”の名は、このときは不思議なことにするりと出て来た。
『なぁに?』
喉は水で埋め尽くされて、呼吸もままならない。だから、頭の中で願った。この子を、助けて。この子だけでも、助けて。
何故だろう、見ず知らずの子供に対して正義感とか自己犠牲とか、そんなものは持っていなかった筈なのに。
少し笑みを含んだ優しい声は言う。
『その子供も、貴女も、私が助けてあげるわ。…無茶をしては駄目よ、私の“契約者”』
もう、限界だった。息が出来ない。脳に酸素がいかない。思考も止まってしまった。
だけど、“これで大丈夫だ”と思う自分がいる。
意識を失う寸前に、美しく揺らめく尾を見た気がした。